2017年7月1日
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戦国時代、織田信長は武将との戦いに明け暮れる一方で、宗教的に力を持っていた寺院との抗争も激しさを増します。特に蓮如(枚方の民話・第9話参照)が開祖した石山本願寺(のちに大阪城が築城される)とは、1570年から11年間の苦戦の末、地理的にどうしても欲しかった、この土地を手に入れました。
この頃、枚方地区には枚方、出口、招堤と3か所に寺内町が出来上がっていました。
一方津田城の二代目正忠の妹(正信の娘)は、天文年間(1532年~1555年)招堤寺内町・敬応寺の蓮淳(蓮如の6男)に嫁ぎ、石山本願寺と姻戚関係にありました。従って山崎の合戦の時、津田4代目城主正時は、招堤寺内町の人々を誘い、「本能寺」で信長を討ってくれた光秀側について参戦しますが、羽柴秀吉に瞬く間に敗れ、津田城、寺内町ともに終焉を迎えたのであります。
尚、津田城の言い伝えには諸説があり、史実は不明ですが、今回は民話として語り継がれている話を、紹介するものであります。
JR学研都市線・津田駅の東の方に見える山並みの北の端の小高いところが、高さ285mの国見山です。頂上近くの案内板には、1490年頃津田周防守正信が、この国見山を選んで山城を築いたとの説明があります。山頂に立つと四方が見渡せ、どこまでも広く続く景色は『枚方八景』の一つにもなっています。
1490年頃と言えば、戦国時代が始まり強い武将が戦った頃です。津田周防守正信は、国見山に立ち、「四方が遠くまで見渡せるし、ここは山々に囲まれているので、山城を築くのにとても都合がよい」と、村人の協力で津田城を築きました。また、山全体が城を守り、長尾などに城を守る砦も作られました。麓の館には周防守一族や主な家来が住み、山頂の城には殿様が住みました。見張り所や、攻めるにも守るにも大切な虎口も造られ、いざという時の「金つき堂」や馬のつなぎ場も設けられ、谷川の水を止めて水飲み場も作るなど、山城でしのげる様々な準備がなされました。
こうして築城された津田城では、初代・周防守正信、二代目・備後守正忠は、共に城の発展に力を入れました。
二代目の備後守正忠は、村の「講」や「座」に参加して勢力を伸ばし、また妹の織江さんは、寺内町の招提村・敬応寺の蓮如上人・六男蓮淳に嫁入りしました。その時八幡のダルマ山を持参金代わりにしたという話が残っております。
その後、三代目の後周防守正明の時に一番栄えました。五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)と言われる地方で力を持った三好長慶から「味方に付きなさい」と言われ、承諾すると牧野六郷などを与えられ、新田開発にも力を入れました。
一方、津田城を築く協力をした村人は、「半農半士」という農民と武士を兼ねた生活をしました。そのため「鐘が一つ鳴れば作業を止め、二つで食を取り、三つで武器を持って山頂に詰める」という何時でも山頂に駆けつける準備をしていました。
しかし、四代目主水守・正時の時代に目まぐるしい戦いに巻き込まれ、本願寺と関係のあった三好一族とともに、織田信長の攻撃を受け、焼け落ちてしまいました。その後、山のふもとの「本丸山」に館を築きましたが、「山崎の合戦」で明智光秀に味方したため、羽柴秀吉と戦って敗れ、主水守は姿を消しました。写真のような遺跡が発掘されています。これが平和な時代であれば、津田城はもっと長く続いたことでしょう。(完)
登山口の国見池では釣りを楽しむ人が |
津田城の土塁跡とその場に立つのぼり |
山頂への急な登り口 |
東西の尾根には細い道が出来ています |
西側尾根にある大きな夫婦岩 |
山道のそばに人工の石積みがあります |
発見された瓦(図録・枚方の遺跡より) |
津田初代城主・津田周防守正信の墓 |
津田城本丸山遺跡(図録・枚方の遺跡より) |
現在の招提元町付近は、浄土真宗の道場(敬応寺)を中心とする寺内町として建設されました。
将軍足利義晴から河内国牧郷内(かわちのくにまきごうない)の荒地を授けられ、1543年この地に南北2㎞、東西3㎞の境内の縄張りをして道場の地を定め、一堂を建立しました。そして、蓮如の六男、蓮淳(れんじゅん)を招き、津田城の城主の妹を妻とし、姻戚関係ができました。
