第5話『 百済王の物語 』
・・大陸文化を乗せて・・
2016年4月1日
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私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。
尚、昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。
今回は第5回目として、「百済王(くだらのこにきし)」の話を紹介します。
白村江の戦いで敗れ、663年に百済は消滅
【 はじめに 】
今回の物語は、民話というより歴史を振り返ってみるという表現が合うかもしれません。西暦400年ころの朝鮮半島は、三国時代と言われ、高句麗・新羅・百済が存在しておりました。
その頃日本は倭国と言い、これらの国とも交流がありました。特に百済とは、白村江の戦いで天皇家が先頭に立って援軍を派遣するなど、親密な関係が続いていました。この戦いは結果的には惨敗を期し、西暦663年に百済は完全に滅亡してしまいました。
更に668年には、新羅が高句麗を滅ぼし、唐も追い出して半島を統一し、三国時代は終わりました。
百済から倭国へ(イラスト作成:坂本)
百済からの渡来人が暮らしたJR桃谷駅付近
現在のコリアンタウンの「百済門」
この時に百済最後の王様であった義慈王が、日本に送っていた二人の王子のうち、豊璋は帰国しましたが、禅広だけが倭国(日本)に残り、百済からの多くの亡命者とともに、大阪の難波地区を中心に百済郷とも言える居住地を得ました。
禅広はその後持統天皇から百済王(くだらのこにきし・・百済の王様と言う意味ではなく、苗字)と言う姓を頂きました。現在でもJR環状線の桃谷や寺田町周辺には名残が残っており、コリアンタウンがある生野区桃谷3丁目付近には、写真のような百済門があります。
また門の傍を流れる川は、現在は平野川という名前ですが、昔は百済川であったと言われています。今回の物語は、この時代から後の話として、枚方の昔ばなしに語り継がれております。
【 伝承されている物語 】
「白村江(はくすきのえ)」の戦いに敗れた百済の人々は、不安な気持ちで難波津の港に着きました。この人達を迎えたのは、百済が滅亡する前に日本に来ていた、百済の第二王子・禅広(ぜんこう)でした。早速禅広は彼らを朝廷に紹介すると、天智天皇は摂津国難波の土地を与えられました。その後禅広を中心として、一族はとても真面目に生活し、大陸の文化を伝えようと努力しました。この事で禅広は、持統天皇より「百済王」の姓を与えられました。これは渡来者の中でのリーダー的な活動を認められたことであり、百済王家が日本の重臣としての地位を確保したことにもなります。
時は過ぎ、百済王家も四代目の敬福(きょうふく)の時代となり、東北の陸奥守になった時です。東大寺の大仏さんが建立され、その仕上げの為の黄金が必要でした。入手の術が無く皆が悩んでいた時、陸奥の中部一帯から九百両(約13.5Kg)を掘り集めて奈良に送りました。
そのお蔭で、美しい見事な金色の大仏さんが、出来上がったのであります。
この褒美として、敬福は「河内守」を命じられ、枚方の地(当時は交野地区)の一か所に「中宮」と言う地名を付け、難波津に居た一族をよびよせたのであります。現在も「中宮」と言う地名で残っていますが、中宮とは北極星のある場所でもあり、宮中に仕える百済王一族の女官たちが「中宮職」と言うことからも、いつまでも光り輝ようにとこの地名をつけたのでしょう。
やがて敬福は一族に「ここらで先祖をまつり一族の暮らしぶりを報告できる寺を建てたいのだが、どうだろう。」と相談すると皆が大賛成で、「百済寺・勝曼荼羅院大伽藍」という見事な寺が建てられました。その後200年余り王一族に守られてきましたが、火災で全て無くなってしまいました。今も中宮には、国の特別史跡として「百済寺跡」があり、広い境内や大きな礎石から当時の立派な寺であったことが伺えます。そして同じ時期に「百済王神社」も寺の西隣に建立されました。百済と関係の深い桓武天皇は、度々この地を行幸されており、その石碑も神社に立っています。(完)
国の特別史跡・百済寺跡入り口 |
枚方八景の一つでもある、百済寺跡の松風 |
百済寺の南大門跡より史跡の全景 |
百済寺の想定図と、主要部分の史跡 |
遺跡調査で出土された百済寺の瓦 |
西隣りに建つ「百済王神社」 |
百済王神社の由緒の説明 |
桓武天皇が度々訪問されたことを残す石碑 |
現在の中宮地区の風景(百済寺跡より東方) |
第50代 桓武天皇
【 この頃の枚方市(西暦700年頃) 】
●「第50代桓武天皇(在位781年~806年)」と枚方
