142回松愛会静岡歩こう会

 戦国ロマン ~ 北条・今川・武田・徳川・井伊ゆかりの地を巡る ~と銘打って、NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で一躍有名になった場所を含む、焼津市内の史跡探訪を設定しました。

2017/5/28(日) 

 2017年度 (第20回) 静岡支部年次総会が開催され、新体制の下に支部活動がスタートしました。そんな中、2004年4月から2017年3月末まで、13年間の長期に亘り歩こう会の世話人を務められた、西部東地区の野神会員が退任されました。
 後任は2002年4月から2003年3月末迄の2年間、世話人を務めた経験がある西部東地区の幸岡がリリーフ登板することになりました。「後期高齢者」ですが、皆様のご支援とご協力を得ながら務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

〔今回のウオーキングコース〕
 ◆スタート駅:東海道線 焼津駅  ◆ コース距離 / 約9.2km
焼津駅北口→天皇神社→瀬戸川堤→ふるさと大橋→青木の森の碑→石脇城址・城山八幡宮→日本坂PA・ふらっとパーク→旗掛石・石脇浅間神社→ゴロタの石道→鳴沢不動尊→石脇公園→井伊直孝産湯の井→若宮八幡宮→瀬戸川堤→入江橋→焼津駅北口《ゴール》


◆ 年間計画では5月27日(土)に設定していましたが、世話人の事情で5月28日(日)に変更。それが悪影響したのか、「支部合同」と銘打ったものの、中部地区・東部地区からの参加者は皆無でした。その結果、西部西地区と西部東地区からの参加者12名が焼津駅北口広場に集合。りーダーの挨拶とコース説明の後、白石支部長から「支部活動について」説明を聞いた後、天皇神社を目指してスタート。

【 写真 】

  

JR焼津駅駅舎                リーダーのコース説明

  

説明を聞く参加者

◇ 天皇神社 御祭神:後醍醐天皇
由緒は、子文書及び棟札に明らかな通り、文政5年9月16日創建天皇系96代後醍醐天皇を奉祀する。それ以前は、この村の住民士族1戸平民48戸に依り産土神として祀られて来たものと推察されている。

  

天皇神社

  

天皇神社でパチリ

天皇神社で集合写真を撮りました!

◆往古神霊後醍醐天皇の七皇子宗良親王 八皇子懐良親王の二皇子が遠江国より駿河国に渡らせし時阿倍郡の住人狩野介貞長及び入江蒲原等の諸族が親王の御舟を迎え奉りて暫時この地に館を建て、住まわしめたことあり里人がその徳を敬慕し後醍醐天皇を勧請して今に至る。その地御所の松と地名あり由緒の神社である。思い思いに参拝を済ませ、集合写真を撮った後、『青木の森、青木神社跡』に向う。

  

瀬戸川河川敷右岸             瀬戸川右岸

  

瀬戸川河川敷右岸            ふるさと大橋

◇ 武田・徳川軍の激戦地 寄鼻古戦場 《青木の森の碑・青木神社跡》
焼津市浜当目の寄鼻古戦場は、戦国時代の天正6~10年(1578~1582)頃に武田・徳川軍の合戦が繰り返された場所です。当目砦(焼津市浜当目)近くの青木の森(サッポロビール静岡工場付近)は、多数の戦死者埋葬した塚が築かれていました。

   

青木の森の碑               サッポロビール工場

 室町時代末期(戦国時代)の永禄11年(1568)甲斐(山梨県)の戦国大名 武田信玄が今川氏真の領国 駿河(静岡県中部)へ侵攻。永禄13年(1570)1月8日 武田信玄・勝頼親子が花沢城(焼津市)を攻略。元亀元年(1570) 武田氏は当目坂を監視するために当目砦(焼津市浜当目)を築造。周辺は、武田・徳川家康軍による合戦が行われた古戦場です。

