☆第53回 奥琵琶湖周遊と渡岸寺・長浜の旅

平成23(2011) 526()  参加者43

今年2回目の例会は、長寿の神様としても知られる湖西の白鬚神社で健康を祈願し

かつての隠れ里菅浦散策と昼食、青葉の奥琵琶湖パークウエイからの景観を楽しみ

観音の里高月町は渡岸寺の十一面観音を拝観し、今年の大河ドラマで評判の

「浅井・江のドラマ館」と「浅井歴史民俗資料館」を見学した

玉垂(たまだれ)の小簾(をす)のすけきに入り通ひ来ね たらちねの母が問はさば風と申さむ

作者未詳 万葉集 巻11-2364

≪玉を垂らした簾の隙間から入ってきてください。 お母さんが尋ねたら「風よ」と申しましょう≫

 目には見えないが「風」は季節を運ぶ。つい先ごろまで冷たく感じていたのに、いつの間にか心地よい薫風になった。万葉乙女ならずとも心が弾む。

 今回も参加者が40名を超える盛況で、しかもその中にはご夫妻参加が6組もあり、車内が一層和む。皆さん出足がよくて定刻前に出発した。

 いつものように代表のお話。今日は43名もの参加で感激しています。これは、平成18年の常滑行き以来5年ぶりのことです。

次に悲しいお知らせです。『松愛』にも載っていたのでご存知かと思いますが、先ごろ文芸クラブ会員の方が急逝されました。ご冥福をお祈りするとともに、本日の昼食では、いつもの「乾杯!」を控えさせて下さい。

続いて、「文芸クラブ」=「難しい」と思っている方がおられることから、2月の例会でクラブの名称変更を問うアンケートをとりましたが、「現行のままが良い」という意見が圧倒的でしたので名称は変えません。どんなクラブかは参加された皆様が御存知なので、難しいことはなく観光やグルメを楽しんでいることを、いわゆる口コミでお友達に話してお誘い下さい。とお願いした。

次に、添乗員さんから、本日のスケジュールと諸注意などのお話があり、素敵な旅の予感がつのる。そのあと、世話役による訪問先の説明。今日は訪問先が多いので、一括でなく、訪問先ごとに都度説明することになった。

 バスは琵琶湖の西岸を快調に走る。若いころ水泳やスキーで、あるいは日本海への旅で通った道だ。目に見えなくて季節を感じるのは「風」だが、目に見えて季節を教えてくれるのは風景、それも「山」だと思う。北宋の山水画家・郭煕(かくき)は春夏秋冬を端的に表現していて、日本では季語にもなっている。

春山淡冶にして笑うが如く  夏山蒼翠にして滴るが如し
秋山は明浄にして粧ふが如く  冬山は惨淡として眠るが如し

 今日は淡冶から蒼翠(そうすい)へ変わろうとしている比良山地、野坂山地から伊吹山地を眺め、緑の風を胸いっぱい吸って、肺の大掃除をしよう。

白鬚神社

 滋賀県高島市鵜川(うかわ)に鎮座する白鬚(しらひげ)神社は、「比良明神」ともいい、祭神は天孫降臨の際、ニニギノミコトをご案内すべく道の途中でお待ちしていた、サルタヒコノオオカミ。このことから、サルタヒコノオオカミは道の神、旅人の神とされた。

謡曲『白鬚』には“江州白鬚の明神”と謡われ、その古い縁起を語っていて、そこからも近江最古の社殿で皇室の崇敬も篤かったことが伺える。また、社名から長寿の神様としても知られているそうだ。本日の旅路の安全と長寿をお祈りする。

《 白鬚の縁起を知りて我もまた 拝(おろが)み願う健やかな日々 》 (▽)

 
   本殿(国重文 檜皮葺入母屋造)と右に拝殿   湖中鳥居(道路より58.2m 高さ湖面より12m 柱幅:7.8m)
                                       背後に琵琶湖最大の島「沖ノ島」

白鬚神社は、神殿の前の国道161号線の向こうの湖上に朱塗りの鳥居があることで、その情景が安芸の宮島を思わせることから、「近江の厳島」ともいわれている。

湖中鳥居の由来は、古来波打ち際に鳥居が見え隠れしていたとか、天下変災の前兆として湖中に石橋や鳥居が突然姿を現したなどという白鬚神社の社伝・社記から、昭和12年、大阪道修町の薬問屋小西久兵衛さんが単身で寄進し、伝説鳥居の復興を果たしたそうだ。現鳥居は昭和56年、琵琶湖総合開発の補償事業で建立したもの。

