☆第43回  生野銀山・あさご芸術の森美術館


生野銀山に1200年の時空を訪ね
朝来のダム・美術館・桜花を楽しむ

〔平成20410()〕 参加者26


 あいにくの雨。「春に三日の晴れなし」とはいうものの今日でなくても…。 それでも旅の期待で車内は明るく晴れている。
 前回の室津で熱心に説明してくれたガイドさんに写真を送ったら、丁寧な礼状がきたと車内で披露。 続いて、こんな天気なので立雲峡は無理かもしれない、状況をみて他を提案し臨機応変に対応したいと本日のタイムス・ケジュール説明。

 会員の投稿による作品集の内容説明と更なる投稿のお願い。これから訪ねる朝来市や生野銀山・立雲峡の歴史や見どころ・土産などの話をしているうちに一般道へ。ここらあたりでは丁度桜が見ごろを迎えている。10時、生野銀山到着。うまい具合に雨は止んでいる。
                             “史跡訪う生野銀山花曇り” (◆)
<生野銀山>
 生野は元来、「死野」と呼ばれたが、応神天皇の命で「生野」に改称したそうだ。自然に流出した鉱毒で魚や鳥などの死骸が目立っていたのだろうか。
 
そんな寒村だったが、大同2年(807)に開坑され、生野銀山の歴史が始まったと伝えられている。昨年は開坑1200年に当たり、さまざまな行事で賑ったそうだ。
 本格的な発掘は、室町年間の天文11年(1542)、但馬国守護大名・山名裕豊(すけとよ)が銀鉱脈を発見してからになる。宝の山は時代の権力者の好餌。織田・豊臣・徳川が支配、江戸時代には幕府が「銀山奉行」(のち「生野代官」)を置き最盛期を迎える。
 明治元年、政府直轄鉱山となる。鉱山長は幕末に鎖国の禁を犯して英国に密航し、鉱山学を学んだ薩摩藩渡欧留学生の朝倉盛明。お雇い技師長にフランス人のジャン・フランソワ・コァニェが着任。軌道や捲揚機の新設など数々の先進的施策を挙行し、目覚しい近代化を成し遂げる。 

生野銀山入口  (◇)

生野銀山の歴史説明に聞き入る (◇)

明治22年、宮内省御料局の所管に移され皇室財産に。次いで明治29年、三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の鉱山として稼行する。
 鉱脈を求めて、坑道は総延長350kmを超え、深さは880mまで達し、資源減少による鉱石の品質悪化、長い坑道による採掘コストの増加、山ハネ(岩盤内部に蓄えられた歪エネルギーが急速に解放されることによって引き起こされる岩盤の破壊現象)による採掘危険、などの理由から昭和48年に閉山する。

 生野銀山の見学は再現された生野代官所門から始まる。三菱OBの方が案内してくれた。先ず、生野銀山の歴史についてのお話、次いで「鉱山資料館」で展示物を示しながらの説明の後、「観光坑道」の案内。
 所々に江戸時代の坑道があり、その狭さや丸太に足場を刻んだ雁木(がんぎ)梯子、24時間休みなく送風した様子に、当時の過酷な作業がうかがえる。
 当時は、どこの鉱山でも坑内作業は3年が限度。劣悪な環境と過酷な労働で、平均寿命30歳だったというからひどい。


観光坑道「金香瀬坑」坑口 
(◇)

人工の洞窟へ (◇)

狸穴
 坑道の所々に、這ってやっと通れる位の小さな穴が掘られている。鉱脈探しの穴で、タヌキアナと呼ぶ。江戸時代のノミの跡が残っていて、当時の気の遠くなるような作業を垣間見る。
◆シュリンケージ
 鉱脈は1枚の板を立てたような状況で地下から噴出していて、1km以上の長さのものもあるそうだ。鉱脈を破砕し、順次鉱石を井戸に掻き落としていくと、このような深い空洞ができる。                           