 戦国時代の天正7年(1579)9月19日、徳川軍が武田水軍の拠点、持舟(静岡市)駿河区用宗の攻略に先駆けて、当目砦を攻略しました。金網のフェンス越に青木の森 青木神社址の由緒を読んでから、次の目的地の石脇城址へ歩を進めた。

  

東益津幼稚園横の小川              石脇城址の標柱

◇ 石脇城址 築城年代は定かでない 文明年間(1469~1487)に今川氏の客将となっていた伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)が石脇の地を与えられて住んでいたことから、伊勢新九郎の居城であったと考えられている。
長享元年(1487)塩買坂にて戦死した今川義忠の家督相続争いでは竜王丸を支持し、その功により富士郡下方荘十二郷を与えられ興国寺城に移り廃城となったという。

  

石脇城址             石脇八幡宮参道
  

城山稲荷社              大日堂

  

大日堂の参道              城山の山頂で一息

  

城山の山頂で一息

 石脇城は大日堂・城山八幡・城山稲荷が祀られた標高30m程の丘陵に築かれている。
大日堂が建立されている部分が最も高く、北側に土塁があり、大日堂から北東側の果樹園の中には北東端にも土塁が残っている。南の尾根は10m程下がった所にあり、墓地や城山八幡が祀られている。

  

城山八幡宮

今回の昼食・休憩場所は、東名高速道路の下り線 日本坂PAふらっとパーク です。
昼食後のひと時、思い思いにふらっとパークから日本坂PAの売店で買い物を済ませて集合写真を撮り終えてから近くの石脇浅間神社を訪れた。

  

ふらっとパークでのひと時

  

ふらっとパークでのひと時

  

ふらっとパークでのひと時

  

ふらっとパークでのひと時             ふらっとパークで全員集合!

ふらっとパークで全員集合!


◇ 石脇浅間神社と旗掛石
焼津市の旧東益津には、城跡・由緒ある神社・寺など多くの旧蹟が残されている。高草山の山麓が自然の要害として、陣を張り易かったのか、人々が多く住み着いたのでは・?と思われる。その中で、

《石脇浅間神社》
石脇にある浅間神社は延徳3年9月、徳川家康の三河時代からの家臣・原川新三郎が、郷里原川村から浅間神社を勧請して、この地に奉斎したものと伝えられていると言う。
【 写真 】

  

  

石脇浅間神社

《旗掛石》
徳川家康公が武田軍との戦いの際に石脇の原川新三郎の家を本陣とし、その門前に並んだ2つの大きな石の神に勝利祈願したと云われています。大御所時代には度々この地で
鷹狩りをし、その際に原川家を訪ねて石に旗を立て掛け、力を示したと言います。

  

旗掛石

  

石脇探訪絵図                 旗掛石

 このため、旗掛石と呼ばれるようになりました。今も石脇の浅間神社横にあり、しめ縄
が張られ大切にされている。 巨大な石を観察した後、『ゴロタの石道』を通って『鳴沢不動尊』へ向う。

◇ ゴロタの石道
東名高速日本坂下りパーキングエリアがある石脇周辺は、忘れられた遺産の宝庫です。「ゴロタの石道」もその1つ。石脇の民家や農家の間にひっそりと道があります。石脇の城の山が道にぴょっこり出てしまっているので、道路だとかなり迂回しなければなりません。そこで近道としてこの道ができた....と思われます。 

  

ゴロタの石道

  

ゴロタの石道

  

ゴロタの石道

 状況から見ても昔からある山道を地元の人が子供や老人でる通れるよう、かなり前に市に整備してもらったと、説明板にあった。近道ということで、100m程の距離ですが、山道気分をあじわえます。
東名高速の高架を潜り抜けて少し先の八幡神社の境内で休憩後、鳴沢不動尊へ向う。

  

高崎八幡神社


◇ 鳴沢不動尊
由来 高草山の中腹、標高約100mの岩盤の割れ目から水源もないのに湧き出る大量の水は、まさに霊泉と呼ぶもので、この水は滝の沢になり流れ落ちる水の音から「鳴る沢」と呼ばれ「成沢」の地名がつきました。

