第106回:9月例会 「京都・石畳の小道と東山を巡る

2011年9月22日(木)  参加者64名


 9月22日(木)台風15号は通過したものの、朝はかなりの雨音に目を覚まされた。
64名が祇園祭の余韻の残る「
八坂神社」の本殿と舞殿付近に集合。

岡村リ-ダ-より本日の行程を説明、
「古き良き時代の京都の面影が色濃く残る東山界隈を楽しみながら歩きましょう」とあいさつ。
会員仲間の「内田 秀雄さん」の悲報にこうべを垂れる。
ストレッチを行って南楼門より東山へ踏み出す


 
南楼門付近に集まる会員の面々。話題は雨が降るか
どうか
、 あるいは暑くなるかどうか?

中尾会長からの、
    会員:内田 秀雄さんの死亡に全員驚く!!


岡村リーダーが本日行程を説明

全員で内田 秀雄さんに黙とうをささげる。
    ◆◇『内田 秀雄さん』
 
 
北摂歩こう会の古参会員の内田 秀雄さんが、
8月16日に亡くなられました。

中尾会長よりご紹介があり、全員で黙とうを
捧げました。

今年度も、1月・3月・4月度例会にお元気に
ご参加いただきました。


ここに「北摂歩こう会」として、内田さんの
ご冥福をお祈りいたします。

   
田村リ-ダ-の掛け声で、ジックリとストレッチを実施
◆◇『八坂神社』(今回は説明は割愛)
 
 「祇園さん」で親しまれる八坂神社は、祇園社・
祇園天神社、、、などと呼ばれていたが、1868年
(明治元年)に現社名となった。

869年京に未曽有の疫病が流行した際、日本の国数
にあたる六十六本の鉾を先導させ祇園社の神輿を
かついで悪霊退治の御霊を行なったのが、
祇園祭
の起こりだといわれる。
今も7月一杯は京都の街中は祇園祭一色となる。

八坂神社で、夏の祇園祭とともに有名な、
大晦日から元旦にかけての
をけら詣りは、
木をこすり合わせて火を起こし、
大晦日に拝殿で削りかけ(かんな屑)に万病を
治すという
薬草おけらを加えて燃やす。
この火を火縄につけて振りながら帰宅して
かまどの火として用いれば、
無病息災の効があるという。

   左へなだらかにのぼって東大谷祖廟の方向へ。左側の円山公園からの道に沿って右折。
ここからが「
ねねの道」となり、両側に料亭や1みやげ物屋が並ぶ。
すぐ目の前に祇園祭の長刀鉾を模した祇園閣を擁した「
大雲院」がある。
 


彼岸の中日の前に、「大谷祖廟」を目指して歩き始めた

安土宗論にに勝ち信長の信任を得た貞安上人が信長の菩提を
弔うために建立した
大雲院。 祇園祭の長刀鉾を模した祇園閣
高さ36m三層江戸時代創建の石川五右衛門の墓でも有名
     
◆◇『ねねの道』 

 円山公園から来て、霊山護国神社への維新の
道までが「
ねねの道」と呼ばれている。

一念坂(一年坂)、二年坂、三年坂(産寧坂)と石畳と順に
坂道を登っていくと、「清水寺」への清水坂につながる。

 この「ねねの道」は、北へ一直線の平坦な石畳の道。
正しくは高台寺道といい、ねねの道と呼ぶのは、秀吉の
正妻北政所「ねね」ゆかりの寺、高台寺と園徳院があること
から である。

平成10年に御影石を敷きつめた道に生まれ変わった。 
あたり一帯はロマンティックな石畳ロードで、
女性向けの観光スポットとなっている
   さらに南へ、左側に樹々の間をまっすぐに「高台寺」に続く石段がある。
秀吉没後、その菩提を弔うために
家康の命で建立され、秀吉の正室北政所が、冥福を祈りつつ
余生を送った寺院として有名。
寺前の萩・苔筵を鑑賞して、南隣の「
霊山観音」へ。観音さんを背景に記念写真。



