☆第47 大和晩秋の旅 墨工房・薬師寺・伝統工芸長屋

数千年の風雪に耐える記録材料としての「墨」の世界を(株)呉竹に訪ね
苦節40余年、浄財と伝統の技で甦った白鳳伽藍の薬師寺を拝観し
奈良の伝統工芸を受け継ぐ6人の匠の技や作品に触れ
海・山・野の幸満載の風流弁当「けんずい」に舌鼓

〔平成21(2009) 1127()〕 参加者27

新体制になって2回目の例会、今回も天気晴朗、ありがたいことだ。集合場所は高槻市役所前。珍しいことに他のツアーバスも来ていたので、間違わないように松愛会の小旗をバスの乗降口に差す。今回は新会員3名の参加を得て予定通り出発した。

いつものように、本日のスケジュールと、配布した資料の説明。バスは当方が指定した経済的なルートを快調に走行、予定通り(株)呉竹に着いた。

<株式会社呉竹>

 出迎えを受けて2階の会場へ。机にはパンフレット墨造りに伝統を練りあげる 墨の製造工程とお取り扱いの栞と、筆風サインペン筆ごこち」>が置かれている。 ここで約1時間、映像を交えて墨に関するお話を聴く。

◆墨は中国・朝鮮・日本など東アジアで古くから使われ、数千年の風雪に耐える記録材料である。

◆推古天皇18(610)に高麗(こま)の僧、曇徴(どんちょう)が墨造りを伝えたと『日本書紀』に。

◆宮廷に造墨手が置かれ本格的な墨生産が行われる。遷都と共に墨生産地も移る。

◆都が奈良を離れても、奈良には沢山の社寺が残り、学問の中心として栄えたので、墨造りの技は奈良に留まった。
 
     懇切丁寧なお話に聴き入る
    (◇)                 ため息が出る製品群
◆固形墨の材料は、着色剤として「煤(すす)」、煤の粒子の接着や光沢を出す「膠(にかわ)」、膠のなまぐさい匂いを和 らげ芳香を放つ「香料」からなっている。
◆墨造り工程概略は、採煙(煤採集)→膠溶解(熱湯釜に膠と水を入れた器を浸ける二重釜で溶かす)→攪拌(通常、煤=10=6の重量比で混ぜ、香料を加えて粗練り)→精錬(墨玉を手でもみ、足で練り、空気 を出し切る)→型入→型出→耳削り(バリ取り)→乾燥(灰の中で720日)→藁編み乾燥(藁に挟んで 1 〜3ヶ月天上に吊るす)→磨き→桟積み(井型に積み乾燥)→彩色・仕上げ→箱詰。
◆液体墨の普及が進み、固形墨の生産は日本で奈良だけになった。 明治期には奈良で40軒の製墨業者があったと言われるが、現在はわずか8軒である。
◆気温が高く湿気の多い夏場は膠が腐りやすい。また墨は内部から徐々に乾燥させないとひび割れする。 などの理由から墨造りは寒期(10月中旬〜4月末)に行う。
◆墨造り職人は、通常5時から作業を開始し、午後2時ごろ身体を洗って退社するが、春先暖かくなるに従い、もっと早くから作業に入る。
◆墨造りは気温や乾燥具合が微妙に影響する。その中で、反りがなく、表面がきめ細やかな墨をつくるには 職人の手で墨をもみながら、ちょうどいい具合に、水の量や練り具合を加減する熟練の作業が必要となる。

◆製墨には、墨そのものを造る職人と、墨の表面を模様で飾る彫刻の職人が要る。

◆彫刻職人は柔らかい墨を入れる木型の枠に、文字だけでなく、龍や人物・風景などのきめ細やかな図柄を彫る技を要求される。

◆墨を摺るときは、硯の陸に水を垂らして摺り、海に溜めること。

◆墨は濡らしたまま放置してはいけない。使用後は濡れている部分を拭いて保管すること。そうすれば数十年品質を保つ。
◆墨は乾き切るのに少なくとも3年かかり、さらに膠が熟成されて安定するのに3年を要する。一般に墨が本来の真価を発揮するのは製造後2050年とされている。
 墨の歴史と造り方、墨・硯・筆の正しい使い方、さらには筆記して数千年の記録が可能な墨の将来展望と取り組みなどのお話の後、墨造り現場を案内して頂いた。

        現場での詳しい説明     
(◇)                自動採煙機

  練達の技で墨を練り、型をとっていく          彫刻、一瞬の油断も許されない

この現場では「握り墨体験」ができる。型出した柔らかい墨を握ると、自分の掌紋のついた世界で一つしかない墨の誕生だ。 乾燥などに3ヶ月ほどかけた完成品を箱詰めして送ってくれる。 3人が体験した。   (要事前予約。体験料:送料込で3,150円)

                       製品展示コーナー                  (◇)

 最後に製品の展示コーナーで作品を鑑賞した。

一口に固形墨といっても墨の色合いが多様なので、その微妙な違いを紙に示し並べている。墨の表面も流麗な文字や彩色絵柄で飾られている。さらに朱墨・金泥墨があって、こんなものまで固形墨で造っているのかと驚いたが、白墨もあるのに至ってその手広さに脱帽した。