この道場を中心に、東の低地に堤を築いて、御堂池(みどういけ)とし、周囲に土塁(土居)を築きました。また北から南へ大通りをとおして、各入口に木戸を構え、堂の前の通りから西へ民家を並べることで、招提寺内町が完成しました。その後蓮淳の堂に対して、本願寺の第10代法主・証如(しょうにょ)から本尊の開基仏(かいきぶつ)が授けられています。
しかし、羽柴秀吉と明智光秀との決戦の際、光秀からしきりに誘われていた津田城主正時とともに光秀側に加担したため、敗戦し、後に秀吉によって寺内町としての特権を剥奪され、1582年頃幕を閉じました。なお、敬応寺と称するようになったのは、1621年以降のことです。
同じ地区の他の町内は、街道に沿って町がほぼ直線的に形成されていますが、招堤地区はそれらとは対照的に、今でも網の目状に入り組んだ細い通りに、入母屋、切妻屋根の家屋が残っております。また、この地区内の路地は、車も行き来ができない程の幅で、行止りや、鍵状に曲がる道とともに、200~300m四方の区画に集落がまとめられています。
招提町の絵図(郷土枚方の歴史より) |
敬応寺を守る「御堂池」 |
現在の招提元町の狭い路地 |
日置天神社には、惟喬親王(844~897)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹の姿が見えなくなったので、日没を惜しんで、『日を止め置かせ給え』と天神に祈願したという伝承があります。中世におけるこの付近は、東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が豪華さを競っていたと伝えられています。
しかし、南北朝期の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、14世紀中頃には民家・堂塔ともに焼失しました。その後1543年頃、蓮淳を中心に当地区が寺内町(招提寺内町)として再開発された時、当神社を寺内鎮守として再建したと伝承されています。
この地は、日置山遺跡としても有名で、日置天神社境内とその周辺は、かつてタニシの貝塚があると言われていましたが、昭和57年の発掘調査により、中世の貝層をはじめ、溝・土坑などが確認されています。また、日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺構も検出されました。この神社の祭りには、写真のだんじりが出て賑やかでしたが、今日では秋祭りの日に合わせて公開のみされており、曳かれることはありません。
日置天神社の本殿 |
古代日置郷遺跡(図録・枚方の遺跡より) |
日置天神社の山車(秋祭りのみ公開) |
1582年に起こった「本能寺の変」の時、徳川家康は堺の見物を終え帰路の途にありました。信長が亡くなった知らせを聞くや身の危険を感じ、光秀軍に見つからないよう、苦労しながら三河に帰る際、どのルートをたどったのか諸説があります。多くの資料や小説では、津田から尊延寺に抜けたという説が多いのですが、交野市の伝承には、光秀関係の津田を通ると危険ということで、実は星田近辺で一時身を隠したとされる竹藪が交野市の妙見坂小学校横に家康ひそみの藪(写真)として残っています。
また星田、尊延寺から宇治田原を抜け逃げ帰る時、星田村庄屋の平井氏に世話になり、1615年の夏の陣では、平井氏の家に宿泊したといわれています。この時、旗をかけたとされる「旗掛け松」(写真)や、星田村の守りを固めていた領主の市橋長勝の功績をたたえた石碑「神祖営址之碑(徳川家康宿営の碑)」(写真)などもあり、この時代には徳川家康と、枚方・交野の地域が深く関わっていた事を証拠づける貴重な文化財となっています。
津田城の地形を実際に確かめたくて、急な尾根を歩き回り、道なき急坂を登ったりしているうち、とうとう転倒してしまい、顔を強打、出血で大変な目にあいました。それでも頂上まで登りきると、国見山からの絶景は、痛みを忘れるほどの見事なもので、「枚方八景」の一つとして納得できるものでした。
枚方の出来事を調べていくと、伝承されている遺跡・町名・建造物などがその時代に繋がっていることに驚きます。前作に登場の蓮如上人につながる敬応寺があり、そこは現在の招提元町で、かつての寺内町です。津田一族とも関係が深く、その寺内鎮守として日置天神社が建立されています。歴史を辿ってみる事は、実に興味深いものがあります。
枚方発見チーム 中村、永井、福本、松島、坂本 HP作成:坂本
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