☆第50回記念例会

渦潮と野島断層見学&温泉とグルメを楽しむ淡路島初秋の旅

イザナキの命とイザナミの命の国生みで最初に生まれた淡路島を訪ね

大鳴門橋の上から渦潮と雄大な鳴門海峡の景観を展望して

洲本温泉入浴とその名も「潮騒海席」の昼食を満喫し

北淡震災記念公園で防災意識を喚起しました

〔平成22(2010) 930()〕 参加者40

平成98月、今は亡き原春二さんの発起・主宰でスタートした「松愛会北摂文芸クラブ」は、14年の歳月と例会を重ね50回の節目を迎えた。今回は記念例会と位置づけ、会員にアンケートをとり、圧倒的な希望で淡路島方面を訪ねる旅となった。変わりやすきは男(女)心と秋の空。生憎の空模様だが渋滞もなく快調にドライブ。車内は4ヶ月ぶりの例会で話が弾む。

まず、代表の竹内さんから本日のスケジュール説明の後、原さんの功績を称え、逝去からの再出発の経緯、無事に50回を迎えられたことの会員への感謝、さらに今後の展望など、文芸クラブへかける熱い念いのお話。 続いて永野世話役より配布した資料の説明。

【淡路島は愛しき人を想う島

淡路島 通う千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守  

源兼正  (百人一首78 金葉和歌集巻四 冬288

来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ  

権中納言定家   (百人一首97 新勅撰和歌集巻十三 恋三851

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す  

柿本人麻呂   (万葉集巻三 251

淡路島は瀬戸内海の東口を塞ぐように横たわっていて、北に明石海峡、南東に紀淡海峡、南西に鳴門海峡の早瀬をつくっている。現代でも油断のできない難所。まして帆船の古代においては、誰もが航行の無事を祈り、愛する人に想いを馳せた所である。

明石海峡大橋を淡路SAから望む

【淡路島は総領の島】

現存する日本最古の歴史書『古事記』は、上巻(かみつまき)(序・神話)、中巻(なかつまき)(初代の神武天皇から15代応神天皇まで)、下巻(しもつまき)(第16代仁徳天皇から33代推古天皇まで)の3巻より成っているが、人口に膾炙(かいしゃ)しているのは神話だといえる。

誰もが幼児期、神話とは知らず「おとぎ話」として、祖父母から聞いた「八俣(やまた)の大蛇(おろち)」や「因幡(いなば)の白うさぎ」などの話は、自然に勧善懲悪や因果応報といったものが血肉となり、人格を形成したのではないだろうか。

淡路島が日本列島で最初にできた島だということは、子供のころから知っていたが、古事記の冒頭にイザナキ・イザナミの国生みの話が出てきて、国生みの行為をするための会話を初めて読んだときは仰天した。

イザナキの命は、妻にあたるイザナミの命に尋ねる。「汝(いまし)が身はいかに成れるか」

イザナミの答えは、「わが身はなりなりて成り合わざる処一処あり」 

その言葉に頷いたイザナキは、「わが身はなりなりて成り余れる処一処あり。故(かれ)このわが身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合わざる処を刺し塞ぎて、国土(くに)を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこといかん」と言うのだからスゴイ。

古事記は西暦712年に成立したそうだから、およそ1300年も前にこのような表現の文章が書かれた事実に、日本民族の精神性(神への畏敬と親愛)をみる思いがする。

国生みの行為は紆余曲折を経て、最初に淡路島を、続いて四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡島と生まれ、八番目に本州が生まれた。 大小八つの島々からなるので、大八島国(おおやしまぐに)という日本国が完成したとされている。

【鳴門市「渦の道」】

鳴門海峡は淡路島南西岸と徳島県鳴門市の間の海峡だが、淡路島から突き出ている鳴門岬の門崎(とざき)と鳴門市大毛島(おおげじま)の孫崎(まごさき)の間が一番狭く、約1.4kmで「大鳴門」と呼ばれている。

その大鳴門で起こる激しい潮流が「鳴門の渦潮」で天然記念物に指定されている。 干満時に瀬戸内海と太平洋の水位差は最高で1.5mにも及び、海峡の狭いことに加え、海底の複雑な地形の影響もあって、大潮の時の潮流は時速20kmに達し、直径20mの渦が発生するそうだ。

鳴門の渦潮は観潮船に乗って観るものと決まっていたが、昭和606月に大鳴門橋が開通し、平成124月「渦の道」が開設され、橋の上からも渦潮を観ることができるようになった。

我々が行く前の日、700万人目の入場者に花束が渡されているのをテレビで観た。単純に計算して、年間に70万人ほどの人が訪れたわけで、今や観潮船を凌いでいるかもしれない。

その大鳴門橋は、昭和48年に四国新幹線の基本計画が決定されたことにより、鉄道空間が設置され、日本初の二層構造の鉄道道路併用橋として昭和6068日に開通した。 ところが、わずか80日後の827日に、もう一方の明石海峡大橋は道路単独橋として建設することが決定され、鉄道空間を設けることなく平成10年に開通した。

