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私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話ずつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。
民話の第七回は「渚院」のお話です。京阪・御殿山駅から北東に10分ほど歩くと、渚元町に枚方市指定有形文化財の観音寺の鐘楼(しょうろう)・梵鐘(ぼんしょう)が保存され、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)の和歌の記念碑や渚院碑が建立されている「渚院跡」があります。ここは枚方を代表する史跡の一つです。
今回はその「渚院」のお話とその主人公の惟喬(これたか)親王【844~897年】が枚方と関わる2つのお話を紹介します。
なお、昔話の内容は枚方市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成いたしました。
渚院は、平安時代の初め850年ごろ文徳(もんとく)天皇の離宮(別荘)でしたが、惟喬親王にゆずられました。
惟喬親王は第一皇子で、天皇になるはずでしたが、弟の第四皇子の母が、このころ勢いのあった藤原氏一族から出た人だったので、「第四皇子を天皇にしよう」という人たちの意見から大きな争いが起き、第四皇子の惟仁(これひと)親王が、「清和天皇」になりました。
どうすることもできない惟喬親王は、悲しみや苦しみを和らげるため、親しい在原業平に守られながら、渚院で、十歳半ばから、二十歳過ぎまでの短い青春を送りました。
その渚院辺りへ、天皇や朝廷に仕える大宮人や和歌や文を書く都人たちが、淀川を船で上り下りし、大勢訪れ、「今日は、花見をして和歌をつくりましょう」「午後は、天の川ほとりへ散歩しませんか」「あしたは、鷹狩りに出かけませんか」などと、花見や見物をして楽しみ、狩に出かけたりして、多くの和歌や文を作りました。「古今和歌集」や「伊勢物語」など、後々の手本になる和歌や文章を多く残しています。
在原業平は、惟喬親王をいたわりなぐさめる温かさだけでなく、和歌や文を書くのにもすぐれていて、やはり多くの作品を残しました。
渚院の歌碑は、業平の和歌を石にきざんだ記念碑です。
世の中にたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
もし、世の中に桜の花がなかったら、いつ咲くのかとまってみたり、風がふき、雨が降ったりすると、花が散ってしまうのではないかと、心配することはいらず、人の心はのんびりするのだがなあ
これは、業平が天皇を桜の花にたとえて、親王が天皇になれなかったつらい思いを代わりに歌ったのでしょう。
この歌をうけて、紀有常(きのありつね)という人が、次のような歌をよみ、親王をなぐさめています。
散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにか久しがるべき
桜は人におしまれて散るからこそ、いっそういいのです。つらいことが、多い世の中も続いてばかりいません。美しく咲いた桜が散るのもあたりまえでしょう
紀有常という人は、親王のおじで、業平と同じように、親王のさだめをあわれに思い、たえず気にして守り続けた一人でもありました。
また、親王は川向かいの水無瀬(みなせ)にも離宮を建て、業平と秋の景色をながめ、和歌づくりを教えてもらったりして、何度も出かけました。
親王は二十歳をむかえると、常陸・上野(ひたち・こうずけ)の太守(たいしゅ)の役目で京や渚院を離れました。
太守の役目を終えた親王は、材木の食器作りを教え、「木地師(きじし)の祖」といわれました。それから三十歳を過ぎたばかりの親王は、「素覚(そかく))」というお坊さんになって、比叡山のふもとの、”小野の里”で静かに過ごし、時おり水無瀬にも出かけたとの事です。
その小野の里へ心やさしい業平が訪れ、渚院での思い出を語り合いました。