平城京にいた桓武天皇は、僧侶たちの政治への介入を嫌い、遷都を2度行いました。よく知られている京都の平安京(794年)の10年前には、京都府向日市の長岡京に遷都されました。
この地を選んだ理由として、真南に枚方の台地が臨め、そこには桓武天皇の母である百済の渡来人「高野新笠(たかののにいがさ)」と同郷である百済出身の人々が、多く住んでいたためと言われています。また明信という女性を大変気に入り「百済王等は朕(ちん)の外戚なり」(百済王の人々は、私の母方の親戚である。)と言われ、中宮の地には天皇在位中何度も訪問されていたとあります。百済王神社の境内には、それを刻んだ石碑も残っています。
また、長岡京への遷都の成功と、父の光仁天皇を敬って、枚方の地で中国式のお祈り「郊祠壇」が行われました。その一社が、片鉾本町にある杉ヶ本神社であると言われています。かつては神社の南に、小さな円丘が残っていたと言われています。神社境内の入り口には、「片鉾郊祀壇跡伝承地」の立札がありました。尚、もう一ヶ所枚方市樟葉の交野天神社でも「効祠壇」が行われたとの記録があります。
杉ヶ本神社の名前は、桓武天皇が片鉾村で弁当を食べ、お使いになった杉の木で作った箸を地面に刺して置かれたところ、これが根付き杉の木となり、長い間残っていた事から付けられました。
この神社には、村に流行病が蔓延したとき、通りかかったえらいお坊さんから、「阿弥陀さんが散らばっていなさるから、一ヶ所に集めて祀れば病は治る」と言われ、その通りにお堂を作りお祀りすると病がなくなったと伝えられている、どこにも無い珍しい「阿皆神さん」と言う名前の境内摂社が残っております。常夜灯の竿石の部分に、「奉燈阿皆神」と刻まれておりました。この時代の、神仏習合の名残りかもしれません。
長岡京跡(京都府向日市) |
「郊祀壇」が行われた杉ヶ本神社 |
珍しい「阿皆神」さん・杉ヶ本神社境内摂社 |
大垣内町の「百済王神社」鳥居
大垣内町の「百済王神社」拝殿と本殿
●もう一つの「百済王神社」
京阪枚方市駅の直ぐ近くの大垣内町に、きれいに掃除はされていますが拝殿の外壁は無く、柱のみが残ったもう一つの「百済王神社」があります。
こんな所に・・と言う感じの場所ですが、これは百済王氏の末裔である、三松(みつまつ)氏が百済寺焼失後も祭祀を続けていましたが、豊臣秀吉によって中宮の地を追われ、大垣内に居を移した時、その邸内社であったと言われています。百済寺跡の隣の神社と比較して、あまりの差に驚きます。
●「行基菩薩」と枚方
行基(668年~749年 奈良東大寺の大仏建立に貢献)が、朝廷によって民衆への仏教布教を禁じられた時代に、禁を破り近畿を中心に、橋や、ため池、生活困窮者のための布施屋(宿泊施設)、お寺などを作って行脚したのも、この頃であります。行基が建立したとされる49院のうち、枚方にも4社の記録が残っています。伊加賀町の救(枚)方院と、薦田尼院(ともに場所は特定できず)楠葉の報恩院、そして枚方最北の楠葉中之芝2丁目にある、久修園院であります。このお寺には、枚方の民話にもなっている大亀の話が残っており、その亀を神として崇めた「霊亀社」というお堂が建っています。
【亀の恩返し・・昔、藤原高房(795-852)と言う人が漁師につかまった亀を助けました。後日高房の子供が船から淀川に落ち、行方不明になります。この時、久修園院(釈迦堂)に向かって、子供の無事を必死にお願いしたところ、助けてやった亀が、子供を背に浮かんで来て助けました。その後子供はえらくなり、久修園院をわが氏寺として参詣を怠らず、幸せに暮らしました。・・と言うお話です。】
近鉄奈良駅前に建つ行基菩薩像 |
行基が建立した久修園院 |
淀川の大亀の民話が残る霊亀社 |
【 感想 】
歴史に対して特別の興味を持っていなかった筆者ですが、今回いろんな資料を基に、百済王氏に関係のある場所を調べてみると、大阪はもちろん京都・奈良、そして枚方市に多くの貴重な史跡が残っておりました。資料を手に場所を探し当て、その地に立って大昔の人々の生活を想像すると、ひと時タイムトラベルをしているような気分になり、すっかりのめり込んでしまいました。
今後も民話をきっかけにして、関連する場所を探し出し、訪れてみたいと思っています。
枚方発見チーム 中村、永井、福本、松島、坂本 HP作成:坂本
参考資料
・枚方風土記 和62年8月1日初版 発行者:枚方市企画部企画調査室
・新版 郷土枚方の歴史 平成26年3月31日 発行:枚方市教育委員会
・ひらかたの昔ばなし(総集編)平成16年3月31日 発行:枚方市 企画編集:枚方市伝承文化保存懇話会記録冊子
・枚方市史 第二巻
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