旧芥川宿東口に残る一里塚

宿場の面影をわずかに残す旧芥川宿

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 今城塚古墳の南側を「西国街道(さいごくかい
どう)」
走っています。この街道は8世紀の山陽道の後身にあたり、
高槻市域を約8.1kmにわたり東西に貫き、淀川とともに政治・
経済面で極めて大きい影響を及ぼしました。

 現在の道筋は、ほぼ14世紀(鎌倉時代後期〜室町時代
前期)に固定化したとみられています。

 江戸時代には正式名称を「山崎通(やまざきみち)」といい、
京都・山崎と西宮を結ぶ
脇街道として賑わ い、西国大名の
参勤交代の
行列も通りました。

 街道には一里(約4km)ごとに「一里塚」がありま した。
起源には諸説ありますが、慶長9年(1604)徳川家康が、
秀忠に江戸日本橋を起点に
築造させたものが本格 的な
ものといえます。

 一里塚には榎が植えられましたが、まれに松や杉もあり
ました。塚は旅の目安となりましたが、度量衡統一の目的
もあったと考えられています。

 現在の芥川(あくたがわ)町三丁目に、一里塚 が残り、小
さなお社と榎の巨木が時代の流れ
を見守っています。

この一里塚から芥川橋までの約400mの町並みが、山崎通
の宿駅「芥川宿」になります。
本陣の他に旅 籠屋も多く、
伝馬(てんま:公用の荷馬)も設けられていました。

今も格子窓の二階家に往時の面影を偲ぶ ことができます。

 

 





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