 境内には紫式部や与謝野寛・晶子、中野照子(大津市出身。昭和後期~平成の歌人)の歌碑、松尾芭蕉、羽田岳水(「馬酔木燕巣会」主宰。昭和~平成の俳人)の句碑などがあり、作品巡りを楽しめる。

   
            与謝野寛(鉄幹)・晶子歌碑                   紫式部歌碑

◎与謝野寛・晶子の歌碑  しらひげの 神のみまへに わくいづみ これをむすべば ひとの清まる

 大正初年に参拝した2人が、社前に湧き出る水の清らかさを詠んだもので、上の句を寛が、下の句を晶子が作ったと言われている。

◎紫式部の歌碑  みおの海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて 都恋しも

 平安時代の長徳2(996)年、越前国司として赴任する父藤原為時に従って、通った時に詠んだもので、「近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て」という詞書があるそうだ。

隠れ里菅浦

 白鬚神社から琵琶湖に沿って北上、桜で有名な高島市マキノ町海津大崎へ。瑞々(みずみず)しいソメイヨシノのトンネルが4kmにわたって続く。バスの屋根に接触する枝もある。最初はちょっとしたスリルを味わったが、度重なると、運転手さんや添乗員さんに済まない気持ちになる。       

 北国路への中継点として発展してきた西浅井町大浦に入る。去年の11日、西浅井町は長浜市に編入されたので、長浜市に入ったことになる。

 小さな湾を挟んで向こうの半島が葛籠尾崎(つづらおざき)半島、西浅井町菅浦(すがうらとなる。ここは交通手段としては舟しかない陸の孤島であったが、昭和46年、奥琵琶湖パークウエイが開通し、地元にとって長年の悲願がかない、訪れる人にとっては素晴らしい景観と奥琵琶湖のグルメが手軽に楽しめるようになった。

菅浦の歴史は古く、天平宝字8(764)年、淳仁(じゅんにん)天皇行在(あんざい)の伝説があり、氏神須賀神社の裏山には御陵と伝えられる古墳があるそうだ。

また、鎌倉時代からの膨大な共有文書、村民自ら村を守る自治組織「惣(そう)」、多くの民俗資料などから、村全体が文化財だといえるくらいである。と言われている。

 
四足門説明板
                須賀神社参道               須賀神社本殿を望む

集落の入口で下車。各自集落散策。頂いたパンフレットを見ると、漁業の他にミカンの産地のようだ。人家の割には寺社が多く、氏神様の須賀神社参拝では、社殿に至る石段からは神域として今も土足厳禁。氏子は素足で参拝するという。信仰心の篤い土地だ。(観光客用としてスリッパが用意されている)

趣のある四足門(しそくもん)を観て、須賀神社を参拝した。道路際の鳥居から本殿に至る長い参道は、定規で引いたように真っ直ぐな一本道。脇目も振らない一途さを感じる。

《 須賀神社登る参道一直線 在所の直ぐな心根みせて 》 (▽)

昼食 国民宿舎「づづらお荘」

菅浦集落に程近い高台に「つづらお荘」がある。国民宿舎は、“自然公園等の優れた自然環境の中で、だれもが気軽に快適に利用できるように設置された宿泊休養施設” と謳(うた)われているだけに、ここも緑に囲まれ眺望も素晴らしい。いつものことだが、景観もメニューの一品とつくづく思う。

箸置きに、 “ 菅(すが)はよいとこうしろは山で 前はみずうみ竹生島!! ”  とある。

琵琶湖がもたらす旬の会席膳

 前菜の「エビ豆」「シジミの佃煮」から始まって、刺身は鯉とモンゴイカ、初物のアユは定番の塩焼きに子アユの天ぷら、近江牛のすき焼き、うどん・ご飯に止め椀・香の物、冷菓のデザートと会席膳フルコースを賞味した。

   

椅子席で楽々食事

  

琵琶湖の眺望もいただきながら

《 初物は寿命延ばすとアユ食べて 興ずる宴菅浦の里 》 (▽)

