『伝王仁塚と特別史跡・百済寺跡』 (第8回)
2002/4/23(火)
伝王仁の墓と王仁公園
枚方地方には古くから朝鮮半島百済国の人々との結びつきを物語る史跡がいくつもあります。そのひとつが4~5世紀に百済から日本に漢字や儒教を伝えたとされる王仁(わに)博士の墓と伝えられている王仁塚です。
伝王仁の墓は、枚方市藤阪の住宅街の一角にあり、丸い墓石や「博士王仁墓」と刻まれた墓碑のまわりを200本余りのムクゲが植えられています。ムクゲは夏から秋まで長く咲き続ける花で原産地は中国ですが、韓国では「無窮花(ムグンファ)」と呼ばれて愛され、日本の植民地支配下でも民族のシンボルの花とされてきました。墓の南側には朱塗りの柱と瓦が百済の雰囲気を漂わせる休憩所があります。ここには王仁の生地という韓国南西部・全羅南道霊岩郡の王仁廟の写真などを展示し、毎年4月に開かれる「王仁文化祝祭」の様子も紹介されています。
荒れ放題の塚にムクゲの植樹を思い立ったのが写真家の吉留一夫さんで、写真仲間の仲立ちで韓国のムクゲ植樹推進本部の協力を得て韓国からムクゲの苗200本を持ち帰り、1984年11月に参道を中心に数十本を植樹されました。地元の人たちを中心に「王仁塚の環境を守る会」もでき、清掃や木の手入れなどを続けられ、そのかいあってムクゲは順調に育ち、種子が周囲に飛んで二世、三世の木も生えています。
百済の王仁博士が日本に渡来したのは、古事記、日本書紀によると4世紀の応神天皇の頃で、儒学を講義する事になっていました。このとき、王仁は「論語」10巻、「千字文」1巻を携えて来日し、鍛冶・機織・酒造などの工芸技術者も同行したと記されています。
王仁が日本に漢字を伝えるため持ってきたといわれる「千字文」は、文字どおり千の文字が重複なしに使われ、しかも全体で詩になっていて、人としての倫理も説いた格調高い書になっています。しかし「千字文」は4世紀には存在せず、6世紀前半に編纂された物であることなど時代的には疑問も残ります。
王仁の子孫は文筆をもって朝廷に仕え、西文氏(かわちのあやうじ)として、羽曳野市の古市付近に居住し周辺は河内随一の渡来文化の集積地として発展してゆきました。
この塚は地元では「オニ塚」と呼ばれていましたが、江戸時代亨保16年(1731)に京都の儒学者並川誠所が「日本の学問の祖」王仁の墓探しに奔走し、枚方市禁野の和田寺で発見された古文書から「このオニ塚は『王仁の墓』の転じたもの」と考証し、ここを墓としましたが本当は定かではありません。太平洋戦争直前の1940年になって塚は、「伝王仁墓」として府の史跡に指定されました。
また王仁塚の西方に広がる公園は王仁公園と名付けられ市民に親しまれています。公園には、広大な緑があり、散歩にも最適で、園内にはプールやテニスコートなどのスポーツ施設も整っています。
特別史跡・百済寺跡
宮之阪駅近くにあり、枚方八景のひとつとして市民に親しまれてきた百済寺(くだらじ)跡は、大阪城跡と並ぶ国の特別史跡です。今年は史跡に指定されて、ちょうど60年目に当たります。この百済寺は奈良興福寺官務牒疏という末寺帳に「岡寺の義淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したもの」と記されています。
朝鮮半島の百済国は新羅と唐の連合軍に攻められ、救援を求められた日本もこの戦いには鉄資源を巡り深く関わっていましたが、天智2年(663)白村江の戦いで大敗し、滅ぼされてしまい多くの百済人が日本に亡命してきました。すでに日本に渡っていた百済王子の禅広は帰国できなくなって日本に帰化し、持統天皇から百済王という姓と難波の百済郡(現在の大阪市生野区)に住居を与えられました。一族は専門的な知識を必要とする実務的な方面や軍事面に多く任用され、天皇が行幸した時などには異国情緒にあふれる音楽などを演奏して楽しませたそうです。
百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)
奈良の都で聖武天皇が大仏建立を進めていた時のこと、鋳造は終わったが表面に鍍金する黄金が不足して、その完成がおぼつかなくなり、天皇が日夜悩んでいた天平21年、陸奥守であった百済王敬福が陸奥国小田郡で、我が国で初めて産出された黄金九百両を献上しました。天皇は大いに喜び、敬福を従五位上から一躍七階級昇進させて従三位に任じ、宮内卿とし河内守を兼ねさせ、河内国交野郡内にも広大な土地を与えました。現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王家の居館群の跡をとどめるものです。
百済王が最も繁栄したのは奈良の都を離れ長岡京、平安京への遷都を果たした桓武天皇の頃で、桓武天皇の生母が百済王の血を引く高野新笠という女性だったことなどから、皇室との深いつながりを持つようになり勢力をのばしました。
桓武天皇は「百済王は朕の外戚なり」という詔を下し、自身も後宮に渡来系の女性を迎えています。また、しばしば楠葉にある藤原継縄の別荘を訪れ鷹狩りを楽しんでいました。継縄の妻明信も百済王氏で厚く信頼して側に置いたといいます。日本には無かった、天檀を設けて天の神を祀るという中国の風習を取り入れたのも、それら渡来系の人々の影響ではないかと考えられます。
しかしその繁栄も長くは続かず、百済王は王の字を外し三松氏と名を改めます。平安の都は清和天皇の外戚となった藤原氏一門一色となって行きました。
百済寺は発掘調査の結果、奈良の薬師寺のように金堂の前に東西二つの塔を持つ「二塔一金堂」の伽藍(がらん)配置で新羅の感恩寺に類似していると言われています。南から北へ南門・中門・金堂・講堂と位置を占め、金堂の前方東西に相対して東塔・西塔が配置されています。
百済寺跡の西隣に、百済王神社が鎮座しており、これは枚方の地に根を下ろした百済王の末裔・三松氏が建てたものです。百済寺跡は国の特別史跡に指定されおり、敷地全体が史跡公園として整備され、建物の基壇、礎石が復元されています。開発の激しい波にさらされていた枚方市で、百済寺の敷地がそのままの形で保存されいることの歴史的意義は大きいといえます。