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第12話『淀川』

枚方に伝承される「枚方の歴史を育む」というお話

2018年1月1日

<写真はクリックすると、スライドショーが楽しめます>


私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。尚、昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。今回は第12回目として、「淀川」の話を紹介します。

枚方の淀川
枚方大橋からの淀川(右:枚方市 左:高槻市)

【昔話】枚方の歴史を育む 淀川

枚方の西側を流れる淀川は、私たちに大切な「命の水」を与え続け、「母なる川」といわれています。

淀川は、琵琶湖とともに約400万年前ほど前に生まれたといわれ、75km流れて大阪湾に出てます。太古から流れ続けてきた淀川は、大和川とともに水と一緒に土や砂もたくさん運び、大阪平野を広げました。

このような働きを続けてきた淀川は、昔、遣隋使や遣唐使をはじめ、人や者を運ぶ役目をしながら、いろいろな文化を伝え、歴史も育ててきました。

今までの「ひらかた昔話」から、淀川との関わりを拾ってみましょう。

漢字やものをつくる技術七夕まつりなど、様々な文化を伝え広めたのは、大陸や百済の国から、海をわたり、淀川をさかのぼって、交野といわれた枚方地方に移り住んだ人たちでした。

平安時代には、天皇や大宮人・都人が淀川を上り下りし、景色の良い交野や渚院あたりで花見や狩りを楽しみ、後々に残る「古今和歌集」や「伊勢物語」など、すぐれた和歌や文章を書き綴りました。

また甲斐田長者の嫁の話では、嫁入りしてきたのは、淀川をはさんで向かいの摂津の国からですし、刈谷姫は九州へ左遷になった父を追いかけ、会うことはできませんでしたが、淀川を船で下り、蹉跎までたどり着くことができました。時代が進み、蓮如上人も摂津から淀川を渡り、出口に来ることがかなえられ、大阪中に仏教を広めました。戦国時代には、津田城城主も淀川を渡り、山崎合戦に参加しました。このように、枚方の歴史は、淀川と深いかかわりをもって、様々な足跡を残しています。

そして、淀川の水運が1番盛んで、枚方が賑わったのは、なんといっても江戸時代です。

大・小様々な通行手形を持った過書船(貨物および客船)が、一日に何百隻も淀川を行き来しました。京見物などをした人たちが帰りの記念にと、淀川下りに三十石船(客船)をよく利用したので、大阪・八軒家と京・伏見の中間にある「枚方浜」の鍵屋浦は三十石船の乗り降りをする客で賑わいました。枚方浜は、淀川水運の中心になる場所にあり、参勤交代で出来た枚方宿とともに、船の客や荷物の出入りを通して地方の文化がいち早く伝わり、枚方が栄えるもとになりました。

客船が出入りする鍵屋浦では三十石船が近づくと船頭さんが『ここは枚方鍵屋の浦よ 綱も碇も手につかぬ 鍵屋浦には碇がいらぬ 三味や太鼓で船止める』と歌い、そこに「くらわんか舟」が寄って来て『飯くらわんかい。酒くらわんかい。』と乱暴な言葉で食べ物を売った話は有名です。淀川の水運は、明治になるまでこのような形で続き、枚方も大変なめぐみを受けてきました。

昔の淀川は川辺が低い堤だったので、大雨のための被害を度々受けました。これは、明治に起きた淀川の一番大きな大水害の話です。

この大水害は1885年(明治18年)に起きました。毎年、6月は梅雨の季節ですが、この年は特に雨が降り続き、17日に淀川左岸の三矢の堤が切れました。続いて19日には、すぐに西側の伊加賀堤が145メートルも切れ、淀川の水が洪水となって、どっと地面や田畑に流れ込みました。

この堤の決壊で、切り口のそばの家々は、屋根に届く位の水につかり、そして、流れ込んだ水は寝屋川・河内平野・大阪市内へ広がっていきました。大雨はまだまだ続き、26日には洪水の追い打ちをうけ、7月1日には、伊加賀の堤が再び決壊し、大阪市内にたくさんかかっている八百八橋もほとんど失いました。

何度も被害をうけた人たちは、学校・神社・寺などへ避難し、家の修理や田畑の手入れをしました。伊加賀のそばの小学校は六か月休校で、子供たちは親類などに預けられたりして、不自由をしのぎました。

