第102回:平城京(へいじょうきょう)を歩く

2011年3月10日(木)  参加者79名


青丹よし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり
 平城京に都した奈良時代は元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の七代で西暦では710年〜784年だ。
早春の3月10日(木)、79名が近鉄新大宮駅に集い、平城京の「歴史の道」(約10km)を軽やかに歩く。
田村さんによるストレッチで全員が身体を柔軟にする。


近鉄「新大宮」駅前で平リーダーより本日の行程説明・
旧暦の3月10日は、13001年前の710年(和銅3年)、元明天皇が藤原京から平城京に遷都した日である (奇しくも)

暖かな天候の下、国道24号線横でストレッチ実行





4/1オ−プン予定の高槻市「今城塚古墳公園」と同規模で、
高槻より160〜200年後の 古墳とみられる:コナベ古墳

ウワナベ・コナベ両古墳は江戸時代までは「元明天皇・元正天皇」陵と 比定されていたが、現在は「陵墓参考地」とされている(墓主は不明)。

3段築造の前方後円墳で、盾形の周濠と 周堤がめぐり、周堤には大量の円筒埴輪が立て並べられていた。コナベ古墳の北側には10基の倍塚が規則正しく 並んでいる。英国人ゴ−ランドの実測図によって明治初期に海外に紹介されたことで有名。

ウワナベ古墳 付近は戦後まもなくの進駐軍の基地造成(現在は航空自衛隊の幹部候補生研修基地)と 国道24号線が古墳の外濠と周堤上を通過しており、保存上で問題を残した。辛うじて「平城宮跡」は保存運動の お蔭で寸断が免れたといえる。

このため国道24号線はこの付近より、大きく南西にカーブしたルートとなっている。





航空自衛隊のヘリコプタ−を右に見て、周濠沿いを北へ歩く

平城宮跡の北側「佐紀古墳群」: 奈良盆地南東の大和古墳群に次ぐ、古墳時代前期後半(4世紀後半)で、すべて宮内庁管理である



仁徳天皇皇后磐之媛命坂上陵:古墳時代中期後半に築造
 − 仁徳陵との離れた理由は? 7月例会で解けるか?

磐之媛(いわのひめ)は、仁徳天皇を愛するあまり やきもち焼だった
と伝えられている − 日本の別居のはじまりか



御陵は今も、堺市にある仁徳天皇陵の方を向いて、天皇が来られるのを 待っておられるのだろうか。
周濠は当初はすべて2重にめぐっていた(天皇の罪滅ぼしか)

東西、南北とも360mの広大な「水上池」を平城宮跡」へ南下



佐保川の橋を渡り、コナベ古墳を経て 仁徳天皇の皇后磐之媛命平城坂上陵を拝観。石畳を踏みしめ、世界遺産・特別史跡の平城宮跡(へいじょうきゅうせき)の 遺構展示館に到着。小休止。昨年、遷都1300年で賑わった平城宮跡も、展示物がすべて撤去されると、改めて甲子園球場 の30倍という広大な平原を目の当たりにして圧倒される。東院庭園、式部省、壬生門、兵部省を廻り、平城宮の正門の朱 雀門に立つ。真正面、遥か遠くに大極殿を臨(のぞ)む。中央区朝堂院(儀式・宴会の場)を通り、第二次大極殿跡にて昼食 と懇談。寒さが身に沁みる。


大盛況の遷都1300年祭も終わり、祭りのあとはどこもさみしい
寒風の中での 「平城宮跡」めぐり

もっとも質問の多かったこの柴垣の意味するものは?



発掘調査で検出された遺構を露出展示する「遺構展示館」

天皇家の財政や庶務を担当する復元「宮内省」



復元された称徳天皇時代の「東院庭園」では、かつてここで
催されたで あろう典雅な宮廷行事や素晴らしい美人であったと
伝えられる女帝を偲ぶ

復元された「建部門(たけるべもん)と南面築地大垣」
― ここからが東張り出し部となる



近鉄の踏切を渡って朱雀門へ−広い平城宮跡を歩くと、
なんだか大宮人になった ような気分になるのが不思議だ

平成十年に復元された「朱雀門」奈良時代、朱雀門は、天皇や皇族、高位高官の人 しか通れない門だったらしい



平城宮の正門「朱雀門」横幅25m・高さ20mの二重門

平城京の中心「羅城門」から朱雀門までの朱雀大路は
道幅71m のメインストリ−ト(横の積水化学工業奈良工場も含まれる)