田中角栄首相の日本列島改造論に象徴される高度経済成長が終り、四国新幹線の話は夢と消えてしまった。 そこで、無用になった鉄道空間を利用して徳島県立の観光施設「渦の道」ができたわけである。 私たちの生まれた昭和は戦争もあり前半は疲弊していたが、後半は世界が驚く発展をした。渦の道は、そんな昭和の落し子といえそうだ。

《 名にし負う 鳴門の潮の 渦巻きに 昭和時代の 激動おもう 》 (▽)

渦の道へは一旦大鳴門橋を渡って鳴門市に入り、大毛島の鳴門公園内のアンカーレイジ(吊り橋のメインケーブルを固定する巨大なコンクリートブロック)近くにある入口から入る。 車道の下に設置された「鉄道空間」を活用して、海面から45mの高さに延びる450mの遊歩道が渦の道である。

遊歩道の両側の高いフェンスはずっとガラス張りになっているので、海峡の景観を楽しみながら歩いていると、ガラス張りの床に出合い、おっかなびっくり覗き込む。遊歩道先端が渦潮展望エリアで、畳1枚くらいのガラス床がいくつもあって、そこから激しい潮の流れや渦巻を観ることができる。

激しい流れだが、渦にはならなかった             遠く観潮船を望む  

【洲本温泉「海月館」

 本日の昼食場所洲本温泉へ向かう。洲本に近づくと、標高133mの三熊山の山頂に洲本城が見え、城下町であることを教えてくれる。

近くには砂洲(さす)が防波堤の役目を果たす由良港が紀淡海峡に面して開けている。古代では都に近く天然の良港だったので淡路島の玄関口であった。官道「南海道」は、紀州の加太から海上を由良に通じ、洲本を経由して福良港から阿波の牟夜(むや)、現在の鳴門市撫養町(むやちょう)へと続いていた。

古来より洲本は淡路島の中心地であったので、史跡が多く、景勝地の宝庫と称えられる海岸線には、温泉・海水浴場があり、京阪神から日帰りも可能とあって、四季を通じて賑っている。

昼食を頂く「海月館」は雄大な海上景観が望めるよう高層建築。部屋からは勿論、食事中でも、入浴中でも、オーシャンビューである。 到着して、まず展望の良い大広間で昼食。今回は50回記念例会なので、会費から飲み物(ビール・ウーロン茶など)が出た。

乾杯! (◇)
造り              鯛しゃぶ             鯛の荒焚 
鯛の宝楽焼                  蛸釜飯 

料理は海月館自慢の「潮騒海席」。珍味の先付に始まり、若布蕎麦、はまち・烏賊の造り、鯛の荒焚、鯛のしゃぶしゃぶ、鯛の宝楽焼とメデタイ鯛づくし。仕上げは蛸釜飯という豪華版。

発足当初の話、原さんの話、最近の話、今回は記念例会らしく大勢の参加をいただいたので飲み物も潤沢、杯を重ね弥(いや)が上にも気勢があがる。

《 五十回 祝う食事は 鯛づくし 鯛しゃぶ荒焚 名物宝楽 》 (▽)

食後は展望大浴場や天空露天風呂でゆったりのんびり、記録破りの猛暑だった夏の疲れを癒す。大浴場の脱衣所には、あの伊藤博文の掛け軸があったが、とても読めない。他に、日本画の横山大観が宿泊した際、目の前に広がる白砂青松をモチーフに描いた作品もあるとのこと。

1階には洲本温泉でもトップクラスの販売面積を誇る売店がある。淡路島の名産、特産品に加え、日用品まである。 コンビニのように備え付けの買い物カゴを持って土産を買う。

食事・温泉・買物 すべてvery good ! (◇)

海月館玄関での全員写真は、図らずも天井照明が仏様の光背(こうはい)のようになって祝福してくれた。 為す術もなく困っているとき、助けてくれた方に、「後光がさしているようだ」と感謝したことが何度かある。人徳に眩しさを感じるわけで、これが人間の「光背」ではないだろうか。

決して多くはない時間となった今、これまでの人生で付いたであろう「光背」が、少しでも大きくなり、輝きが増すよう、自我を抑え、世の中に役立つ生活をしたい。

【北淡震災記念公園・野島断層保存館他】

海岸線を北上し北淡震災記念公園を目指す。途中、リーズナブルな価格と評判の「赤い屋根」で、買物兼トイレ休憩。

北淡震災記念公園は言葉通り、淡路島の北の端の地域にある。このあたりは、身を焼く思いで愛しい人を待った「松帆の浦」があり、結んでくれた紐が風にひるがえり、妻を思う「野島の崎」がある。古典文学専攻の女子大生がゼミで訪れると思われる土地が、15年前の平成7117日午前546分、「阪神淡路大地震」で地獄絵となった。 

そのとき現れた断層を風化しないよう屋根をつけて保存している「野島断層保存館」へ入る。

活断層の地図に見入る (◇)

