☆第38回  古刹と手織りの里

〔 平成18年11月22日(水) 〕

錦繍の湖東で近江上布の工房を見学し、金剛輪寺・西明寺で紅葉狩りを楽しみ

多賀大社で平安を祈りました

参加者33名


湖東は
6世紀ごろ京都太秦を拠点にしていた秦氏が、大陸文化をもって開拓
農民に養蚕、機織りの技を教え、副業として麻布の生産が浸透
暮らしが豊かになった
7世紀になると百済寺創建、8世紀には金剛輪寺9世紀に西明寺が建立された
三寺は、天台宗寺院として広大な境内に甍を並べ多数の僧兵を擁したが
信長の焼き討ちで、ほとんどの建物が灰燼に帰した
今では「湖東三山」と呼ばれ、紅葉の名所として賑わっている

  まず、この地発展のきっかけとなった織物の里を訪ねた。

【手織りの里 金剛苑】

  湖東で作られる布は、江戸時代に藩侯や幕府に上納されたことから、「近江上布」と名付けられた。また、農家の娘が嫁入り支度に、自ら機織りをして着物を用意したことに始まるのが、「秦荘紬(はたしょうつむぎ)である。

資料館前にて
近江上布 秦荘紬
  金剛苑は、昭和52年に「伝統工芸品」として、近江上布を国が指定、秦荘紬を県が指定したことを機に緒施設を展開した。

天蚕(山繭・山蚕)
天蚕はヤママユガ科の蛾。大形で開張約13cm。日本各地の山地に分布。
クヌギ・ナラなどの葉を食い、黄緑色で楕円形の繭を作る。


  約5千坪の苑内には資料館、金剛庵、染色工房、蚕室、庭園、桑園を配し、資料の保存、技術・技法の伝承、麻、藍の栽培、家蚕、天蚕の飼育などをしている。
櫛押捺染 染め具  型紙捺染(左端)  櫛押捺染(中央)

糸から織物が出来るまでの見学。結び染めの体験。 糸染めから絣織の技術指導をする研修制度もある。

係りの方が、金剛苑の手前からバスを誘導、苑内をくまなく案内してくれた。

懇切な説明に聞き入る

【金剛輪寺】


金剛輪寺は
聖武天皇の祈祷寺として、行基菩薩が天平13年(741)に開山した
桃山・江戸初期・中期様式を残す明寿院の庭園、参道の石地蔵
僧侶の奇智で焼失を免れた本堂三重塔二天門
「血染めの紅葉」と言われる紅葉で知られる




                        明寿院の庭園






千体地蔵尊
桃山〜江戸時代の庭園様式を楽しめる
  明寿院から二天門までの参道は荒々しい石段道。
  両側に連なる石地蔵、巨木に囲まれた地蔵群は壮観そのもの。すべて信者の寄進によるという。


本堂(国宝)と血染めの紅葉

本堂は入母屋造で桧皮葺の曲線がやさしい。
鎌倉中期の建立で、優美さの中にも荘重な風格を感じる。

【昼食】

  今回は紅葉狩りらしく弁当。
簡単な折り詰めでなく、温かいご飯に多彩な副食とお茶付き。


      “秋深む色どり弁当乙な味” (★)


【西明寺】


西明寺は
仁明天皇の勅願により、三修(さんしゅう)上人が承和元年(834)に開創した
見どころは、本坊書院の庭園と焼討ちを免れた本堂三重塔二天門
なかでも、三重塔の内部を拝見できたのは幸運であった


  西明寺は参道の下を名神高速が走っていることで知られている。跨道橋参道工事では、一旦取り除いた参道の石などを全て元通りに並べたそうで違和感がない。気付かず通りすぎそうになった。

  両側に連なる坊跡の石垣に往時を偲びながら上ると二天門に着く。

  入母屋造・柿葺の八脚門。室町初期の
建立で、増長・持国の二天を祀っている。




二天門(重文)