その後、この大水害をもとに、淀川の水害を防ぐため、国や大阪府が力を入れて、

①淀川の流れを真っすぐにして、大阪湾へ水を流す「新淀川」を造る。

②琵琶湖から流れ出る水を一定にして送り出すための調節をする「南郷洗堰」を造る。

③淀川から流れ出た水が、大阪市内へ入るとき、調節して流す「毛馬洗堰」を造る。

この3つの大きな改良工事が行われ、淀川の豊かな水資源を安全に利用することが出来るようになりました。

淀川はこのように長い歴史を持ち、枚方も深く結びついて文化や歴史が育ちました。今後も淀川は、新しい文化や歴史を刻んでいってくれるでしょう 。

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●淀川について●

淀川の源流は、滋賀県の山間部にある大小の川です。琵琶湖に注いだこの川の水は、瀬田川として流れ出た後、京都府に入ったところで名前を宇治川に変えます。

その後、桂川、木津川と合流し、淀川となって大阪府に入ります。この淀川と琵琶湖、それらに注ぐ川を全部まとめて、淀川水系といいます。

淀川水系は、滋賀県、京都府、三重県、奈良県、大阪府、兵庫県の2府4県にまたがる大きな水系で、琵琶湖の出口から大阪湾までの長さは75km、流域面積8,240㎢にもおよび、それらの全体の支流の数は965本で、日本一の多さです。

上流に琵琶湖があることに加え、三つの大きな支川はそれぞれ気候条件が異なることなどから、淀川は一年を通して流量が豊富な河川となっています。このため、古くから利水事業が盛んであり、現在も上水道用水をはじめ、農業用水、工業用水など、生活や産業に欠かせない重要な水資源として広く活用されています。水が豊かな一方で、大阪平野は勾配がゆるく平らな地形であることから、ひとたび大雨が降ると洪水の大きな被害に悩まされてきました。そこで、堤防を築いたり、川の流れを変えたり、川底を掘ったりといった治水事業が古くから行われてきました。現在では、それらの河川改修によって、淀川流域の安全性が向上し、流域の発展と人々のくらしを支えてきました。淀川は大阪の人々の命の水で、淀川を語ることはすなわち大阪を語るといえるほど、大阪を育んできた川なのです。

この淀川の治水とかかわった人物として

◇仁徳天皇・・・茨田堤(まんだのつつみ)を築く。(淀川の堤防の始まり)

◇桓武天皇・・・長岡京や平安京の造営の際、淀川水系の改修工事をしている

◇豊臣秀吉・・・太閤堤と文禄堤を建設。大阪城と伏見城の2つの拠点を結ぶ大動脈として、戦略の手段として作った堤防で、文禄堤は京都・大阪を最短で結ぶ京街道として利用され、現在もその跡が残る。

◇河村瑞賢・・・徳川幕府による淀川治水工事で安治川を開削。

◇ヨハネス・デ・レーケ・・・政府によって招かれたお雇い外国人技術者。(明治政府は鉄道や橋はイギリス、造船はフランス、治水や港の建設はオランダから技術者を招いた)当時、淀川の土砂流出により、船が入れなくなっていた大阪港の築港のため、淀川の砂防や改修工事を行った。

◇沖野忠男・・・明治の大改良工事で新淀川を作り、瀬田川洗堰や毛馬閘門を建設した。

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●淀川の施設・歴史的建造物・史跡・自然(主として枚方周辺)●

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●感 想●

淀川ですが、今年10月の台風21号で4年前と同じように淀川の水が堤防近くまで到達し、枚方・寝屋川流域の河川敷は見えなくなるまで全て水没してしまいました。前回とは違って3日間ぐらいで水は引きましたが、1週間後に淀川河川公園に行くとまだ芝は泥で覆われていました。我々にとって水資源として非常に重要な淀川ですが、自然の脅威もあることを実感させられました。

舟運が盛り上がっていますので、私も11月に八軒家浜~枚方までの「淀川歴史探訪の旅」を体験してきました。今回の写真はその時に船内からガラス越しに撮ったのも多く、見苦しいのもありますが、ご容赦ください。2時間余りの舟運でしたが、淀川について皆目知らないことばかりで、語り部の説明案内で淀川の歴史や施設、その魅力などを再認識することが出来ました。

「ふるさと枚方発見」の『枚方民話』シリーズも2015年に始まり、今回で12話になりました。枚方にまつわる数多くの民話を取材勉強する中で枚方についてあらためて知ることが出来ました。またその取材に当たっては多くの方にお世話になり、感謝に堪えません。今回、これまでのお話にもつながる総集編といえる「淀川」を取り上げたことでも一区切りつきましたので、今回で一旦、『枚方民話』シリーズは終了させていただきます。枚方に関する民話はこの12話以外にもまだまだありますので、また機会あれば取り上げたいと思っています。

≪枚方発見チーム≫ 坂本、福本、永井、松島、中村 HP作成:中村  

【挿絵の使用】
本HPの「三十石船」「枚方宿」の2枚の挿絵は、松愛会 守口門真支部の会員の木村逸郎様の作品です。使用にあたりご厚意に感謝いたします。


【参考資料】


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