第153回松愛会静岡支部合同歩こう会レポート
                                            2019/3/26(土)

 第153回 静岡支部合同歩こう会レポート
 今回は名鉄・東岡崎駅を起点に、「東海道岡崎宿・二十七曲りや八丁味噌蔵めぐり」と銘打って1590(天正18年)徳川家康の関東移封後、岡崎城主となった田中吉政が、外敵からの防衛のために、城下を通る東海道を屈折させて造り上げた岡崎宿二十七曲り、数多くの史跡や道標、開運スポットを「金のわらじ案内柱」を頼りにめぐる、約8.5kmのウォーキングでした。

■ コース順路・見どころ【昼食場所・・岡崎市図書館交流プラザ前の伊賀川河川敷】
名鉄豊橋駅 ==東岡崎駅 →満性寺 →二十七曲り碑・冠木門 →金のわらじ案内柱 →根石寺 →徳王稲荷金比羅社→
伝馬町常夜灯 →備前屋本店 →伝馬歴史プロムナード碑 →岡崎信用金庫資料館前 →籠田総門跡 →田中吉政の像 →
岡崎市図書館交流プラザ前 /昼食休憩 →伊賀川沿い遊歩道 →板屋稲荷神社 →カクキュー八丁味噌 →八丁蔵通り→
矢作橋 →蜂須賀小六・日吉丸出合いの像 →勝蓮寺前 →矢作橋駅 === 東岡崎 == 名鉄豊橋駅《解散》 

■ 江戸から数えての39番目の宿場である岡崎宿は家康の祖父、松平清康が岡崎城を居城として以来、城下町として発展した。さらに、天正18年(1590)岡崎に入部した田中吉政が東海道を城下に引き入れ、様々な整備拡張を行い宿場町岡崎発展の原形を成した。天保14年の数値でみると人口・家族では東海道53宿のうち第7位、旅籠屋数では第3位の東海街道有数の宿場町であったことがうかがえる。

□ 各地で桜が咲き始め、花見シーズン到来の3/30 (土) の朝、会員、友人合せて15名が/名鉄
豊橋駅の3番線ホームに集合。9時45分発の岐阜行き特急電車で東岡崎駅へ向う。
 下見の時に見付けた、駅構内の広場でリーダーからコース説明、白石支部長の支部活動に関する
説明をお聞きした後、満性寺に向けスタート。



 【 名鉄 東岡崎駅 】

  

東岡崎駅構内で説明を聞く参加者

  

東岡崎駅構内で説明を聞く参加者

  

東岡崎駅構内で説明を聞く参加者


□ 駅前を北へ約100mほどで、乙川に架かる明代橋のたもとに着く。橋を渡って右岸沿いに進むと間もなく満性寺に到着。乙川沿いの桜も咲き始め、河川敷には一面に花見客のシートが敷かれていた


【 明代橋 】

  

乙川に架かる明代橋からの景観

  

乙川に架かる明代橋からの景観          乙川右岸沿いの景観     

  

満性寺の山門           満性寺の境内

◆ 満性寺 
 親鸞聖人の孫弟子了専の創建で、足利尊氏の開運祈願や松平氏などの帰依を受けて発展し、巨大なモミの老木は寺の歴史を感じさせます。本堂をはじめ太子堂、鐘桜門などは、いずれも300年以上の歴史をもつ江戸初期の建造物です。


【 満性寺

  

満性寺の山門              満性寺の境内

  

満性寺の境内

満性寺境内での集合写真

満性寺境内での集合写真    

  

□ 満性寺の境内を散策、集合写真を撮り終えて、再び乙川の右岸道を進む。東海道(国道1号)を東へ行き根石町の交差点を右折すると、100m余りで旧東海道に建つ、二十七曲りの碑・冠木門に到着。

 【 冠木門 】

  

冠木門                二十七曲りの碑


二十七曲りの碑冠木門での集合写真

二十七曲りの碑冠木門での集合写真

  

◆ 二十七曲りの碑・冠木門 二十七曲りの出発点にあり、石碑を見ると当時の曲り角の多さがわかる。冠木門は要所にあったという木戸が再現されている。

◆ 岡崎二十七曲り 岡崎城主田中吉政が、外敵からの防衛のために、城下を通る東海道を屈折させて造り上げた岡崎宿、二十七曲りを巡るコース。数多くの史跡や道標、開運スポットや至るところにある「金のわらじ案内柱」を頼りに巡る。

【 興津川渡し場・古戦場跡 】

  

二十七曲りスタート前に説明を聞く参加者        二十七曲りのモニュメント   

  
岡崎城下二十七曲りの説明柱         1つ目の金のわらじ案内柱  

◆ 根石寺 
 開運の守り本尊がある寺院で、家康公が天正元年(1573)の初陣の折、訪れて祈願し、軍功をあげている。

  

