− 泥 敏弘(ドロ トシヒロ)氏 − |
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地方(ジカタ 演奏者)一同 | |
本年1月。たかつき京都ホテル。
松愛会高槻支部新春懇親会。 |
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立方(タチカタ 踊り手) | とりわけ255名の観客
は津軽三味線の迫真の パフォーマンスに魅せられ、万雷の拍手を送った。 エンターティナーは泥敏弘氏(71歳)。曲目は、津軽 じょんから節。リズミカルな酒盛り唄だ。 元来津軽三味線は太棹を用い、激しくかつ繊細な音色 と旋律を特徴とするが、実際ご本人の歌声にも撥捌 (ばちさば)きにも圧倒的な迫力があり、私どもの内なる 魂を奮い立たせてくれるものがあった。 《みんな今年も元気で乗り切りなはれや》 という熱いメッセージにも受け取れた。 さらに、舞台上のご挨拶にもうなった。 「昨年(2003)12月、直腸ガンを宣告されましたが、 執刀医に2月初めまで待ってくれと頼んで、今ここで こうしてやっているわけです」まさに命がけのパフォー マンスだったのだ。 「泥さんの津軽三味線はすごかったなア」が、その後 参加者間の挨拶代わりになった。 その後、名医によ る手術が成功し、袋をつけることもなく、転移も見られ ず、現在お元気なのが、何よりも嬉しい。 昭和47年頃、松下電子工業の盆踊り大会で、ギャ ラを払って呼んだ生の人が下手で踊れないとの苦情が あり、人事担当者として何とかせねばならなかった。 当時、民謡ブームで大阪の天六に民謡酒場があった 歌いながら酒をつぐ芸人から「俵積唄」(青森県民謡) のレコードをもらい、客として歌っていた。 1年後の民謡コンクールで2等賞に。 その時の審査員が「しろうと名人会」で有名な京極 先生だった。「青森の野呂さんか?」と問われて「泥棒 の泥です」と答えた。 産経ホールで京極流の発表会を見て巷の民謡会との レベルの違いが分かり、先生に師事した。 1年後、先生から「将来先生になれるで。三味線の 稽古をすることや」と言われた。 10年間会社のクリスマスパーティでバイオリンを弾いて いたせいか京極先生に習ったものは、翌週には出来た ものだ。 この頃には地域の盆踊り大会にとっても氏の唄と 三味線は、貴重な存在となっていた。 津軽三味線の 実力は、 ・津軽じょんから節番付大会 10年連続出場 初出場で前頭2枚目 最高位は関脇まで ・全国俵積唄コンクール入賞(青森県三戸町主催) |
唄う泥敏弘氏 | |
三味線を弾く泥敏弘氏 | |
京極先生の奥様と | |
輪島太鼓 | |
泥敏弘氏の弟子でプロになった女性 | 津軽三味線の演奏歴は ・六甲アイランド、中之島 水フォーラム ・姫路城三ノ丸広場 観月会(琴との合奏) ・両陛下をお迎えしての万博公園 ・当社客員会 守口プリンスホテル 180名 竹岡敬一元専務より讃辞あり ・当社 電子部品 電池のOB会 ・松愛会:高槻、枚方南 各2回 寝屋川、京都、京都南 各1回 ・盆踊りなど各種の催し ・老人施設巡回 「芸は身を助く」を実践された希有な存在として、 また 松愛会会員の「残り人生の応援団長」として このたび「輝く人々」の仲間入り。 |
泥敏弘氏の近影 | |
取材担当 文 : 辰巳寛康 (松愛会高槻支部広報委員) 写真 : 見城好豊 (松愛会高槻支部広報委員) |
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