不動尊の建立年月は定かではありませんが、今から1000年以上の昔にある偉い僧侶がこの地に立ち寄られた際にこの沢の清らかな霊泉に強くお感じになられ、不動明王をお祀りなされたと伝えられています。

  

鳴沢不動尊

  

鳴沢不動尊


 滝不動様は子供に知恵を授け、子供の病気、はやり病い等に霊験あらたかで平癒のお礼に「左鎌」を奉納するという信仰習慣があり、現在でも不動尊のお堂には沢山の左鎌が奉納されています。参拝を済ませてから1.6km先の石脇公園に向って出発。途中、高草山石脇入口バス停付近の休憩所で小休止。昼食場所だった日本坂PAの高架を潜り抜け、葉桜の下に流れる小川の畔を歩いた。

  

 石脇休憩所でのひと時

  

風邪口坂の地蔵尊             ハイキングコース案内図

  

高草山入口バス停             石脇公園前の小川

  

石脇公園前の小川              石脇公園から高草山の眺望


◇ 井伊直孝の出生と「産湯の井」
井伊直孝(1590~1659)は「徳川四天王」の一人と称えられた井伊直政の次男です。あるとき、直政は東海道を通ったおり、岡部宿本陣へ泊りました。そこで、中里出身の美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。

直政は娘をたいそう気に入りました。その後、天明18年(1590)娘は男の子を出産。この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」として、中里で大切に伝えられています。

  

井伊直孝産湯の井

  

井伊直孝産湯の井

井伊直孝産湯の井前


◇ 江戸幕府樹立の立役者・井伊直孝
直孝の幼名は弁之助と言い、小さいころから度胸がすわっていて、誠実で裏表のない性格で、少年のころ家に忍び込んだ盗賊を退治した話や、招き猫の由来となった言い伝えなど、多くの逸話が残る人物でもあります。
 父の直政は戦場で「井伊の赤鬼」と恐れられましたが、息子の直孝も大変勇敢で戦術に優れ、大坂夏の陣では大きな功績を上げて、「井伊の赤牛」の異名を誇りました。直孝は徳川家康から絶大な信頼を得て彦根城主となり、家康に続く将軍・秀忠の遺言で、三代将軍・家光の後見人に指名されるなど歴代の将軍の信任が厚く、戦場だけでなく、徳川幕府の内政や外交にも大きな力を発揮して、譜代大名の中で最大の領土を与えられました。
 寛永6年(1629) 直孝は自らの出生地の駿河国益津郡(焼津市)の中里に若宮八幡宮を建立しました。直孝との由緒は焼津市指定文化財の「若宮八幡宮の棟札」に書かれています。なお、女領主として有名な井伊直虎は、直孝と面識はありませんが、祖母にあたる間柄です。また、幕末の大老で有名な直弼も直孝の子孫で第15代彦根城主にあたります。

【写真】

  

 若宮八幡宮              井伊直孝と若宮八幡宮

  

若宮八幡宮

  

若宮八幡宮                若宮八幡宮へ向う

若宮八幡宮へ向う


 徳川幕府樹立の立役者である井伊直孝と中里の歴史的なつながりにおもいを馳せ、ロマンを感じながら史跡めぐりを終え、瀬戸川左岸沿いに南下。入江橋を渡ってゴールの焼津駅に到着。お互いの完歩を労って帰途につきました。

  


 有志で焼津駅構内にある「居酒屋」で美味しい串カツを肴に生ビールで乾杯!!反省会後、井伊気分..? になって下りの列車で帰宅しました。

  

有志による反省会

  

  

                                     写真提供:幸岡会員、野神会員                                   

歩こう会世話人  幸岡(記)

   次回
   6月24日(土)湖西路ウォーク!!   天浜線 大森駅 9時50分集合です。