ねねの道から左へなだらかな階段の「高台寺」への道。
坂を上りつめた所にある表門。薬医門の形式。
伏見城からの移築とのこと。

臨済宗の「高台寺庫裏」。寺内には桃山~江戸時代の文化財
及び 秀吉・ねねの遺品など多し。桜・紅葉時のライトアップ、
東山を借景にした小堀遠州の庭園など必見スポット。


高さ24mの霊山白衣観音坐像。昭和30年6月8日に開眼。
一篤志家により、殉国の英霊と太平洋戦争の戦没者を弔うため
に建立された。内部は1・2階と本尊・秘仏が祀られている。

1868(明治元)年に官立の神社。幕末~戊辰戦争に倒れた
有名無名の諸藩士を祀る
霊山護国神社」。
坂本竜馬の銅像・墓もあり、昨年は大河ドラマでにぎわったそうな。

   WC後、公園を抜けて狭い通りから、「石塀小路」へ。ここから当分は迷子にならないように!! 
南へ「八坂の塔」の通称で知られる法観寺へ。二年坂~三年坂まで。途中緑の大谷廟付近で休憩。

 
「石塀小路」(いしべこうじ)石塀小路と書いた小さな街灯の下、幅2mほどの小路。京都らしい 狭い間口の旅館や小料理屋などが並んでいる。

この石畳の石は、市電の軌道に敷かれていた敷き石のリサイクル。
打ち水された夕方の道は京情緒が味わえる人気の道。

    ◆◇『八坂の塔』 
 
 三年坂と二年坂の流点の手前にの右手に塔が立っている。
重塔で正式には法観合寺(臨済宗)で、通称が八坂の塔で
あり、東山のシンボルである。
法観寺の創建は聖徳太子建立説が有力となっている。
八坂神社と清水寺の中間に位置するために、この争いで
焼失し、1191年に源頼朝が再建した。

のち兵乱などにより、炎上と再建を繰り返し、1440年に
足利6代将軍の義教が再建して、重塔、薬師堂、大師堂が
残っている。

塔の内部は拝観でき、五智如来が安置されている。
 
   
八坂庚申堂は日本三庚申の一つで、境内には「賓頭盧(びんずる)」
も安置されている。庚申(こうしん)」とは、干支(えと)の
庚(かのえ)申(さる)の日のことです。
 
数珠つなぎの「くくり猿」が吊るされている。 お猿さんが
手足をくくられて動けない姿を表したもの。
欲のままに行動する人間の「欲望」が動かないように
、庚申さんによってくくりつけられている。
 


 清水坂を登って「清水寺:仁王門」をめざす。清水寺の額のかかった朱鮮やかな仁王門。
左右の仁王像は京都市最大。
「西門・三重塔」で西方浄土を欣求し、少し早目の昼食。WC。懇談。
 

   
みやげ物屋や飲食店・喫茶店などが隙間もなく両側に軒を並べて
いる参道を、ごった返す人波をぬうようにのぼる。
清少納言の
「さわがしきもの」
は今の世も続いている。
 
◆◇
『清水寺』(北法相宗総本山)
 京都の社寺で最も多くの観光客が訪れる清水寺は、
多くの伽藍がそびえ、
世界文化遺産に登録されて
います。
西国三十三所観音霊場の第16番札所。
起源には諸説あるが、坂上田村麻呂が810年に
国家鎮護の道場として建立したと伝わる。

南都北嶺の興福寺・延暦寺の抗争で焼亡と再建を
繰り返した。
今回は、昼食の場所として借用を願い出ました。
今少し早ければ「千日詣り」の功徳にあずかること
ができたが残念ながらまたの機会に出直しましょう。
「清水の舞台」の名で知られる18mの高さを飛んだ
人々の決意のほどがしのばれる。
建物の多くが徳川家光により、再建されたものと
言われる。寺名の由来となった「音羽の滝」の
三筋の水も今の水害には救世の祈りを捧げる
人が多いとか。
 