狸穴

シュリンケージ
 次に近代採掘場へ進む。機械化されても危険な地底の作業に変わりはない。どの作業でも先ず安全への手立てがなされている。           

エレベーターたて坑の説明 (◇)

捲揚室 (◇)
◆エレベーターたて坑
 エレベーターは2階建てで、四方に冊を付けた簡単なもの。エレベーター室にしなくても真っ暗で見えないから、高所恐怖症にならないそうだ。
   
◆捲揚室
 巨大なドラムが2つ並び、
太いワイヤーが巻かれている。巻き方はそれぞれ逆になっていて、捲揚機を稼動させと、上昇と下降が同時にできる。
                                     

 光と音を使っての爆破の再現には思わず身を引いた。立坑のエレベーター・巨大な捲揚機
などの設備、電動人形の作業再現などを見て終了。やはり外がいい。空気がうまい。
     
                                  坑口で全員撮影 (◇)  
          背後の崖には江戸時代の採掘方法がわかるように、さまざまな人形が配置されていた。

 
 地底観光といえば鍾乳洞が定番だが、坑道観光は薄暗く、華やかなものは一切ない。江戸時代は言うに及ばず、近代でもどんな気持ちで坑道に入って行ったのだろう。たった1km/40分だったが疲れた。

                          
                           “さくら雨生野銀山洞暗し” (★)

1時間ほど自由行動。売店のジュエリーもいいが、華やかさ皆無の世界から掘り出され、光り輝くお宝を見ようと「生野鉱物舘」(入館料200円)に入った。
 ここは世界的に有名な三菱ミネラルコレクションで、鉱物学の先駆者・和田維四郎博士が明治年間に日本各地から集めた鉱物標本を主体に、江戸中期の愛石家・木内石亭、生野銀山に勤務していた藤原寅勝氏の鉱物コレクションなど、約4,500点を所蔵し、常時1,200余点を展示している国内最大の鉱物博物館である。



輝安鉱

水晶(日本式双晶)


 まず、入口の大きな輝安鉱と水晶(日本式双晶)に目を見張る。仕事で使っていた三硫化アンチモンの原石の輝安鉱とはこんな物だったのか。水晶に六方柱状でなく、こんな形もあるのか。2階の展示室は壮観そのもの。鉱石別に整然と陳列され、詳しく説明されている。鉱脈から取れる自然金なるものを初めて見た。
 興味は尽きないが、なにしろ多い。とても1時間では見ることができない。資料館と合わせて再度じっくり見に来たいものだ。

<道の駅「あさご」>
 バスで和田山方面に向かうと、円山川の源流域に入る。本日の昼食は312号線脇の道の駅「あさご」で、鹿肉料理を頂く。


鹿肉の刺身

鹿肉の焼肉

                           “鹿の肉初めて食す花の昼” (★)

 鹿肉料理はヘルシーな美容食として人気だそうな。刺身と焼肉が出たが臭みはなく、柔らかくて美味しかった。
 このあたりは鹿による被害が甚大で、実際、防御ネットをいたるところで見たし、後で行った美術館の花壇が頑丈な金網で覆われているのには驚いた。そんなことで、止むを得ず捕殺したものが鹿肉料理として提供されているわけである。
            
                       黒川あや子駅長の熱弁に聴き入る (◇) 

