『牧野の桜と渚院』 (第7回)
2002/3/29(金)・2004/2/13(金)追加取材
牧野公園の桜
今年は全国的に桜の開花が早かった。枚方八景の一つ『牧野の桜』も、例年より一週間も早く満開を迎えました。
古くからの交野ヶ原の鎮守であり、大阪城の鬼門鎮護の社として再興された片埜神社の神域の一角を借り受け、市が牧野公園として桜を植えたのは戦後であるが数十年を経て見事な桜に成長し市民に親しまれています。
都に近く、起伏に富んだ交野台地や香里丘陵、天の川・淀川左岸の低湿地一帯は古代から「交野ヶ原」と称され、鳥や獣が多く棲む絶好の狩猟地として著名な地域でした。
奈良時代末から平安時代初期には、光仁・桓武両天皇はたびたび交野ヶ原に行幸し、渡来系貴族の百済王らの奏でる楽を楽しまれました。風光明媚なこの地を訪れた天皇や貴族は、桜の花を愛で、歌を詠まれ、多くの優れた文学作品を残しています。
渚院
なかでも惟喬親王と在原業平の交遊の場となった「渚院」は古今和歌集や伊勢物語にかかれて都の貴族のあこがれの地となっていました。
文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(847~97)は第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇)との立太子争いに敗れ、失意の中で山崎の水無瀬や交野の渚に別荘を営み在原業平や紀有常らとともに遊猟や作歌・饗宴に憂さを晴らしたといわれています。
伊勢物語と渚院
「伊勢物語」(八十二段)には、親王が業平らを伴って水無瀬から渚院にやってきて、鷹狩りもせずに酒を飲み和歌を作ることに熱中している様子を描いています。
渚院に咲いている桜が、格別におもむき深いので、その木の下で枝を折って冠にかざして身分の上下を問わず和歌を作りました。
在原業平は、『世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』と詠み
紀有常は『散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにか久かるべき』と受けました。
交野ヶ原の桜
「伊勢物語」の渚院での桜を巡る歌と物語は「古今和歌集」に収載され、交野ヶ原、渚院、桜花は一体のものとして平安貴族の脳裏に焼き付きました。
更に「新古今和歌集」には藤原俊成の名歌、
『またやみむ交野のみ野のさくらがり 花の雪散る春のあけぼの』と見事な落花の歌を詠んでいます。
また「太平記」の巻二には有名な道行き文があり、その冒頭には、
『落花ノ雪ニ踏迷フ、片野ノ春ノ桜ガリ、紅葉ノ錦ヲ衣テ帰、嵐ノ山ノ秋ノ暮』と京から鎌倉までの道行き文に、落花の雪、交野の桜と続くほど洛中の人々に親しい名所になってゆきました。
紀貫之の「土佐日記」にも、承平5年(935)任地土佐からの帰京の途中、淀川を舟で遡ったとき渚院を遠望して「かくてふねひきのぼるになぎさの院といふところみつつゆく」と記し、昔の主君惟喬天皇を偲ぶ歌、二首を詠んでいます。
観音寺の梵鐘と渚院の碑
渚院は、荒廃の後寺院として復活し、十一面観音を本尊とした真言宗観音寺が建てられました。「河内名所図会」には小さな観音堂が描かれています。これも明治三年の廃仏毀釈で廃寺となり、いまは保育所になった渚院跡に、旧田中家で鋳造したものとしては枚方市で唯一になった梵鐘と鐘楼が残されています。
また渚院跡の一角に、風化が激しくて読みとることの出来ない石碑が建っています。この石碑の碑文は、古い時代に残された拓本などによって寛文六年(1661)に建てられた大切な碑であることがわかっています。
碑には、渚院を含む交野ヶ原が平安・鎌倉貴族の歌心を刺激して、多くの文学作品に結実したこと、寛文年間に渚村を支配していた永井伊賀守尚庸が、荒廃した渚院跡に桜を植えるなど復興に力を尽くしたこと、渚院の事績を碑銘にし林鷲峰に託して撰に当たったことなどが格調高い漢文で書かれていたようです。碑文の終わりに賛として添えられた漢詩を訓み下すと、
『波瀲(なぎさ)に戯れるに さかいは王畿に近し 翠華やかに雲は靡き 白桜は雪となりて飛ぶ
吟ずれば以て酔を勧め 遊びて帰るを忘る 在昔は盛ん為り 中葉は式微す
烟 は野水を籠み 月は村扉を鎖ざす 蹤を遺して旧に復せば 花は亦芳菲せん』と遺されています。
鐘楼脇に古い石碑を解読した内容の新しい石碑がH14.12に地元有志によって建てられました。
詳細は上の文字をクリックすると枚方市教育委員会・渚院を考える会の資料抜粋があります。
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