2015年7月1日
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府道杉田口禁野線を東に歩いて行くとコマツ(小松製作所)の広い敷地があり、その隣には関西外国語大学があります。その門を過ぎたあたりから急に道幅が狭くなってきますが、この辺りから甲斐田(かいだ)地区です。旧の甲斐田は、上野・新之栄・須山にまで及ぶ大きな村でしたが、現在の住居表示で残っているのは、甲斐田町、甲斐田新町、甲斐田東町だけです。甲斐田町の道路は、いずれも細く曲がりくねり、集落の周辺には外濠のような川がありますが、これは外敵から集落を守るための地形をとっていたことを物語っています。
甲斐田の地区には、「甲斐田長者の嫁」の民話があります。甲斐田町の長泉寺には甲斐田長者の屋敷に祭られていたという甲斐田仏と呼ばれる小阿弥陀仏座像が本堂の脇壇に安置されています。
『大阪全志』には、「この甲斐田仏はもとは村人が、甲斐田長者が住んでいたという村の竹藪の中に小堂を建て、これを安置し村の氏神として崇敬されていた」としていますが、『枚方市史』では、「事実は氏神[八幡神社:現甲鉾(かこほ)神社]の小堂に安置されていたのを、明治初年の神仏分離で、長泉寺に移されてきた」とあります。
【昔話】甲斐田長者の嫁・・・・・口はわざわいのもと
昔、京が都になってまもない頃のことです。甲斐田の村の長者は、川向かいの摂津の村からよくできた嫁をもらいました。 が、どうしたことかこの嫁はだれに話しかけられても「はい」と「いいえ」の言葉しか言わないのです。これでは、長者の嫁としてやっていけません。嫁に来てまだ日も浅いこともあり、実家へ帰すことに決めました。長者が送っていく途中、交野が原付近に来ると「ケン、ケーン」と雉がなきました。それを聞くと、長者は弓を取り出し、矢を放ち見事に射とめました。すると、とたんに嫁が大声で泣き出すではありませんか。しばらくして泣きやむと、「もの言はじ 父は長柄の 人柱 雉も鳴かずば 射られまじものを」と、はっきりした声で和歌を詠んだのです。
長者は、びっくりして歌の意味をたずねますと、「雉も、あんな大きな声で鳴かなかったら、討たれなかったでしょうに」と言い、更に続けて、驚くような嫁の子供の頃の話をはじめました。
実は、嫁の父である巌氏(いわおし)は、近くの長柄川に橋をかける大工事の人集めをする命令をうけた、村長の一人でした。
ところが、この川は幅が極めて広く、橋を支える柱が洪水のたびに流され、なかなか橋が完成しませんでした。役人は困って村長たちに相談しました。
そんな時、嫁の父の巌氏が「人柱をたてるのがよいでしょう」と提案しました。しかし、人柱とは、生きたままの人を水底に沈めることなので、誰をどの様に決めるのかについて、役人も村長達も困っておりました。すると、また巌氏が、「それには、袴にツギ当てをした人がこの工事現場の傍を通った時、その人を人柱に選ぶとよいでしょう」と意見を出しました。
しかしこの時、巌氏は自分の袴にツギ当てがしてあるということに気づかず意見を述べたのでした。結果、自分の提案したことであり、とうとう人柱にされてしまいました。 この事で嫁の母は、悲しみのあまり病気になってしまいましたが、それ以後、父の失敗を教訓に、「余計なことは一切言わないように・・」と厳しく育てられたのだと話しました。
そうと判れば、普段は文句のつけようがない美しい嫁です。二人は垂水の郷でひと休みして甲斐田へもどり、その後は仲よく暮らしたということです。今、長柄橋北側の大阪市・淀川区の大願寺には、「長柄人柱巌氏碑」という記念碑が建てられています。(完)
【この頃の枚方(平安時代初期)】 「交野ヶ原」「淀川」について
交野(かたの)といえば、今日では交野市を指すが、明治29年までは現枚方市域の大部分を含む交野郡という広い領域がありました。
交野郡は大宝2年(702)頃に茨田(まった)郡から分割して設けられたもので、以後、交野といえば現在の枚方市全域のことを指していることが多く、その中央部を占める台地・低丘陵の部分は交野ヶ原と呼ばれていました。
その交野ヶ原の中心地は、現在の樟葉から禁野・中宮にかけての台地一帯で、この地は水田には適せず鳥獣が多く生息しており、長岡京・平安京からも近いため、桓武(かんむ)天皇を初め平安貴族たちが鷹狩などで頻繁に訪れています。
この場所に禁野(きんや)と呼ばれる天皇の狩場が設けられ、一般庶民が狩りをするのを禁じていました。今も枚方市内には禁野の地名が残っています。
平安時代には、天皇や大宮人・都人が淀川を上り下りし、景色のよい交野ヶ原で花見や狩りを楽しみ、後々に残る「古今和歌集」や「伊勢物語」など、すぐれた和歌や文章を書きつづりました。
文徳天皇の第一皇子惟喬親王(これたかしんのう)も交野ヶ原に渚院(なぎさのいん) という別荘を持ち、鷹狩や花見にしばしば訪れました。ここの桜は見事な美しさで、多くの和歌に詠まれました。惟喬親王の側近で歌人の在原業平(ありわらのなりひら)は、「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(『古今和歌集』)と詠んでいます。
また『伊勢物語』には、惟喬親王が在原業平と共に、摂津国水無瀬[みなせ]から淀川を渡ってやって来た時の様子が描かれています。甲斐田長者の嫁も淀川を行き来して足跡を残したと考えられます。
●感想●
・今回の話は『甲斐田長者の嫁』で平安時代初期の枚方の甲斐田地区の話になっていますが、この嫁の父親が「もの言はじ父は長柄の人柱 雉も鳴かずば射られまじものを」の 「長柄人柱」の巌氏です。「長柄人柱」は垂水の長者の巌氏が自らの失言で人柱になったという話でこれもよく語られているものですが、『甲斐田長者の嫁』と対になる話です。両方から見ると話しのつながりが良くわかります。
「甲斐田長者の嫁」の話は嵯峨天皇の時代とあり、「長柄人柱」の話は推古天皇の時代とも言われており、時代が繋がらない不明の点もあります。
・甲斐田長者の史跡なるものがなかなか見つかりませんでしたが、この度甲斐田町の長泉寺を訪れ、角田(すみた)住職様に甲斐田仏を見せていただきました。
お話を聞くと、明治初年の神仏分離で、氏神(八幡神社:現甲鉾神社)から長泉寺に移されたとのことでした。今も甲斐田仏の見学は多く、
『甲斐田長者の嫁』は ”口は禍のもと” という民話であるが、現在では思ったことを話す方がいいですよねと、笑ってお話されていました。
・今回、枚方の歴史を詳しく知りたかったので、インターネットなどで調べたが不十分だったので、 甲斐田近くの車塚の枚方中央図書館や、私の近所の香里ヶ丘図書館にも何度か足を運びました。
枚方に関するいろいろな書物もたくさんあり、大いに参考になりました。これを機会に簡単に書物が借りれる図書館利用も、特に我々シニアにはいいものだと感じました。
枚方発見チーム 坂本、福本、永井、中村 HP作成:中村