 道の駅「あさご」は、昭和61年から取り組み始めた「村おこし事業」が発端で、運営は第3セクター方式。平成5年4月に「道の駅」に認定されて以来、単なる「お土産屋」・「休憩施設」でなく、地域の情報発信基地の拠点として運営され、全国各地から視察団が来るほどの評判。
 食後、「あさご」をここまでにした黒川あや子駅長のお話を聴く。肩書きは「朝来市産業振興部商工観光課道の駅あさご情報センター主幹」で、朝来市の職員だが、いわゆるお役人的なところは微塵もない。急な頼みだったが、お忙しいなか快諾を得、設立経緯から始まり、その運営について、「道の駅哲学」ともいえるお話をしてくれた。
 地方の疲弊が叫ばれているが、朝来ではお年寄りが支える地場産業があり、“「あさご」の元気はお年寄りの元気!”を合言葉に、ウエルネス(wellness 心身の快適状態)地域づくりをしている。また、“イベントこそ双方向的コミュニケーションシステム”であると認識した企画・運営をしている。さらに、PRについては、道の駅「あさご」が地域からの情報発信基地の役割を持つとし、“情報とは、「情けに報いる」情報を的確に送ること”と位置づけしている。
 黒川駅長は主婦でもあると思われるのに、現在、ODA(政府開発援助事業)の仕事もされ、タイの産業村の地域おこし事業に携わり、度々渡航し指導している。
 1時間ほどのお話だったが、次々飛び出すキーワード、地域おこしに対する熱意、エネルギッシュな活動に一同圧倒された。


 また雨が降り出したので立雲峡は断念。多々良木ダム湖を巡り、あさご芸術の森美術館を観ることにした。
                               
                           “春の雨心残すや立雲峡”
 (◆)

<多々良木ダム>
 奥多々良木発電所は、市川と円山川の分水界一帯の地形的特徴を利用した揚水式発電所で、揚水式としては日本最大出力を誇る。市川の最上流部に黒川ダム(上部ダム)、円山川の支流、多々良木川上流部に 多々良木ダム(下部ダム)を設け、この間の有効落差387.5mを利用し発電するもの。
 ダムの外側はコンクリートでなく、ゴツゴツした岩を積み重ねたロックフィル式ダム。巨大な建造物だが、その外観により周囲の景観にとけこんでいる。
 一方ダムの内側はツルツルしていて、なだらかな傾斜を描き水中に没している。上部ダムに水を揚げている時間帯だったのかダム内の水が少なく、よく観察できてラッキーだった。
 湖岸の桜が丁度満開で、ちょっとしたトンネルになっていた。半周ほどで道が細くなり引き返しダム直下の美術館に向かう。
                            “雨の中さくらトンネルいよよ白し” (★)

<あさご芸術の森美術館>

ここはダム建設時の建物を関電から譲り受け美術館に改装したもの。樹木に囲まれた広大な野外彫刻公園と美術館施設で構成されていて、朝来市出身の文勲彫刻家・淀井敏夫の作品群の常設展示や現代美術の企画展などを行っている。


堰堤を借景にした美術館前広場

あさご芸術の森美術館を望む

 屋内施設には展示室のほかアトリエ室や情報コーナー等もあり、館主催のアートキャンプやワークショップを通じて地域への芸術文化普及活動を行っている。今は開館10周年記念として、「ヨーロッパ絵画の至宝展」が開催されていて、シャガール、ピカソ、ユトリロ、などの作品をじっくり鑑賞できた。

                         “シャガールと対話す花の美術館” (★)

 ここも桜満開。このあたりは千本桜と称されるだけあって見事な桜並木である。雨のお陰で午後なのに山々から盛んに靄が立ち上り、桜花を引き立たせている。やはり日本の国花桜は、晴好雨奇の花だ。

美術館の桜並木 (◇)

靄に煙る山並み (◇)

                       “雨の日は雨に似合う花もあり” (◆)

立雲峡には行けなかったが花見は満喫できた。朝来地域は「南但馬のまほろば」と称えられていて見るべきところが多い。
 日本初の高速道路「銀の馬車道」(生野〜飾磨港(現、姫路港)間49km)を通り、神子畑選鉱場跡と日本最古の鋳鉄橋も観たい。その時、立雲峡行きもかなえたいものだ。
 帰途、道の駅「フレッシュあさご」でお土産を買って朝来を後にした。

                           “先人の暮らしを思う春一日” (◆)



俳句:桐山俊子(◆印) 井元純子(★印)   写真:竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印)    文:永野晴朗