「おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します」 集合場所の岡東公園に集まってくる元気印は、其処彼処で仲間を見るたびに新年の挨拶を交わしている。
今日は今年最初の1月例会恒例の初詣であるが、1996年6月からスタートした歩こう会(くらわん会)が、200回目を迎えた実に記念すべき日でもあり2重に『めでたい日』。しかも穏やかな日和にも恵まれた。今年も幸先がよいゾ。 定例の朝会が始まった。今年の初詣は欲張って地元の神社4ヶ所を廻る予定だ。正月休みによる運動不足で怪我の無いように柔軟体操で身体をほぐし、200回記念誌掲載用に3班に分かれて「 ハイ チーズ」。カメラを見つめる健康的で素晴らしい顔・顔・顔。
さァ出発。今年最初の一歩は岡東公園から西へ。谷掛脳神経外科横の細い道(万年寺山周道)からカトリック教会(クラレット学院うみのほし幼稚園)前の坂を上り、府指定天然記念物の『旧田中邸のむくの木(樹齢600〜700年、樹高21m幹回り5.4m)』を見上げながら細い路地を抜け、最初の目的地 『意賀美神社』に到着。「我々だけで占領か」と思ったが結構参拝者がいる。
枚方丘陵は最北端に「枚方八景 万年寺山の緑陰」として知られる、淀川を見下ろす万年寺山(標高37.7m)がある。この山は古くは古墳、長松山万年寺、お茶屋御殿、須賀神社、枚方小学校と様々に利用され現在は最高部に意賀美神社、一段低いところに梅林が広がる。式内意賀美神社(おかみ)は明治42年(1909年)に伊加賀の意賀美神社(低区配水池)、三矢の須賀神社(祇園社)、岡の日吉神社を合祀して現在の所に移された。二の鳥居の左側に長松山万年寺と刻む石標と先の崩れた十三重の石塔がある。
神社の隣、梅林のあるところは万年寺の伽藍跡らしい。35年前に植えられた梅林があるが季節的にまだ早い。その梅林を抜け1595年豊臣秀吉が建てた御茶屋御殿 その跡地の『御茶屋御殿跡展望公園』へ。眼下に広がる京街道、淀川や河川公園や高槻市まで見通せる素晴らしい眺望を堪能した後、急な坂道を下り住宅街の細い道を通り抜け枚方パークに向かう。
くらわん会会員の多くがその昔よく利用した枚方公園駅は殆ど変わらないが、周辺はマンション等が立ち並びすっかり様変わりしている。
枚方パーク入口付近で右折 京阪電車踏切手前で左折、京阪電車と並行に走る府道21号線(通称:八尾枚方線)沿いの歩道を対抗者に気を付けながらおよそ800m進み、国道1号線(通称:京阪国道)と交差する手前で左斜めの道に進路をとりガード下を潜ってすぐ左折、住宅街のやや上り坂を進んだら左手に『三洋電機研究所開発本部』の建物が姿を現した。やがて『翠香園ふれあい公園』。2回目の休憩をとる。住宅地の真ん中にあってトイレは完備され遊戯施設も新しくしかも車道から離れているので絶好の休憩場所だ。感心しているのは私1人ではないようだ。
再出発すると直ぐにグリーンバレー通りの押しボタン式のさだ小学校下交差点、青信号が短いので皆急いで渡る。いよいよ今日一番の難所短いが急な上り坂。気合を入れたお陰で?何とか中間地点までは来れたが最後の15mがきつかった。上りきった所が『さだ小学校』「小学生が毎日この坂を上って登校していればさぞかし足腰?が鍛えられるだろう」と想像せずにはいられない。一息つけたと思ったら今度は緩やかな下り坂。 「何故先ほどの急な上りとこの下りを相殺しなかったのか!」と姿の見えぬ宅地業者に文句を言いたい。十数年前まではこの辺りが山や丘、谷の連続であったろうと容易に想像がつく。
新興住宅街を抜け第二の目的地 菅原道真ゆかり『さだ神社』に到着。さだ神社は、縁起によると、901年(昌泰4年)2月、菅原道真が太宰府に左遷の途中、娘の苅谷姫は父を見送るためにこの地まで来たが、道真は既に出発した後で逢う事が出来ず、足ずり(さだ)して嘆き悲しんだので、この旧跡を「蹉だ山」と名づけられた。 951年(天暦6年)道真が自ら作った木座像を、村人がこの蹉だ山に社殿を造営し、祀ったのが神社の始まりである。
もともと境内には聖徳太子開基の伝承をもつ龍光寺があり、さだ神社の宮寺として明治初年の神仏分離令まで存続した。本尊の聖観音像や正和2年(1313年)の裏書きを持つ大涅槃図などは南隣の浄土院に移されている。 神社は1614年(慶長19年)大坂冬の陣の兵火により社殿は焼失したが、ご神体は無事であったため再建され[現在の社殿は1889年(明治22年)の改築]、現在に至っている。素朴で小さな神社だが手入れが行き届いている。ここで今日2回目の200回記念誌用集合写真を「パチリ」。
撮影後神社の裏を抜け住宅街には似合わないだだっ広い道を真っ直ぐ進み、突き当りを右折老人介護施設『グランダ香里園』横の道を上ると『創造の森公園』。更に少し歩いたところが今日の昼食場所『こうりのもり公園』。小高い山にあるこの公園に何故か不釣り合いな(失礼!)立派な吊橋もあり、しかも整備が行き届いているので子供達には絶好の遊び場であろう。が、今日のお昼はくらわん会が占領。高台にあるので吹き曝しを心配していたが実に穏やかで寒さも気にならない。皆一斉に弁当を広げ出した。
昼食後は香里丘陵の谷を右折左折を繰り返しながら進んでいたらいつの間にか寝屋川市に入っていた。やがて第三の目的地 應神天皇がご祭神の『友呂岐神社』に到着した。友呂岐とは、鞆呂岐とも書き古代から皇室の荘園で、御祭神は応神天皇(3-4世紀)別名大鞆別命で、鞆は天皇のお姿の形容、呂岐は神を表す語でトモロギの語源のようだ。もとは八幡神社と呼ばれ郡地区の氏神だったが、明治時代に三井の氏神社、太間の菅原神社、田井の二本松神社など旧友呂岐村の神社が合祀され現在のように変更された。こじんまりしているが社務所もありここでも皆神妙に手を合わせている。
いよいよ最後の目的地に向かって聖母女学院の周囲を廻るように進み、遂に『成田不動尊』に到着。『大本山成田山新勝寺』(千葉県成田市にある真言宗智山派の寺)の別院であることから正式名称を『成田山大阪別院明王院』と云い本尊は不動明王。鬼門除けの寺としても交通安全祈願の寺としても有名で、また節分祭の時は「福は内」のみの連呼でも有名である。三箇日から既に1週間が経っているがやはり参拝者、そして車と一緒にお参りする人が多い。我々はお参りする前に境内で解散したが、勿論皆今年の祈願のため不動明王に向かった。お疲れ様でした。
<取材:勝川、橋口、小郷、冨田> |