第145回松愛会静岡支部合同歩こう会レポート
2018/12/22(土)
第145回 静岡支部合同歩こう会レポート
今回は ~ 東海道の歴史と薩埵峠からの富士山・駿河湾の眺望 ~ と銘打って、JR興津駅を起点に日本橋から17番目の宿場・興津宿から薩埵峠を超え、間の宿・西倉沢を散策。望嶽亭藤屋、小池邸を見学しJR由比駅に至る、約8kmのウォーキングでした。
◇ コース順路・見どころ【昼食場所・・薩埵峠入口広場】
JR興津駅前 →宗像神社 →旧身延道 →興津川右岸の堤 →興津川古戦場・渡し場跡石碑 →興津大橋 →
瑞泉寺碑七面常夜灯 →長山平秋葉山常夜灯 →薩埵峠入口(広場で昼食・休憩)→山の神展望台 →駐車場 →
間の宿西倉沢 →望嶽亭藤屋 →小池邸 →JR由比駅 《解散》
◇『松愛会静岡歩こう会』は1998年に支部結成と同時に誕生し、20年が経過しました。今日まで会員をはじめ、ご家族のご支援とご協力を得て、152回開催しました。心から感謝を申し上げます。今回は昨年10月に計画しましたが開催当日、降雨で中止したコースです。
◆ 季節は晩秋から初冬の気配が感じられる11/24 (土) の朝、会員、奥様、友人合せて19名がJR興津駅の駅前広場に集合。リーダーの挨拶とコース説明、初参加で熱海市在住の吉井会員
(東部地区役員)の挨拶と自己紹介に続いて、白石支部長から当面の支部活動に関する説明をお聞きした後、集合写真を撮り、身支度を整えて宗像神社に向けスタート。
【 JR興津駅前 】
興津駅前 リーダーの説明を聞く参加者
リーダーの説明を聞く参加者
リーダーの説明を聞く参加者
集合写真
集合写真
◆ 興津宿:1601年に東海道の宿場となり、身延・甲府へ通じる交通の要衝として栄えた。身延道入口には3mもある題目碑、道標や常夜灯がある。身延道とは、日蓮が開いた身延山久遠寺への参詣道で、東海道からは岩淵、由比、興津の三つの入口があり、この道標にも示されている万沢で合流する。江戸方面は岩淵、京方面からは興津が利用されていた。興津から13里(約51k)
【 興津宿 】
◆ 宗像神社:東海道からの参道入口に『女体の森 宗像神社』の石柱が建つ。女体とは、祭神がオキツヒメという女神であること、霧に覆われた神社の森が海上の漁師に女体に見えた説などがある。興津の地名もオキツヒメ由来説や奥津、つまり湾の奥に位置する津(港)などの説がある。漁師は、黒松の森を目印にして漁場の位置を確認していたという。境内には大きな木が多い。
【 宗像神社 】
◇ 参拝を済ませ境内を散策後、来た道を少し戻り旧身延道に出る。東海道線の踏み切りを横断して旧街道らしい街並みを歩いて行くと、現代の身延道である、国道52号に出た。コンビニに立寄り、各自思い思いに買い物を済ませ、興津川の右岸に向かった。
【 旧身延道 】
◇ 興津川の堤ある、サイクリングロードを北上。少し行くと、道路の片隅に『興津川渡し場・古戦場跡』の石碑があった。興津川は、山梨県境の田代峠にその源を発し、黒川、布沢川、中河内川などの支川を併せながら静岡市清水区東部を流下し駿河湾に注ぐ二級水系です。流域は、静岡市清水区の両河内、小島、興津の三地区にまたがり流域面積は約120平方キロメートル、幹川流路延長は約22kmです。
◆流域の歴史:興津川流域は、戦国時代末期に武田信玄の駿河への進出により武田、今川、北条の合戦場となった地であり、横山城、薩埵山砦や和田島砦などの史跡が残されている。武田氏の進攻の折、甲州街道(身延道)が整備された。江戸時代には東海道や身延道などの街道が通り興津、由比、蒲原は宿場町として栄えたことから、この地域は本陣跡などの名所・旧跡が残されている。
東海道五十三次では、興津は17番目の宿場町で、大井川と同じように東海道興津川越しが行われていた。現在は興津東町公園内に川越し(川会所)跡が残されている。興津川河口部付近には江戸時代に朝鮮通信使が宿泊した興津清見寺があり、多くの文化財が残されています。
◆ 渡し場跡:江戸時代から川渡し制度があって、明治8年に「浦安橋」が完成したことにより、制度は廃止された。当時は木造でしたが、昭和7年にコンクリートの端に架け替えられ、「興津川橋」と新たな名に生まれ変わりました。
◆ 古戦場跡:正平6年(1351)足利尊氏と弟直義を破った戦。また、永禄11年武田信玄の駿河侵攻による今河氏真との戦い。この戦いで横山城主・興津宗鉄は城と運命を共にした。続いて翌年、今川氏救援の北条氏司武田氏の戦いの跡があります。
