渚院碑銘の翻刻碑文

新石碑
  渚院の石碑は、寛文元年(1661)、荒廃していた渚院の復興に努めた永井伊賀守尚庸(なおつね)とその父・尚政の功績を後世まで伝えたいという願いから、永井家の家臣・杉井吉通によって建てられました。
 その碑文は、江戸時代の儒学者・林羅山の三男である向陽林子(こうようりんし・林鵞峰)の撰によるもので、漢文で記されています。
 石碑に刻まれた文字は長年の風化により、読み取る事ができなくなっていますが、旧『枚方市史』、『大阪府全志』、『殿山第一小学校百年史』、『交野郡奈疑佐院碑銘』(明治15年写し)、「御殿山神社板書」などの複数の史料から文字の推定を行い、このたびの石碑翻刻にあたりました。
2002年12月 枚方市教育委員会・渚院を考える会

撰文・向陽林子 
渚院を復興した永井尚政・尚庸の功績を記す
(碑文の要旨は次のようになります。)

 河内国交野郡は、北は山城国、南は摂津国、西には河、東には野原と高くそびえる山がある。郡には渚または波激(なぎさ)という村があり、いわゆる奈疑佐院がある。渚と波激はともに日本語読みが奈疑佐(なぎさ)であるため、同じように用いる。この地のそばには、葛葉と天の河があり、男山と山崎は河を隔てて向かい合い、木津川・宇治の里は北東に、広瀬・神内・桜井は北西に、高槻・江口・神崎は南西に、膿駒(いこま)・飯盛の二山は南東にある。本当に、これは、畿内の絶境である。
 かつて、光仁帝・桓武帝が訪れた交野ヶ原に、嵯峨天皇も遊行し、旅先での仮御所を山崎に建て、渚院を臨時の宮殿にした。歴代天皇の御猟場となったため、禁野という呼び名がある。
 院の裏に、千株の桜を植え、春三ヶ月はこの上もなく美しかった。在原業平は惟喬(これたか)親王に付き従い、この院で花を愛で歌を詠んで、千年の評判を遺し、以後、藤原俊成・藤原家隆等が詠んだ歌は、勅撰和歌集に選ばれている。院の美しさは、ただ桜のみでなく、紀貫之は梅香を、藤原家良は紅葉の歌を詠んだ。あるいは、松風、雪、村雨(むらさめ)、月、鶉(うずら)の鳴き声、野霜に戒めた堆(きじ)、声を合わせて鳴く鹿、小さい声で鳴いている虫も、歌に詠まれている。その春夏秋冬や朝晩の眺望の変化は、千差万別である。それはもう多くの人と車が行き来して、宿泊する人もいれば、住みつく人もいた。
 時は移り、渚院はすっかりさびれてしまった。兵馬は塵を揚げ、院には蜘蛛の巣が張り、門に雀羅(じゃくら)を設けるばかりに荒れで人気がなくさびしい。院の区画内にも里人が入って奪い取られ、あの千株の花はことごとく無くなり、草の茂った土手には柳が一本もなくなっており、院の裏に唯一小さな堂があるのみである。
 寛永年間(1624〜1644)永井信濃守尚政は、淀城を賜り、交野郡も領有したが、その隠居後、交野は次男・(三男)の伊州太守(伊賀守)尚庸に分かち、新たな陣屋を渚村に築かせた。去る年、太守・尚庸が、渚院のそばを通った際、その荒廃した様子を哀れんで、少し修理を加え、その区画を正した。ここで人々は、この地の由来を知り、隠居中の尚政は、院の裏に轡の木を若干株植え、尚庸の家臣でも各々寄贈するものがあった。こうして春には桜の花が咲き乱れるようになり、惟喬親王・在原業平の時代の風流盛莚を今日に再興した。これはまるで、劉郎が去った後に玄都観(げんとかん)に桃を植えたことに似ており、張子紹が大庚嶺(たいゆれい)に至っても梅を見なかったという思わせぶりな詩がどうしてあるのだろうか。
 尚庸の家臣・杉井吉通は、ことの次第を碑右に刻みたいと願い出た。太守'尚庸は、人を介して、以前より交際の厚い私・向陽林子に何度もその事を書くように頼み、私はその古い跡を明らかにすることを喜んだ。ああ、廃れたものを復興し、絶えてしまったものを引き継ぐことは、人民の心を寄せることであり、小さな事を推し量って大きな事を知るのは、太守・尚庸の期待するところである。ここにこのことを叙述して、後世まで永く遺し、これを石に刻んで永久につなぎたい。
銘に言う
ああ波激よ                    その場所は京の都に近い
松の葉は雲のようになびき           白い桜は雪のように飛ぶ
歌を吟ずれば酒の酔いがすすみ       遊びに興がのって帰るのを忘れてしまいそうなほどだ
昔はにぎやかであったが            中頃は衰えてしまった
霞は野原や川の流れを囲み           月は村の扉を閉ざす
しかし遺された跡を昔のように戻したので  花もまた芳しく匂ったことだろう
      寛文元年(1661)十一月      永井伊賀守家隷杉井吉通が之を建てる

(2002年12月作成の 枚方市教育委員会・渚院を考える会資料より)

戻る