第一次大極殿の入り口で年会費を納めて頂く。大極殿の広場で完成したばかりの『北摂歩こう会・百回達成記念誌』(A4版60頁)を公約通り会員の方々に無料にて配布する。55名の寄稿者に改めて感謝。幸い、記念誌の出来栄えが良いと好評を博す。  大極殿前にて記念撮影。地元ボランティアによれば、高御座(たかみくら・天皇の玉座)のある大極殿の復原には9年の歳月を要したという。


「大極殿」は重要な国家儀式や外国使節をもてなす宴会に、天皇が出御する もっとも重要な場所

誰もが座った感触を味わいたい「天皇の玉座」実物大模型





当時、格の高い建物の屋根の一番上(大棟)の両端につく
「鴟尾(しび)」 高さ2mと想定されています

10年180億円かけて復元されたといわれる中心「第一次大極殿」



神功皇后陵に恭(うやうや)しく参拝。 記紀(古事記・日本書紀)伝承では、神功皇后は熊襲(くまそ)を征服、新羅も攻略、応神天皇を産み、摂政70年にして逝去された。  昔から砧(きぬた)の音、霧の風情で知られた秋篠の里へ。樹木と苔の美しい秋篠寺の境内を通り抜け、西大寺に到着。小休止。


佐紀池の北側にある『大僧正隆光』とある割れた粗末な墓石

隆光大僧正は1649年(慶安2年)現在の奈良市二条町で生まれ、長谷寺等で学んだ後、 江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。

5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。 また、桂昌院の援助で大和の社寺修復に尽くし、唐招提寺、法隆寺等の復興・再建に力を尽くされた。特に1567年(永禄10年)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。

悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。 そのため、綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した寺の住職に左遷されている。

本墓は非常に小さな墓で、5代将軍の護持僧として権力を振るった人の墓にしては、栄華の裏返しとはいえ哀れすぎる。



池上陵にまつられている『神功皇后』は仲哀天皇の皇后で
応神天皇のお母様。 三韓征伐で有名な方である。

池上陵は佐紀古墳群で、最古で最大の古墳である




競輪場の西隣の森の中に閑静な「秋篠の里」がある

苔むした境内は静寂と心落ち着かせる雰囲気に満ちている




静寂を重んじる秋篠寺は、多人数の団体による拝観はお断り

光仁天皇の勅願で奈良時代末期に創建と伝わる。
現在は単立宗教法人として既成の宗教に 属していない。
兵火及び明治時代初期の廃物毀釈で寺域の大半を失い、かっての面影はみられない。礎石の跡が 大伽藍を今に偲ばせている。

秋篠寺の代名詞ともいえる「伎芸天立像」は伏目がちに頭をかしげ、口元に笑みを たたえた姿はまさに天平の美女で、その美しさには言葉を忘れてしまうほど。

本尊は「如来像薬師」で脇侍の 「日光・月光菩薩立像」も国重文である。他に数多くの仏像がある。
またこの付近は、古代からすぐれた陶土と良水に恵まれた土地柄で土師の里でもあった。今も陶芸家が焼窯を設けている。



「西大寺」は真言律宗の総本山として、叡尊以来の法灯が受け継がれている。 境内には称徳天皇の歌碑が建てられている。

西大寺は聖武天皇が建立された東大寺に対し、聖武天皇の皇女である称徳天皇の誓願 によって、西の大寺として創建された名刹である。創建当時、三十一町もある広大な寺域に、百五十余もの 華麗な堂塔伽藍が建っていたと伝えられる。
しかし、都が京都に移ったあと、火災や落雷、台風等の度重なる 災害によって、見る影もなく衰退していたようだが、鎌倉時代、叡尊上人(興正菩薩)によって復興された。

衣文の線が流れるように美しい、ご本尊の「清涼寺式釈迦如来立像」や、荘厳な美しさをたたえる 「文殊菩薩」と「四待者の像」、他にも数多くの優れた仏像や寺宝がある。
年間3回の「大茶盛」や光明真言会等の有名な 行事があるにかかわらず、しょっちゅう「西大寺駅」を電車で通過していながら、この寺を訪れたこと がある人は以外と少ないのでは。
「佐紀・佐保・西の京」への集合場所として最適です。




3組に分かれて、記念写真を撮影。  


『大極殿』を背景に記念撮影

高槻支部1:あ〜そ

高槻支部2:た〜

茨木摂津支部およびその他支部




近鉄大和西大寺駅にて解散。肌寒い中、参加し楽しんで頂いた79名の仲間に乾杯!


      【世話役】 平英一 田村勲  岡村肇

      【 文 】 辰巳寛康

      【写 真】 仲尾富三 

     【構 成】 冨士永義文