根石寺


◆ 金のわらじ案内柱 統一的なルート案内として平成19年に設置が開始された二十七曲りのコース案内柱。柱の上にある「金のわらじ」が目印。

  

金のわらじ案内柱

◆ 徳王稲荷金比羅社 
 家康公も弓の稽古で訪れたという通称「徳王神社」。徳王稲荷と金比羅社の二社が合祀されている。境内には藤棚があり、4月下旬から5月下旬にかけて「藤まつり」が開かれる。

  

金比羅社の鳥居              徳王稲荷社の鳥居

◆ 伝馬歴史プロムナード碑 
 伝馬交差点から伝馬通り1丁目の交差点にかけて伝馬通りの何北両歩道に並ぶ20基の石彫。東海道の中で3番目の規模を誇った岡崎宿の宿場町伝馬ストーリーを伝え知ることができる。

  

岡崎宿伝馬歴史プロムナード碑            お茶壺道中の像    

  

   朝鮮通信使の像            東海道二十七曲りの説明柱

◆ 岡崎信用金庫資料館
 赤レンガと地元産御影石を組み合わせた印象的な建物は、本格的なルネッサンス様式を取り入れた鈴木禎次氏が手掛けた建築。世界の貨幣など「お金」にまつわる様々な展示コーナーを設けてある。なお、免震工事に伴い2019年2月25日(月)~2020年冬頃まで休館中でした。

【 崎信用金庫資料館 】

  

 岡崎信用金庫資料館

◆ 籠田総門跡
 天正18年(1592)徳川家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し、東海道の城門出入口として籠田・松葉の総門を建てた。

  

      籠田総門跡            岡崎城主・田中吉政の像


◆ 伊賀川の桜並木 
 伊賀川は岡崎城のすぐ西側を流れる小さな川です。 岡崎市の東側の丘陵地帯から流れ出し市の中心部をぐるりと取り囲むように東から北、そして西側へと回りこんでいます。岡崎公園や乙川・伊賀川などにソメイヨシノ約800本が植えられています。
 特に伊賀川は見頃になると桜がトンネルの様になり、岡崎を代表する桜の名所となっています。岡崎の桜といえば岡崎公園が知られていますが、伊賀川の桜も風情があり人気です。
桜のトンネルは数キロ続き、桜まつりの期間中は夜はライトアップが実施され、散歩コースとしても魅力が高いです。桜が咲き始めた伊賀川沿いに建つ、岡崎市図書館交流プラザ前で昼食・休憩しました。

【 伊賀川の桜並木 】

  
伊賀川の堤

  

昼食後のひと時を過す参加者

  

昼食後のひと時を過す参加者

  

昼食後のひと時を過す参加者

  

昼食後のひと時を過す参加者

岡崎市図書館前での集合写真


岡崎市図書館前での集合写真


◆ 岡崎市図書館交流プラザ
 2008年11月1日、岡崎市中心部の康生地区に開館した。建設地は1999年に戸崎町へ移転した岡崎郵便局や、岡崎スポーツガーデン(プールやスケートリンク、ボウリング場などの跡地で、市の市街地活性化計画により手狭だった明大寺町の岡崎市立中央図書館を移転する計画を立て2006年に着工、2008年に完成した。裏手には伊賀川が流れる。


【 図書館交流プラザ 】

  

岡崎市図書館横の広場            岡崎市図書館交流プラザ


◆ 産湯の井戸
 天文11年12月26日(1542)に岡崎城内で誕生した竹千代君(家康公)の産湯にこの井戸の水が用いられたことから、開運スポットにもなっています。2015年に井戸の水を汲み上げ、直接水に触れられるようになりました。

【 産湯の井戸 】

  
産湯の井戸


◆ 岡崎城天守閣
 徳川家康時代の岡崎城には天守はなく、家康の関東移封後に城主となった田中吉政によって最初の天守は築かれました(詳細は不明)。その後、1617年(元和3年)に本多康紀が城郭を大改修して3重4階(地上3階、地下1階)の複合式望楼型天守を築きましたがこの天守は明治6年(1873)の廃城令によって廃城となり、明治7年(1874)に解体されました。
 現在建てられている復興天守は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリートで再建されたもので、内部は歴史資料館となっています。なお、この復興天守は名古屋工業大学の城戸久教授による設計です。

【 岡崎城天守閣 】

  
岡崎城天守閣
  

     岡崎城天守閣            岡崎城天守閣を背に二人のお姫様

                

◆ 岡崎城の石垣
 現在の岡崎城の基礎は、家康が関東移封となった時、豊臣の重臣・田中吉政が5万石の城主となって改修を行いました。当時は慶長6年(1601年)までに城下町を作り、堀と土塁で城を囲う総構えを作ります。
この田中吉政は関ヶ原合戦では東軍につき、石田三成を捕らえた功績によって筑後柳川35万石を与えられることになります。また、菅生川の南を通っていた東海道を城下に引き入れることで、東西約 1.5km、南北約 1km の大城郭となりました。城の南側にある乙川沿いの石垣は、切れ目なく400メートル続いていて、直線に続く城の石垣としては国内最長といわれています。