国民宿舎「つづらお荘」の前で (◇)

奥琵琶湖パークウエイ

 つづらお荘から上りの九十九折を経てパークウエイに入る。すぐに一番見晴らしのよい「つづら尾崎展望台」。ここで下車し眺望を楽しむ。早速スケッチを始める方、カメラに収める方…。 桜の枝に見え隠れしながらパークウエイ建設の説明板があった。


奥琵琶湖パークウエイ

この付近一帯は奥琵琶湖といわれ、琵琶湖国定公園の中で最も自然景観にすぐれ、しかも変化に富んだところとしてその価値は非常に高いものがあります。
特につづら尾崎半島は、今迄すばらしい景色も未開発で埋もれておりました。この美しい水と緑と、そして展望を出来るだけ多くの人々に紹介し、自然の中で人間回復を図って頂くためにパークウエイが建設されました。緑の立木の中で、鳥のさえずりの中で、澄んだ水の中で、ひとときをお互いに気持ちよくすごしたいものです。
             道路延長18.8キロメートル  車道の幅員5.5メートル  総事業費2350000千円

  
  

     車窓から竹生島を観る                  展望台からの眺望

つづら尾崎展望台の連綿と続く藤棚の前で (◇)

展望台を後にして、葛籠尾崎半島の東部を北上。これからが本格的な奥琵琶湖パークウエイ。沿道は4千本の桜並木。展望台もあるが先を急ぐ。塩津から南下して渡岸寺のある高月町へ。途中道の駅に寄り新鮮な野菜や、土地の名産品のショッピングを楽しむ。

渡岸寺十一面観音

 水上勉の『湖の琴』、井上靖の『星の祭』などの小説、仏像の写真集などで全国的に知られた十一面観音像(国宝)は、真宗大谷派の向源寺(こうげんじ)の飛地境内にある渡岸寺(どうがんじ)観音堂の収蔵庫(慈雲閣)に安置されている。

渡岸寺へは8年前にも文芸クラブで訪ねている。そのとき求めた写真本(井上靖著 平凡社発行)から渡岸寺の部分を抜粋してみる。

観音堂は信長に亡ぼされた浅井氏の居城小谷城のあった丘陵がすぐそこに見える湖畔の小平原の一画にあった。写真ではお目にかかったことのある十一面観音像の前に立つ。像高一九四センチ、堂々たる一木造りの観音さまである。(中略)
 胸から腰へかけて豊かな肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感も見事である。顔容もまたいい。体からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変わって森厳な美しさで静まり返っている。頭上の仏面はどれも思いきって大ぶりで堆(うずたか)く植え付けられてあり、総体の印象は密教的というか、大陸風というか、頗る異色ある十一面観音像である。(後略)

  

渡岸寺観音堂(向源寺)

再び写真本から、抜粋してみる。

寺伝によると天平八年に、勅命によって僧泰澄がこの像を刻んだということになっている。延暦九年(七九〇年)に叡山の僧最澄が勅命によって七堂伽藍をこの地に建立、天台の古刹渡岸寺はこれだと言われ、十一面観音もここに多くの仏像といっしょに祀られていたであろうが、浅井氏滅亡の時、堂宇は焼かれ、寺領は没収されるという悲運を持たなければならなかった。この兵乱の時、土地の人はこの十一面観音を堂宇を焼く火の中から運び出し、地中に埋め、後に小さい堂を建てて、そこに安置したと伝えられている。(中略)
 大きな寺の中に多くの仏像といっしょに祀られていた盛んな一時期は過去に持ったに違いなく、そしてまた戦国時代以降、長い衰運の日をこの湖畔の地において持ったことも事実であろうと思われる。明治三十年に国宝に指定され、大正十四年現在の本堂が建立されるに到って、漸く安穏な日が戻って来たのである。

 収蔵庫の慈雲閣にはボランティアガイドさんがいて、よく通る声で明解に説明してくれた。聞けば本職は大工さん。声が大きい筈だ。全国に7体ある国宝十一面観音像の一つで、最高傑作と言われている。頂上とその下が3面の菩薩面、向かって右に3面の瞋怒(しんぬ)面、左に狗牙上出(ぐげじょうしゅつ)面3、背後に暴悪大笑(ぼうあくだいしょう)面1つと菩薩のお顔で11面。あらゆる人々に向き合い救済してくれている。
 430年ほど前、信長の焼討で土中に埋めたので、金箔がとれて現在は下地の漆である。慌てて埋めたのに、全身どこにも傷がついていない。像はひび割れしないよう空洞になっている。性別はないが、女性の姿を借りた観音様といえる。などと詳しく話してくれた。

