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第6話『田村麻呂と阿弖流為(アテルイ)』

枚方に伝承される「昨日の敵は今日の友」というお話

2016年7月1日

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私たちの町『枚方』には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を 「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、次世代に伝承し易くまとめられました。 そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、 史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。尚、昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。 今回は第6回目として、「田村麻呂と阿弖流為」の話を紹介します。

●【昔話】昨日の敵は今日の友●

この話は、1200年ほど前の、京に都をおかれた桓武天皇の時代のことです。奈良に都がおかれていたころには、朝廷は、日本をだいたい一つにまとめ治めていました。 あとは、東北の陸奥の国方面だけとなり、桓武天皇の時代になって手を延ばし始めました。しかし蝦夷(えみし)の住む陸奥の国には、 魚や鳥・獣がとれ、農業もでき、その上砂金も出る豊かな土地なので、自分たちで十分暮らすことができ、一緒になろうという朝廷と考えが合わず、度々衝突して 勝ったり負けたりをしていました。

なかでも有名なのは「北上川の戦い」です。朝廷軍・紀古佐美(きのこさみ)は、五万の大軍を率いて蝦夷の中心地「胆沢」 (いざわ)に向かいましたが、食料の不安や計画に日にちがかかりました。

相手の大将・阿弖流為はというと、土地の様子がよく分かり、豪族・母礼(もれ)の大きな手助けで細かな作戦を立て、 少ない味方の命を大切にし、北上川を渡ろうとする朝廷軍を散々に痛めつけ、大勝利を収めました。桓武天皇は、大将軍・紀古佐美には、苦労もあっただろうと、 おとがめはありませんでした。

桓武天皇は、あくる年から計画を立て直し、二度目の戦いは十万の兵と、副将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) の活躍で、北上川沿いの胆沢を攻め落しました。田村麻呂は、体が大きく怒ると猛獣も倒れるほどに恐ろしいが、笑うと赤ん坊もなつくやさしい顔になります。 広い心と思いやりがあるので、戦いのときには、部下はみんな命を惜しまず力を尽くしたということです。

こんな田村麻呂は、三度目の戦には、征夷大将軍になり四万の兵を率いて戦い、勝利を収めました。そして、大平原の胆沢に役所の城を造っていると、今まで戦ってきた蝦夷や豪族たちが 「これ以上戦うのは、無駄だ」と考え大将・阿弖流為と豪族・母礼が五百人あまりの蝦夷を引き連れて、「降参します」と名乗り出てきました。

これを聞き入れ田村麻呂は、阿弖流為らを連れて京へ戻ることとしました。その道中で、阿弖流為から、「自分の命は捨てても、どうにかして、蝦夷のみんなを救い、 幸せにしてやりたい」という立派な言葉を聞きました。

都に着くと田村麻呂は、天皇や朝廷に、「二度と戦う考えは持っていません。だから、陸奥へ帰してあげてください」と必死に阿弖流為の命乞いをしたのでした。 しかし、朝廷では、蝦夷を従えることができた喜びで、誰も聞き入れてくれません。

そして、阿弖流為は、都に近い「河内国(かわちのくに)・交野郡(かたのごおり)・宇山(うやま)」で 命を落とすこととなりました。田村麻呂には、宇山を流れる穂谷川の景色が阿弖流為の故郷である遠い日高見の国(今の奥州市付近)を流れる北上川とだぶって見えたにちがいありません。 そして「昨日の敵は今日の友だ」という強い友情を覚え、阿弖流為たちをこの地へ葬ることとしました。これは、田村麻呂の阿弖流為へのせめてもの友情の証だったのでしょう。

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●阿弖流為 最期の地 枚方市『宇山』(うやま)について●

京阪電車牧野駅から府道枚方高槻線を東へ進むと、約5分で左手に牧野生涯学習市民センターが見えてきます。その北側が宇山です。穂谷川を望む台地上に位置し、北は養父、西は下島、東は招堤、 南は阪と接しています。宇山の地名が最初に出てくる史料は、天文24年(1555年)7月の『牧一宮新田帳』(片埜神社文書)で、舟橋郷に「上山」の名が見えます。 また、市内では宇山と招堤の二村にしか残っていない文禄3年(1594年)の検地帳でも、「河州牧之郷上山村」と記載されています。

元和2年(1616年)の免状では「上山村」が、「宇山村」となっています。江戸時代のはじめに「上山」から「宇山」に改められたと考えられます。

※『日本紀略』には、最期の地は「椙山」(すぎやま)となっており、現在の枚方市杉(交野郡杉村)ではないかと考える説もあり、阿弖流為の最期の地は、 歴史の謎に包まれています。