【 興津川渡し場・古戦場跡 】
◇ 堤防沿いにさくら並木を横目に行くと、『興津大橋』のたもとに到着。全長200mの橋を100mほど行って右折し、『瑞泉寺・七面常夜灯』前に到着。前の道は、旧東海道です。
◆ 瑞泉寺:幽玄院日近が正保2(1645)年に創立。江戸末期までは漢学の道場とされていたが、火災等のため古い記録は残っていない。天保2(1831)年に見事な七面堂が建立されたが貧村貧寺であったために維持できくなり朽ちるままに崩壊したという。
昭和30年に位堂を新築した折、かつての七面堂の用材や彫刻物の一部が出てきたのでそれを新堂宇に活用した。昭和49年に本堂を、60年に庫裏を改築し、その間墓地を拡し境内を整備して寺観を一新した。
境内に幕末の頃、薩埵峠から移転されたという棹丈130cm程の碑がある。当時東海道旅の難所であった薩埵峠での殉難霊位の供養のためと旅の安全祈願のために建立されのもで、3段の台座には250人に及ぶ寄付丹精者の名前が刻まれている。
【 瑞泉寺 】
◇ 瑞泉寺の七面常夜灯前で休憩の後、昼食場所の薩埵峠の入口まで、登りがつづく約900mを途中に点在する「長山平の秋葉山常夜燈」や「往還坂」の碑などを横目に通過し、薩埵峠入口の休憩所に到着。
【 「長山平の秋葉山常夜燈」や「往還坂」の碑 】
◇休憩所横の広場にシートを敷き、思い追いに昼食のひと時を過した。たっぷり、休憩時間を過し、今回のコースのメーンである、「薩埵峠」へ向かった。
【 休憩所横の広場 】
昼食のひと時
昼食後のひと時
昼食後のひと時
昼食後のひと時
昼食後のひと時
昼食後のひと時
昼食後のひと時
◆ 薩捶峠:東海道由比宿と興津宿の間に位置する薩埵峠。古くから旅人が行き交うこの峠は、その急峻な地形から東の箱根峠越え、西の鈴鹿峠越えと並ぶ道中の難所でした。今もなお、薩埵峠は、東名高速道路、国道1号、東海道本線が1箇所に集中し、日本の東西交通の要衝となっています。歌川広重で有名な浮世絵さながらの絶景の富士山の眺望が最高!!
【 薩埵峠 】
◆ 間の宿 西倉沢:薩捶峠の東坂登り口の間の宿で10軒ばかりの茶屋がありました。旅人は駿河湾の風景を見ながら、お茶を飲み、疲れを癒しました。川島家は、江戸時代からおよそ230年間、川島助兵衛を名のった名主です。大名も休憩したので、本陣と呼ばれていました。
【 間の宿 西倉沢 】
◆望嶽亭藤屋:薩埵峠の東口ふもとにあり、室町時代末期にはその名を残しています間の宿として脇本陣・茶屋として多くの文人墨客で賑わいました。磯料理が名物の茶屋で、離れ屋敷からの富士山の眺めが格別なことからこの名が付きました。慶応4年、官軍に追われた山岡鉄舟を望嶽亭の主人が蔵屋敷で漁師に返送させ、隠し階段から海岸へ逃がし、船で清水まで送り、清水の次郎長にその身柄を託したそうです。その時、鉄舟が残して行ったフランス製のピストルが歴史を物語っています。
【 望嶽亭藤屋 】
◆ 小池邸:由比地区で長年名主をつとめた小池家の母屋は、明治期に建てられたもので、建物の外観は低い軒の瓦葺き、正面の潜り戸付きの大戸、格子など当時の寺尾地域の民家の面影をよく残しています。大戸の脇には、平瓦をならべ四隅を留め、目地に漆喰をつかったナマコ壁も見られます。軒先は、腕木を突き出し外側の柱面より外に桁を出した「出し桁造り」となっており、深い軒を支えています。内部は、たたき土間と六畳の整形四間からなる田の字形四つ目取りの部屋、大黒柱の建つ伝統的な民家の造りです。また、建物の外回りの石垣は、百年前の美しさをそのままに残します。
◆ 小池邸の水琴窟:江戸時代中期の庭師が考案したとされている音響装置です。当時は、豪農や豪商の家に多く設えてあったもので、地中に埋めたかめの中で響く水滴の音が地上にかすかに漏れ聞こえてくるのを楽しみます。かすかな音ですので、静かに耳を澄ませてみてください。備え付けの竹筒を使えばよりよく聞こえます。
【 小池邸 】
◇ 今回は「静岡支部合同歩こう会」と掲げたものの、残念ながら中部地区からの参加者は皆無でした。由比駅で参加者全員の完歩を労って解散。下見の日に見付けた、駅前のお店で窪田さん、石井さん、野神さん、和田さん、佐藤さん、加藤さん、幸岡の7名は、味しいビールを飲みながら、反省会のひと時を過した後、帰途に着きました。
【 反省会 】
次回は 平成31年3月30日 (土) 開催!
~ 岡崎市!東海道岡崎宿・二十七曲りと岡崎城めぐり ~
名鉄・豊橋駅 / 3番線ホーム 午前 9時35分 集合!