《 高槻をいでて高月渡岸寺 八年(とせ)ぶりに拝す悦び 》 (▽)

浅井・江のドラマ館

 今年のNHKの大河ドラマは、「江~姫たちの戦国~」で、浅井長政と市(信長の妹)との間に生まれた三姉妹の波乱の生涯を、一番下の「江(ごう)」を軸にして描いている。

日曜日のゴールデン・アワーに、全国放送で1年間続く大河ドラマの影響力は大変なもので、ドラマの舞台はその年の観光地になる。観光資源の多い長浜市だが、今年は≪江・浅井三姉妹博覧会≫と銘打って、「浅井・江のドラマ館」「小谷・江のふるさと館」「長浜黒壁・歴史ドラマ50作館」が開催されている。

 今回、そのうちの一つ「浅井・江のドラマ館」を訪ねると、浅井長政一家の銅像が迎えてくれた。この銅像は長浜市役所浅井支所前にあったものを移したそうだが、その意図は那辺(なへん)にあるのだろうか? 
 政略結婚とはいえ、多くの子を生し、幸せ絶頂の像を入口に置いて、ここから百八十度変わるドラマが始まるよ、その内容はドラマ館に展示しているよ。と誘
(いざな)う。  
 館内は平日というのに大変な賑(にぎ)わい。ドラマの映像や衣装、出演者の写真やパネルなどが展示されていて煌(きら)やか。それゆえ一層三姉妹のたどった生涯が哀れに思えてくる。 

《 三姉妹血筋と美貌承(うけ)しため  翻弄(ほんろう)されし生き方あわれ  (▽)

浅井長政一家の銅像の前で (◇)

浅井歴史民俗資料館

 歴史民俗資料館はドラマ館の隣といってもいいくらいな所にあった。ここは浅井三代の歴史を、武具や資料、人形ジオラマなどで展示している郷土学習館と、江戸後期から明治にかけての庄屋・養蚕農家・鍛冶屋などを再現していて、展示や物づくり体験をとおして歴史・文化を学ぶことを目的にしている。 

  

郷土学習館  先ずは浅井三代の概略を聞き、順次見学 (◇)

  

興味深い展示品 詳しい説明 次々出る質問 懇切な解説 (◇)

☆浅井氏の盛衰記や姉川合戦絵巻、三姉妹の生涯などを紹介した「郷土学習館」。
☆江戸後期の庄屋草野家を移築再現した「七りん館」。
☆戦国時代活躍した「草野槍」を作った鍛冶場を再現した「鍛冶部屋」。
☆水上勉の『湖の琴』の主人公もやったであろう、繭からの糸とり作業のジオラマや、機具が展示されている「糸姫  の館」。などを見学した。 歴史・文化を学ぶことを目的にしているだけあって、見応えのある施設であった。

帰途のバスに乗るころ、遣(や)らずの雨が降りだした。ありがとうございました。また来ます。

 今日は、白鬚神社参拝から始まって、隠れ里菅浦の探訪と食事、絶景続きの奥琵琶湖パークウエイを経て渡岸寺の十一面観音を拝観し、浅井・江のドラマ館や浅井歴史民俗資料館で、浅井氏が目指した治世と北近江の暮らしを学んだ。

 七りん館の前の碑に、≪土地よし 人和し 歴史よし 精出し 活かし 感謝よし≫という言葉があった。勤勉で感謝の気持ちを忘れず人和しの風土、それが近江なのだろう。
 いつものように代表から次回の案内などに加え、東日本大震災以来よくテレビに流れる≪「こころ」はだれにも見えないけれど「こころづかい」は見える≫ という例のコマーシャルを引用して、心に沁(し)みるお話があり、一同深くうなずき、今日一日いただいた幸せを反芻(はんすう)しながら高槻に帰った。

<短歌>永野晴朗(▽印)  <写真>竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印)    <>永野晴朗