在原業平朝臣の和歌(古今和歌集)
わすれては夢かとぞ思う思ひきや
雪ふみ分けて君をみんとは
小野の里におられるので、どうしておられるかと正月にたずねてみると、すべてが夢のような気がします。このような深い雪をふみわけて、一人で暮らしておられる所で、わが君にお目にかかろうとは
【参 考】枚方市史第二巻 平尾兵吾『北河内史蹟史話』
京阪・御殿山駅から淀川への一帯は渚がつく町名が多いですが、これは「渚」とは河・海・湖などにおいて波が打ち寄せる所という意味です。
旧『枚方市史』にも「渚は、淀川筋の港湾都市としての特色が見いだされ」と記されていて、古くから淀川を往来する船が出入りし、文化の中継地として重要な位置を占めていたと考えられます。
京阪・御殿山駅から北東に10分ほど歩くと渚元町に「渚院跡」の史跡があります。
「渚院」は光仁天皇が宝亀2年(771年)交野に行かれたことで、皇室が交野ケ原と深い関係を持つ事になったのが始まりで、次の桓武天皇は樟葉の藤原継縄の家で身支度をされ、交野ケ原で遊猟した際に「渚院」を御旅所にしたといわれています。「渚院碑」には嵯峨天皇の「渚院を頓宮(御旅所)とす」と刻まれてます。
9世紀後半の時代背景が描かれている『伊勢物語』には、都から船で淀川を下ってきた惟喬親王と在原業平の一行が、水無瀬(島本町)の離宮に落ちついた後、淀川を下って「渚院」に入るくだりがあります。折から周囲は桜が満開だったので、狩りはそっちのけで美しく咲き誇る花を見て、酒を酌み交わし、歌を詠んだのです。惟仁親王との皇位争いに敗れて、惟喬親王も家臣の在原業平も不遇の中におかれ、「渚院」は悲しい遊興の場でもありました。
872年に惟喬親王は出家して、比叡山の麓で暮らされ、それ以後「渚院」は荒廃しましたが、その後、観音寺という真言宗のお寺として復活しました。お寺は明治3年に廃寺となりましたが、この観音寺の鐘楼と梵鐘は今も「渚院跡」に残っていて、枚方市有形文化財に指定されています。
いずれも枚方の地での惟喬親王のお話です。次に、2.と3.の津田地区でのお話を紹介します。
津田駅北からガードを潜り、マンション群を抜けると、住宅のすぐ裏に「影見池(かげみいけ)」があります。現在は90坪ほどのごく小さい池(沼)で、流れ込む小川もありませんが、常時水位の変わらない水をたたえていて、真菰(まこも)が水面を覆っています。
池の傍に『影見池と惟喬親王』という木の立て札があり、 そこには ”この影見池は、いつも清水を湛えていたので、惟喬親王遊猟のとき、見失った愛鷹が池面に写る姿から発見されたという伝説を残し、枯れることなく湧く水が惟喬親王の秘話を今に伝えている” と「津田財産管理委員会」から案内されています。
平安の時代は今の枚方市全域と交野市の天の川一帯は「交野ケ原」といって小高い丘やいくつもの小川や沼があって変化に富んだ土地でした。四季おりおりの装いをかえる木々や草花が咲き乱れる自然が豊かな所で、したがって鳥獣も多く天皇をはじめ多くの都の人たちの遊猟の地でした。影見池も昔はもっと広く、沼の周囲は高い木々の林になっていました。
さてこの時代に禁野の村に三本の足を持つ雉(きじ)が住みつき、近くの村々の畑の作物を荒らしまわり、収穫を待つ人々に嫌われていました。とくに前にある一足は鉄のように固く、追う人には向かって来て傷を負わしたことも度々でした。村人たちは「誰かこの雉を退治してくれないか」と願っていました。おりから、この地に鷹狩りに来た惟喬親王は、このことを聞き、退治することを承知しました。あっちこっちを探してやっとこの沼あたりで見つけ、鷹を放ったのです。しかし今一歩の所で逃げられ、せっかく放った鷹が林の茂みに入って分からなくなったのです。従者たちは林の中に分け入って必死になって探したのですが、鷹の姿は分かりません。しばらくして鷹の影が沼の水面にうつっているのが分かりました。よくよく見上げると鷹の組紐の大緒(おおを)が高い木の枝にからまっていて、飛ぶことができないことが分かったのです。高い木のために登ることもできません。