  本堂は鎌倉初期、飛騨の匠が建立した純和様建築で、入母屋造・桧皮葺。
  
ゆるやかな屋根の勾配、蔀戸(しとみど)、板扉、格子、蟇股(かえるまた)などから醸し出す典雅な宮殿建築風の趣は、和様建築の典型といわれている。

  三重塔は鎌倉後期、飛騨の匠が建立したもの。
高さ23.7m、檜皮葺、総桧の純和様建築。木組み、屹立した外観は一分の隙もない。
  初重内部の壁画は、鎌倉時代の壁画としては国内唯一のものだそうで、保存に気配りがされている。湿気を嫌うので、雨の日や湿度の高い季節には拝観できないそうだ。
  拝観するには、入り口で手荷物を係りの人に預け、身一つで入らねばならない。
  中にも係員がいて、壁画に触れないよう 注意される。説明はいちいち画を示しながら丁寧にしてくれた。
  内部は、中央の須弥壇に大日如来を祀り、その四天柱には、脇侍仏の金剛界三十二菩薩が、堂内一面には、法華経の図解・極楽鳥・牡丹・唐草文様などが、いずれも極彩色に画かれている。  およそ700年の時を経ているとは思えない鮮やかさであった。
  紅葉を愛でながら引き返し、国指定の名勝庭園、蓬莱庭に入った。



三重塔(国宝)

“仰ぎ見る国宝の塔紅葉燃ゆ”(★)

江戸初期の作庭といわれ、自然の山の端を利用した築山は、雑然としているようだが、薬師如来・日光・月光の三尊仏をあらわす立石、十二神将などをあらわす石組みで、諸仏諸菩薩が群立する曼荼羅図をあらわしているそうだ。

本坊書院の蓬莱庭


中島・石橋を配する心字池には、鶴島と亀島がある。水量豊かで、防火の役目も兼ねている。



【多賀大社】


多賀大社は
伊邪那岐(いざなぎ)大神と伊邪那美(いざなみ)大神を祀っている
両大神は高天原で初めて夫婦の道を始め、天照大神をはじめとする八百万の
神々、我々人間をはじめ草木一切にいたるまで、ありとあらゆる生命を生んだ

その後、琵琶湖を西に望む杉坂山に降臨、多賀の霊地に鎮座した
と古事記は伝えている
そうした生命の親神としての由緒にちなみ
延命長寿・縁結び・厄除けの神「お多賀さん」として親しまれている


  鎌倉時代は犬上郡の総鎮守として仰がれ、神主は鎌倉御家人であった。室町時代以降、伊勢神宮の御師(おし)と同じように、坊人(ぼうじん)と呼ばれる社僧が諸国をまわり、神徳を説き、神札を配って信仰圏を広げた。
  「お伊勢参らば、お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」とか、 愛宕参りを言い換えて、「お伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀様へは月参り」という歌もはやり、織田信長・武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康ら著名な武将の崇敬を受けた。
  最近では、司馬遼太郎が「淡海の水も青し 多賀の杜の木洩れの空も青し 道端の露草も青し」という絵馬を奉納している。

  多賀大社は、年間200万人近い参拝者を数えるそうだが、閑散としていた。
  何はともあれ、今年の無事を感謝し、来る年の平安を祈った。


“秋夕焼多賀神社へお礼参り” (★)

社務所から参集殿の奥へ進み、江戸時代の奥書院(県文化財)と、庭園(国名勝)を拝観。

書院の襖絵、桃山風の池泉観賞式庭園、いずれも立派な造りであったが、すでに暮色蒼然、はっきりと観賞できなくて残念だった。

 なお、この庭園と表正面の反り橋は、秀吉が母の病気平癒の祈祷を依頼し、快癒に及んで米1万石を寄進したことによって築造したと伝えられている。
太閤橋(太鼓橋)


好天に恵まれ、紅葉の一番いい時に観賞できたが

古刹には静寂が似合う
紅葉を避けて、じっくり観にもう一度来たい

俳句() : 井元純子  
&写真 : 永野晴朗