液体墨も学童の習字用から、プロの書道家が愛好する最高級品まで多彩だ。もちろん朱液もある。さらに、掛字や筆・硯まで展示されていて墨文化へ誘ってくれる。

墨は子供の頃の習字以来身近な存在であったが、何にも知らなかったこと思い知らされた。機械化されている工程もあるが、肝心なところは熟練の技の世界だ。その気迫に圧倒された。それに遺跡からの木簡が示すように、墨は太古の出来事を今に伝える文化の担い手だ。

また、墨は聖徳太子以来日本人に根付く“和の心”そのものだと思う。 墨は煤・膠・香料が三位一体となった和の塊といえるが、内容表現には水と硯の助けを経て、筆により紙に書かれて初めて日の目をみる。この相互補完した連鎖が和の心の大切さを教えてくれる。

《 墨文化支える奈良や山紅葉 》(◆)

《 青丹よし奈良の呉竹墨造り 守り伝える大和魂 》(▽)

<昼食 田舎料理 草ノ戸>

訪問した土地の食文化を味わうのも文芸クラブ活動目的の一つ。今回は奈良に伝わる大和棟の「草ノ戸」で田舎料理の“風流弁当けんずい”を頂くことにした。

「大和棟」とは、屋根の上に「鰹魚木(かつおぎ)」といって、鰹を横たえ並べたような木や、「烏おとし」(烏威し)の竿を乗せて、妻(棟の端)の片側の落屋根に「煙出し」を設けたもの。

「草ノ戸(え)」とは、萱で葺いた民家のこと。麦葺きの倍、50年以上の耐久力を持つそうだ。昔、多くは麦わら葺き屋根だったが、公事屋(くじや)とよばれた村役の家は萱葺きだったという。

「けんずい」とは、「間食」のこと。機械化の進んでいなかった頃、農繁期には三食の間に「けんずい」という軽食を摂ったそうだ。“けんずい”は大和地方だけの方言かと思っていたが、念のため辞書で調べてみると、大昔からの言葉で、間水・硯水・建水などの漢字があり、間食以外の意味もあることが分かった。また、面白い語源説もあるが、ここでは紙幅が足りないので、文芸クラブの作品集で詳しく紹介しよう。

 田舎料理草ノ戸は、そこだけ取り残されたような鄙びた外観で建っていた。内部は往時の造りを残しながら、勝手を調理室に、居間を食事処に改装していて、座敷席の他に椅子席があるのが有り難い。

文芸クラブに新しく入られた3人の方の自己紹介を皮切りに賑やかな昼食。興奮覚め遣らぬ墨造りの話やこれからのことなど、時を忘れて歓談。

                        楽しい昼食風景                    (◇)

「風流弁当けんずい」には数え切れないほどの野山や海の幸が盛り込まれている。ご飯はやや粘りがある古代米、いずれも身体にやさしいものばかりだ。 ボリュームは間食やお八つの域をとっくに超えている。これを「けんずい」とは憎い。

《 草の戸や至福のひととき秋深む 》(◆)

<薬師寺>

 薬師寺は法相宗の大本山で南都七大寺の一つ。本尊は薬師如来。開基は天武天皇。飛鳥の藤原京で建立。平城京遷都で現在地に。平成10(1998)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された。

    
         南門横の通用口                         回廊

薬師寺の伽藍は南北一直線上に、中門・金堂・講堂が並び、その線を介して東西対象に、東塔・西塔、経蔵・鐘楼が建つもので、これを「薬師寺式伽藍配置」と呼ぶ。

この美しい伽藍が天禄4(973)の火災、享禄元年(1528)の兵火で多くの建物を失い、つい20世紀半ばまでは、江戸時代後期に仮再建した金堂・講堂が侘しく建ち、白鳳期の華麗な伽藍を偲ばせるものは東塔だけであった。

昭和42年、高田好胤管主により薬師寺白鳳伽藍の復興が発願され、写経勧進という浄財によって、金堂・西塔・中門・回廊、更には平成153月に大講堂が復興され、白鳳伽藍が甦った。

本尊が雨漏りのする仮金堂に安置されていた時代、七堂伽藍は荒寥としていたが、白鳳期からの唯一の建物、東塔に魅せられて、内外の文人墨客が訪れている。 東塔は“凍れる音楽”と讃えられているが、それは三重塔ながら六重のように見える裳階を含めた屋根の重なりから、先端部の相輪・飛天像が透かし彫りされた水煙までの造形リズムによるのだろう。

         
                東塔                         西塔

“ ゆく秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なるひとひらの雲 ” (佐佐木 信綱)

国文学者・佐佐木信綱が詠んだ季節に訪ねたが、残念ながら東塔は養生の真っ最中。老朽のため来年の秋頃から10年かけて解体修理することになっていて、そのための事前調査を今秋から来春にかけて行うためだ。