そこで弓の名人を召し出して、からまっている大緒を射切ることを命じられたのです。召された弓の名人はうまく大緒を射切って無事、鷹を手元に引き取ることができたのです。親王は大いに喜んで、その人に「大矢」と云う姓(名字)を与えました。
後、三足の雉は無事退治されました。いつとはなく人々はこの沼を「影見の池」というようになったのです。
国見山(くにみやま)を主峰とする津田の山々には、西に向かって清水谷と円通谷という深い谷があります。この谷のロー帯には奈良に都があった頃、畠田村(はただむら)という集落があったことが伝えられています。
当時、交野地方には六つの大寺が建てられ、その一つ円通寺は十三重の石塔や本堂、鐘つき堂などをそなえた立派な寺で、中宮の百済寺や隣村の尊延寺とともに人々の往来が盛んでした。山麓には多くの山桜の巨木があり、谷川にはきれいな水が流れ、沼にはカイツブリなどの水鳥の泳ぐのが見られて四季の風景は美しく、都の人たちを引きつけました。
平安時代、文徳天皇の皇子の惟喬親王は「渚」に別荘を持っていました。ことに春、秋の季節に交野ヶ原に遊ぶことを好みました。
山桜の美しく咲く春の一日、お気に入りの人達と馬と徒歩で丘を越え、小川を渡って渚からはかなり遠い円通寺の見える畠田村あたりまでこられました。当時このあたりは、交野ヶ原でも山すその一帯で禁野、牧野方面とはちがった趣のある所でした。春の陽光に桜花は輝き、畠田村を包む原には野花が咲き乱れていました。
一行はしばしの休みを円通寺に求め、住職に茶を所望しました。寺では早速お茶をたて年若い娘が丁重に接待したのです。寺のたたずまいや、あたりの景色はいたく一行を慰めました。満足した親王の一行は礼を述べ、寺を後にしました。
その翌年も同じ頃に、山麓の桜の見事であったことを思い出し、円通寺を訪れました。親王は去年接待に出た娘ではなく別の人であったのをいぶかんで「さる年世話になったあの娘はどうしているか」と尋ねました。住職は「あの娘はかわいそうに、去年の秋、ちょっとした病がもとでなくなりました」と申し上げたところ、親王は「まことにはかないことよ。冬の白雪が春になって消えるように」と目をとじて、つぶやきました。
のちに、このことを聞いた寺や村の人たちは、親王のやさしい心に感じいり、誰いうこともなく「あの娘はきっと雪の化身であったにちがいない」と話し合って「雪娘」という名で語られるようになりました。(岡澤新吾)
渚元町の「渚院跡」を拝観してきましたが、当時ここで惟喬親王や家臣の在原業平が桜を見て、酒を酌み交わし、歌を詠んだのだと思うと感慨深いものがあります。
枚方指定文化財の観音寺の梵鐘と鐘楼はきれいに保存されていましたが、津田の「影見池」は池の中に少しごみ等が捨てられていて、立て看板も汚れていたのでこれは残念でした。あらためてこのような貴重な文化史跡はみんなで守っていかなければならないと感じました。
今回の話の主人公の惟喬親王は枚方(当時の交野ケ原)で主に活動したのは20歳すぎまでですが、今回出てきた渚や津田の地でのお話以外に、「枚方での惟喬親王のお話し」で列挙したように他の交野ケ原の地でもいろいろなお話が現存します。
これからも親王は当時の交野ケ原の地で広く活動され、土地の人にも敬われていた枚方の地と強い絆の持つお方だったと思われます。
惟喬親王は枚方以外でも活躍されました。この世をはかなみ、都を出た親王は湖東の地の小椋谷(おぐらだに)[現在の滋賀県東近江市君ヶ畑町・蛭谷(ひるたに)町]に辿り着き、出家してこの谷で暮らすうちに、法華経の巻物の紐を引くと巻物の軸が回転するのを見て、ろくろを発明してその技術を近隣の杣人(そまびと)に伝授したので、ろくろを用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人の「木地師」が生まれました。
その後、小椋谷の地から日本全国に散らばっていった木地師たちは今日まで惟喬親王を木地師の祖神として奉っています。毎年、木地師発祥の地である蛭谷町では惟喬親王祭<蛭谷町自治会主催>が開催されています。
枚方発見チーム 坂本、福本、永井、松島、中村 HP作成:中村