みやげ物・特産品を買うよりも、
試食に走り回って、童心帰りか
 
清水坂の突き当たり、石段上に朱色の輝くばかりの「仁王門」がある。


試食食べて今日の弁当は食べれるかな~

少し座り心地の悪い場所での昼食懇親会。
暑くない天候が何よりの好物となったか?
   午後清水坂を「東大路」まで下る。松原通りの右に「六道珍皇寺」あり。
「六道まいり」でおなじみの、「閻魔大王像」とお友達の「小野篁」像あり。
最近のパワースポットで有名。
飴を買う幽霊
ー「みなとや幽霊子育飴店舗前を何もなく通過。

来年の大河ドラマの舞台:平家一族の京館があった「六波羅」。(福原(神戸)とともにゆかりの地)
松山ケンイチ演じる平清盛が主人公。
「六波羅蜜寺」でWC小休憩。

 
  ◆◇『六道珍皇寺』(ろくどうちんこうじ/ちんのうじ)

「六道さん」で親しまれる。
臨済宗の寺であり本尊は薬師如来。
836年国家鎮護所として建立された。
葬送地鳥辺野の入口にあたるので「六道詣り」(精霊迎え)
の寺として有名。

本堂南東の鐘楼にある
迎え鐘は、亡者をこの世に呼び返す
と言われ、盆には早朝から鐘がつかれる。
鐘楼南の篁堂(たかむらどう)は
小野篁(おののたかむら)
を祀る。
篁は昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめたという伝説
が広く流布され、この伝説と六道(地獄・餓鬼・畜生・
修羅・人間・天上)のわかれ道とが結合して、一帯は
六道の辻と称された。
平素はさびれているが、盆には夜店も出て、賑わう。
篁堂には、弘法大師・小野篁・閻魔王像を安置する。


京都産で有名な怪談の【
飴を買う幽霊】ー「みなとや幽霊子育飴」は今も売られている。

死んだ妊婦が墓の中で出産し、その赤ん坊を育てるために夜毎
お乳代わりの飴を求めに現れた
セレブ・ゴースト。
今もその飴を売る店があるとは
リアリティ満点!背筋がゾッと寒くなったかな~ 
小泉八雲も名もなき怪談を全国区にした。


   
篁堂」を覗くと、アット驚く。
迫力満点の
閻魔大王の木像が鎮座している!!
 
本堂南東の「迎え鐘」は、亡者をこの世に呼び返すと言われ、
盆には鐘がならされる

   
今もその飴を売る店があるとはリアリティ満点!背筋がゾッと寒くなったかな~ 小泉八雲も名もなき怪談を全国区にした。
 
六道珍皇寺の門前西側、六波羅蜜寺の北側の「六道の辻」。
この世とあの世の分れ道とされている。謡曲「熊野」では、ここを
「冥土に通うなるもの」と謡っている。
  ◆◇『六波羅と平清盛・源氏』
  「六波羅蜜寺」は空也上人により建立され、六種の実践修行・布施・
精進などの
六波羅蜜をあてて寺号とした。以来、寺周辺をさす地域の
呼称となった。

保元・平治の乱で源氏を抑えて勝利し、
平清盛は急に政治力をつけていく。
清盛の時代に居所を拡大し、5,200もの平家の館があり、六波羅屋形は
鴨東における平氏一族郎党の一大集落と化した。清盛の邸は
泉殿といい、
邸内に多くの御堂や神社の惣社があった。
しかし、清盛亡き後、木曽義仲軍の入洛前に平氏自らの手で焼き、
都落ちしていった。
「六波羅蜜寺」の宝物館には清盛の木像がまつられている。朱に自らの
血を入れ、武運を祈って写経した経巻を見ている頃の、太政大臣淨海入道
清盛公の木像である。。
ひきしまったほお、厚い唇。眼光鋭く、気高さがにじみ出ている。