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●「阿弖流為」の顕彰について●

【アテルイ・モレ祭】

2015年9月23日(祝)、好天に恵まれ、牧野公園内の「伝阿弖流為・母禮之塚」前で、伝阿弖流為・母禮之塚保存会主催の 「アテルイ・モレ祭」が営まれ、清水寺、その他関係者など数多くの方が参列されました。神事の後、子供達約400人が歌や踊りを元気に披露したそうです。

「伝阿弖流為・母禮之塚」の右側の階段を上った、山桜と樫の大木の根元には、「アテルイの首塚」と伝えられている自然石があり、花・折鶴・飲み物などが供えられていました。

「伝阿弖流為・母禮之塚」がある「牧野公園」は「枚方八景」の一つである「牧野の桜」の名所である。牧野の桜は、在原業平(ありひらのなりひら)が惟喬親王 (これたかしんのう)とともに渚の院をたずね、咲き誇る桜をみて、「世の中に たえて桜のなかりけば 春の心はのどけらからまし」(古今和歌集・伊勢物語)と詠み、 藤原俊成(としなり)は交野の桜を思って、「またや見む 交野のみ野の桜狩 花の雪散る春のあけぼの」(新古今和歌集)と詠んでいるように交野ヶ原と呼ばれた 枚方・交野地域は、桜の名所として都の貴族たちに親しまれ、枕詞として多くの歌も詠まれました

牧野公園は、桃山時代の華麗な建築を伝える『片埜神社』の北側にあります。片埜神社の神域は、明治の頃には5ヘクタールほどあり、大阪歯科大学付近の松林はその面影を残しています。 戦後、広い神域の一部を譲り受けて牧野公園を造営しました。桜の季節には、数十年を経た桜が咲き競い、市民の憩いの広場になっています。

【清水寺での慰霊供養】

昭和62年、関西に住む岩手県奥州市水沢地区出身の方々が「関西水沢同郷会」を発足させて故郷の英雄アテルイ・モレを顕彰する活動を開始し、坂上田村麻呂が創建したと 伝えられる清水寺に建碑を願い出て許され、平成6年平安遷都1200年を記念して清水寺本堂下の南苑に「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」を建立しました。揮毫は清水寺森清範貫主です。

毎年11月の第2土曜日午前11時より、碑の前で顕彰と慰霊供養の法要を営んでおります。関西在住の岩手県人はもとより、アテルイ・モレの故郷岩手県奥州市から市長や有志を迎え、 近年は坂上田村麻呂公生誕の伝承地福島県田村市などからも、多くの方々に参加しておられました。

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●「坂上田村麻呂」・「阿弖流為」・「母礼」について●

坂上田村麻呂 758年 - 811年5月23日
天平宝字2年(758年)坂上田村麻呂生まれる
延暦16年(797年)征夷大将軍に任じられる
延暦20年(801年)遠征に出て成功を収め、蝦夷の討伏を報告する
延暦23年(804年)再び征夷大将軍に任命され、三度目の遠征を期したが、征夷は中止になる。
延暦24年(805年)清水寺の寺地を賜る
大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言大同2年(807年)には右近衛大将に任じられる。
弘仁2年(811年)1月に田村麻呂は藤原葛野麻呂や菅野真道らと、渤海国の使者を朝集院に招き任に当たる。
弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死し、山城国宇治郡栗栖村に葬られる。
『坂上田村麻呂の詳細な年譜』こちら

阿弖流為(アテルイ)(生年不詳 - 802年9月17日)
平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。

史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。 坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)


母礼(モレ)(生年不詳 - 802年9月17日)
アテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。 アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ)
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●編集後記●

「坂上田村麻呂」というと、歴史の授業で「東北の蝦夷を征伐した」という程度しか知りませんでした。 今回、民話の担当になり、調べてみると 遠い東北の話と思っていたのですが、この枚方市に昔話や史跡があったとはまったく想像外でした また、「阿弖流為」や「母礼」についても知りませんでした。資料や昔のドラマ映像を見ると、「阿弖流為」や「母礼」は、心やさしい 勇敢な人たちでした。 平和を望んでいながらも戦いに巻き込まれいく様は悲しいお話しでした。今回の取材で私自身も大変勉強になりました。

最後になりますが、「関西アテルイ・モレの会」(京都市)・「アテルイを顕彰する会」(岩手県奥州市)の方々に資料収集にご協力いただいたきました。ありがとうございました。

枚方発見チーム 坂本、福本、永井、中村、松島  HP作成:松島  


【参考資料】

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