中門を入ると甦った白鳳伽藍の世界、昭和・平成の再建なので塗り色も鮮やか、正に“青丹よし”だ。先ず目の前の金堂にお参りする。 再建復興は金堂から始まった。 それは御本尊を安置する建物だったからだろう。(他の宗派では、本堂・中堂・仏殿・御影堂・阿弥陀堂などと呼ぶ)

    

       昭和51年に復興した金堂 (薬師三尊像 <国宝・白鳳時代> が安置されている)         (▲)

まだ金堂が再建される前、母と妻と三人で机を並べて写経勧進をしたが、その時の法話で好胤さんが「御本尊さんが雨漏りのする仮金堂に居られるのが耐えられない」と涙を流さんばかりに話された。だから金堂さえ再建されればと願い、身を粉にして全国を周り、写経勧進を訴えられたのだろう。

《 青丹よし奈良の薬師寺想い出す 法話写経に母の笑顔 》(▽)

申し込んでいたので、好胤さんが私の師匠だったという僧侶から法話を聴くことができた。

◆健康は「健体康心」という四字熟語からきている。体が健やかで心が康(やす)らかな状態をいう言葉で、体の状態だけではない。

◆法相宗は日本で一番古い宗派で南都六宗の一つ。現在薬師寺の僧侶は、長老からはじまって14人しかいない。 薬師寺の僧侶は葬式に立ち会わない。それは創建当時、奈良の寺は学問をする所という考えであったためと考えられる。 それゆえ古代伽藍の通則として、金堂より講堂が大きく、そこに大勢の学僧が参集して経典などを学び議論した。

◆薬師寺は天皇(国家)の発願によって創建されたので檀家がない。従って寄進を檀家に仰ぐことができない。それで高田好胤管主は100万巻写経勧進で金堂を復興しようと発願した。
◆好胤管主はよく、「物で栄え、心で滅びる」と言っていた。松下幸之助さんが70代、好胤さんが30代後半の頃のテレビ対談でも、この考えの深遠さに共鳴しあっていた。 そうならんためには、色即是空=物と心の調和が大切。
 

      平成15年に復興した大講堂 (弥勒三尊像 <重文・白鳳時代> が安置されている)       (◇)

《 甦る白鳳伽藍や暮の秋 》(◆)

<がんこ一徹長屋>

がんこ一徹長屋にはバスの駐車場がないとのことで、薬師寺から歩いた。地図で見ると、草ノ戸・薬師寺・がんこ一徹長屋は指呼の距離だが、痩せることを知らない身には辛い。

都が移ってくる以前、このあたりは埴輪や土器を焼いたり、道路や橋を架けるなどの技術集団、土師氏(はじし)の居住地であった。土師氏は後に改姓を請願し、菅原氏と呼ぶようになった。菅原道真もその子孫になるそうだ。 

そのような由縁の地に、伝統工芸をがんこに守り育てようと、奈良筆一刀彫漆工芸茶筅表具赤膚焼の匠が軒を連ねている。 常時どの匠も作業をしているわけではないが、中に入って作品を鑑賞したり買ったりはできる。手軽に買えるような小物もあるが、とても手が出ないほどの作品も展示している。次々と六つの分野の伝統工芸品を味わえるのが嬉しい。

 長屋の一番奥の一角に「墨の資料舘」がある。 2階で墨の製造工程のパネル展示および、墨を手で練り木型に嵌めこむ「型入」作業の実演をしていて、ここでも握り墨体験ができる。

3階は日本および中国、韓国、台湾の墨や、著名作家による書画作品などの展示。また、テレ映像による墨の紹介や、資料館の方のお話も伺える。 
 墨の語源から歴史、製造などの解説資料、日本の変形墨から、外国の墨までの豊富な展示品など、呉竹で墨のお話を聴き、現場も観てきたので一層興味深く見学できた。

     

        がんこ一徹長屋の軒並                 墨の資料舘           (◇) 

   
                          台湾の墨(現代)
 最後に、高畑町にある食事と土産の店「なら和み館」へ寄り、ショッピングして帰途に就く。

今年は文芸クラブにとって大変な年であった。車中の話題も自然に原春二さんや今年の回顧になる。老いの身なれば年々身体能力は落ちるが、兎にも角にも一同元気に例会を楽しめたことを共に喜び感謝しよう。などと話していると、西の山辺に真っ赤な太陽。3日前に映画を観たばかりだったから思わず「沈まぬ太陽だ!」と叫んでしまった。 

映画『沈まぬ太陽』のラストシーン。 アフリカの草原、地平線の真っ赤な太陽を見ている渡辺謙扮する恩地元の後姿…。 そして台詞。

≪アフリカは厳しい所だが、心が安らぐ…。 地平線に黄金の矢を放つアフリカの太陽は、荘厳な光に満ちている。それが私には、人間の心をいつくしみ、明日を約束する、沈まぬ太陽に思えるのです。≫
 そのような台詞だったと思う。

私たち文芸クラブも沈まぬ太陽でありたい!

来年も元気で活動しよう!

<俳句>桐山俊子(◆印)    <短歌>永野晴朗(▽印)  

<写真> 竹内一朗(◇印) 桐山俊子(▲印) 永野晴朗(無印)    <>永野晴朗