盛者必衰の理(ことわり)をあらわすー永く続いた自民政治にとって代わ
った民主の勢いも瞬く間に失墜。いつの世も、とため息一つ。
1186年に上洛した源頼朝はこの地に屋形設けたた。
さらに、1221年の
承久の変ののちに鎌倉幕府により六波羅探題が置かれた。
のちに1333年
足利尊氏に攻められて滅亡した。これにより後醍醐天皇が都へ帰り建武中興が実現した。



六波羅蜜寺」は空也上人により開創された。
西国三十三カ所巡りの第13番札所。重要文化財多し。

真言宗智山派の寺院である。
六波羅蜜とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧をさす。


御廟山古墳周遊路を歩く。 運慶・快慶の菩提寺からの木像彫刻が数多く保存されている。本堂前には、この模造品が置かれている。

 知恵の輪に似せた六波羅蜜の訓練か??


この付近は、「臨済宗総本山:建仁寺」関連の領域。
「恵比寿神社」「建仁寺」を巡る。

   
恵比寿神社」は西宮・今宮とともに日本三大エビスに数えられる。
十日えびすには、祇園や宮川町のお姐さんが押し寄せる。
 
「建仁寺」方丈との庫裏。
禅が宋からもたらされた様式がうかがい知れます。

   
「双竜図」が天上一杯にある。
  ◆◇『建仁寺』(臨済宗建仁寺派大本山)

 我が国に[臨済禅とお茶]をを伝えた
栄西が1205年に開創した京都最初の禅寺である。

のちしばしば罹災したが、秀吉の時代に
安国寺恵瓊が復興した。
秀吉、徳川幕府の保護を受けた。
枯山水の前庭や「風神・雷神図屏風(俵屋宗達作)」
などが有名である。

また、創建八百年の2002年には、畳108枚分の
「大双竜図」が天上一杯に描かれている。
その他多くの国宝・重文財あり、
見どころが多いお寺です。

   
石畳の道が続き、町家造りの店が軒を連ねる
 
◆◇『花見小路』(はなみこうじ)
 建仁寺の北門から、三条大橋高山彦九郎像までの
約1Kmの道。

お茶屋や料亭が軒を連ねる祇園情緒漂う街並みは、、
四条通の右角にあるベンガラ色の建物が有名な
「一力亭」(いちりきてい)の間である。

仮名手本忠臣蔵の七段目では、大石由良之介は人々の
目をくらませるため、このお茶屋で遊興に耽る。
お茶屋の玄関に灯が点る夕暮れ時舞妓さんの姿も見られ、
格別の風情を見せる。
4月に「都おどりが催される」
祇園甲部歌舞練場
御所風の
上品なしぐさや、能、人形浄瑠璃の動きを取り入れて
出来上がった井上流京舞。
弥栄会館では外国人観光客向けに、京舞・琴・茶道・華道・
狂言などの京都の伝統芸能や文化を
紹介
ギオンコーナーがある。
   「臨済宗総本山:建仁寺」の北山門で解散しました。
そのまま、「祇園歌舞練場」、ギオンコーナーのある「弥栄会館」の前を、「花見小路」を祇園まで
進み帰途へ。
また祇園界隈を徘徊した人、「秋分の日」を前に先祖供養の、京都本山まいりされた方々も。
台風15号の襲来で、数日にわたってヤキモキしていただきましたが、
石畳を歩かれた皆様方に感謝いたします。本当にご苦労様でした。


次回、10月例会は「10/13(木) 信仰の山、妙見山に登る」です。
炎天下の夏から秋への移行が感じられる気候になっているのではないではないでょうか。
多くの皆様方のご参加をお待ちしています。


霊山白衣観音』を背景に記念撮影
   


高槻 あ~そ
16名参加されました。

ありがとうございました。

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高槻 た~
20名参加されました。

ありがとうございました。

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茨木摂津・他
28名参加されました。

ありがとうございました。

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今回の  【世話役】 岡村 肇  辰巳 寛康  冨士永義文