一瞬のうちにずれた大地 誰も声なく見詰める (◇)

バスの中で説明した『方丈記』(鴨長明)の≪大地震(おほなゐ)≫を思い出す。

「仏教で、あらゆる物質を構成する四大種(しだいしゅ)、地・水・火・風のうち、水や火・風はいつも災いをなすことは、みんな承知しているが、大地だけは動かず、変わったことはしないものと、誰も安心しきっているだけに、大地震の恐ろしさ、不気味さが身にしみる」とある。

鴨長明は続けていう。「(大地震の恐ろしさ、不気味さが身にしみて)少しは欲望にまみれた心も洗われたかのように見えたが、月日がたち、年数がたつと、そんなことは、口に出して言う者さえいない」と述べている。

《 北淡の 野島の断層 じかに見て 動かぬ大地 動いた怖さ 》 (▽)

野島断層の一部                      神戸の壁

昭和2年頃、神戸市長田区の若松市場に建設された防火壁が、戦災でも、阪神淡路大震災でも、倒れず、焼けず、多くの人を救った。

震災4ヶ月後の平成7517日、「壁」に立会い、「神戸の壁」と命名し、保存活動をリメンバー神戸プロジェクトが展開し、神戸・淡路市民たちの支援で淡路市へ移設保存した。と説明板に書かれていた。

活断層の真横でも、ほとんど壊れなかった家を「地震に強い家」として公開すると同時に、「メモリアルハウス」と名付け、毎週火曜日には『震災の語りべ』が体験談を語っている。

木曜日だったが、運よく語り部さんのお話を聴けた。梁の下敷きになった足を出すのに、近所の方が梃子(てこ)をあっち、こっちと挿し込んで、やっとわずかな隙間をつくってくれ助かったとのこと。体験者のお話は説得力がある。まざまざと、あの日の惨状を思い出した。

最後に「震災体験館」で“震度7”の揺れを体験した。十数年ぶりに体験してみて、身体能力の衰えを実感した。

現代は、科学の進歩で火事や風水害については、鴨長明の時代よりはぐんと安心できる環境になったが、地震については、未だに、同じ恐ろしさ、不気味さがある。さらに、悲しいかな、そんな経験をしても年数が経てば、忘れて備えを怠ることも同じである。今日の見学が防災再チェックの契機になればと願う。

【道の駅「あわじ」】

淡路島は平成14年に高速道を突っ走って「淡路人形浄瑠璃館」や鳴門市の「和三盆岡田製作所」、藍染めの「藍の館」訪問して以来二度目になったが、今回は鳴門公園から洲本温泉へ行き、そこから海岸沿いに北上して北淡震災記念公園へ行ったので、淡路島の懐に深く入り、景観をも楽しめた。

淡路島を巡れば、白砂青松の海辺、広々とした三原平野、諭鶴羽(ゆづるは)山地に津名丘陵、その合間には原風景のような美しい棚田が連なり、稲刈り稲架(はざ)掛けの真っ最中。げに、神話で最初にできた島だけあって、日本国土の縮図のような島であることを確認した。

《 国生みの 総領なりし 淡路島 山野豊かに 黄金刈る刈る 》 (▽)

うっとりと棚田を眺めているうちに、本日最後の休憩場所、「道の駅あわじ」に到着。「海月館」や「赤い屋根」で買い忘れたのか、ここだけの物があるのか、とにかく旺盛な購買力に感心する。

近代科学の粋、明石海峡大橋をバックに (◇)

昭和30511日、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧のため、大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突し沈没、修学旅行の小学生など死者168名を出す大惨事が起きた。これがきっかけで本四架橋の構想が具体化した。

激しい誘致活動が展開され、一時は5つものルートが俎上に載せられたが、結局現在利用されている3ルートとなり、その一つを本日走破した。

バスで走ると、あっと言う間に渡ってしまう橋だが、そこには道路機能のほかに、送電線・導水管・光ファイバーケーブルなども敷設され、本州と淡路島・四国を結ぶライフラインの機能も有している。

『橋のない川』という住井すゑ著作の被差別部落を舞台にした長編小説がある。映画化もされたが観ていないし、本も読んでいないが、おそらく不条理な差別を描いていることだろう。作者が題名を『橋のない川』にしたのは、物理的な橋よりも深い、“心の懸け橋”がないことを訴えているのではないだろうか。

橋は川や谷や海で隔てられた所に、利便性を求めて架けるが、彼我の間が平和でなければ架けられない。いうなれば橋は平和のシンボルである。橋を架けるということは、双方の信頼性や依存性を高め、究極的には文化や人情まで同化させる働きをすると思う。

今日は自然の偉大さに触れ、美味しい料理を頂き、地震の脅威と助け合いのお話を聞いた。陽光は射さなかったが、記念例会にふさわしく多数の参加をいただき、笑いの絶えない旅でありました。


<短歌>永野晴朗(▽印)    <写真>竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印)    <>永野晴朗