【 岡崎城の石垣 】

  

岡崎城の石垣

岡崎城の石垣

  

◆ 岡崎城のお堀 
 龍城堀は木々の緑の中に神橋の朱色が美しく映え、噴水の水辺は訪れた人の憩いの場所となっています。堀を渡る神橋は正面に岡崎城を臨み、絶好の撮影スポットとなっています。 

【 岡崎城のお堀 】

  

岡崎城のお堀

  

◇ 岡崎城周辺の散策を終えて八丁味噌の蔵通りへ向う。伊賀川沿いの河川敷は花見客のビニールシートが一面に広げられていました。

  
伊賀川沿いの花見客

◆ カクキュー八丁味噌
 八丁味噌は、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある岡崎市八帖町(旧・八丁村)で、江戸時代初期より、旧東海道を挟んで向かい合った2軒の老舗が伝統製法で造り続けている豆みその銘柄です。大豆と塩のみを原料に、大きな杉桶に仕込み、天然の川石を山のように積み上げて重石とし、天然醸造で二夏二冬(ふたなつふたふゆ)以上の間熟成させます。 味は大豆の旨味を凝縮した濃厚なコクと少々の酸味、渋味、苦味のある独特の風味が特徴です。

  
カクキュ八丁味噌

  

カクキュ八丁味噌

◆ 八丁蔵通り
 黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土壁の色彩の対比が特徴の「八丁蔵通り」。伝統的な地場産業が息づく町並みです。岡崎城から八丁(約870m)離れていたことからその名がついた八丁村(現在の八帖町)は岡崎の名物、八丁味噌の生産地。
 昔と変わらず現在でも、2軒の蔵元が八丁味噌を造っており見事な蔵屋敷が並ぶ狭い路地には昔の風情が残っています。かつて味噌仕込み用の蔵として使用され、現在は史料館となっている大蔵は、国の有形文化財に登録されています。
岡崎市の観光拠点でもあるこの地域は、連続テレビ小説「純情きらり」の舞台にもなりました。

  

八丁蔵通り

  

八丁味噌カクキュの蔵


◇ 八丁蔵通りから国道1号に出て西へ。矢作川に架かる矢作橋を渡り終えると、上り車線のたもとに大きな石像があった。「蜂須賀小六と日吉丸出合いの像」である。国道1号の地下道を通って、勝蓮寺前から旧東海道へ。ウォーキングは大詰めになり、足早に名鉄本線・矢作橋駅へ向いました。

  

矢作橋                 矢作川

名鉄・矢作川鉄橋

◆ 蜂須賀小六と日吉丸出合いの像
 日吉丸は、木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、八才の頃から奉公に出されましたが十二才の時、奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家に帰ることも出来ず、東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。その時、蜂須賀村に住む小六正勝『後の蜂須賀小六』という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし、矢作橋を通り掛りました。そして、通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は「頭をけりて、一言のあいさつもしないのは、無礼である、わびていけ。」と、きっとにらみつけました。
小六は、子どもにしては度胸があると思い「手下にするから、その初手柄を見せよ」と、言いました。日吉丸は承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柄の木によじ登り、邸内に入り、扉を明けて小六たちをひき入れました。
 目的を果たし、逃げようとした時、家人が騒ぎ出しました。日吉丸はとっさに石を抱え、井戸に投げ込み「盗賊は井戸に落ちたぞ。」と、叫び家の人たちが走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六達の一行について行きました。(日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と武将蜂須賀小六の人間均一側面を語る物語として、乱世の時代をかいま見る挿話となっています)

  

蜂須賀小六と日吉丸出合いの像             勝連寺参道     

□ 反省会 今回は2018年度最終の「静岡支部歩こう会」でした。朝から曇り空でしたが降雨の心配はなく、ウォーキングには適した天候でした。参加者全員が元気に完歩したことを労って豊橋駅で解散しました。解散後、写真のメンバーの思いが一致し、駅ビル地下の居酒屋でチョッとだけ、反省会を済ませてから帰途につきました。

【 反省会 】

  

居酒屋で恒例の反省会

居酒屋で恒例の反省会

  

レポーター:幸岡          
 コース案内:菅沼利之  写真の提供:野神 ・幸岡   
  


次回は 平成31年4月27日 (土) 開催!

~ 浜松市!静岡県立浜北森林公園の散策と花の舞酒造の見学 ~
天竜浜名湖鉄道・岩水寺駅  午前10時00分 集合!
歩行距離は 約9kmの予定です。下見の結果で若干のコース変更もあります。