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Last updated :07/5/2014

第67回 愛媛地区 歩こう会のご報告

第65回 歩こう会『梼原町 龍馬脱藩の道』ウォークが予定通り実施されました。
第46回で計画しましたが、都合で中止したコースへのリベンジであります。
  梅雨の時期の歩こう会、世話人は二回続けての中止にならないよう、
気が気でなかったそうですが、幸い天候に恵まれ無事終了しました。

日   時 :  
平成26年7月5日(土)
 集合と解散   第一場所 砥部町陶芸館駐車場     出発 8:30   解散 16:30
           第二場所 梼原町雲の上ホテル駐車場  出発 10:00  解散 15:00
参加人員 :

総勢 13名 

天   候 : 晴れたり曇ったり 微風  往路は木陰もある遊歩道で、復路は曇りで暑さからは救われました。    
徒歩距離 : 約 12km
内   容 :

陶芸館駐車場組は11名、車3台で国道33号線、国道440号線、国道197号線を走り、合流時刻の10時に
高知県梼原町太郎川の雲の上ホテル駐車場に到着しました。

大洲からの車は先に到着しており、そこでミーティングの後、国道197号線より100m高い所に整備された遊歩道を梼原町の中心部に向けてウォークがスタートしました。

標高の高い梼原町、いたるところに、いろいろな色の紫陽花が咲いているのが印象的でした。

今回ウォークの舞台は、幕末の風雲急を告げた1862年(文久2年)春、坂本龍馬が梼原から那須俊平、信吾親子の案内で朋友澤村惣之丞とともに脱藩したとされる梼原でした。

梼原は、天誅組を組織した吉村虎二郎、天誅組に加わった前田繁馬、長州忠勇隊に入隊した中平龍之介と彼らの脱藩を支えた神職の家に養子として入っていた掛橋和泉という人物を輩出した土地でもありました。

これらの人物(勤皇の志士と呼ばれます)が脱藩して土佐国を去った梼原の地を巡ってみるというテーマがありました。

梼原出身のこれら勤皇の志士は、全員戦死または自決、あるいは惨死したのでありますが、明治政府は彼らの功績を讃え正四位、あるいは正五位という勲位をもって応えており、梼原教育委員会は彼らのゆかりの地の案内板で勲位を紹介し、勤皇郷をアピールしているのが印象的でした。

なぜ梼原という小さな村にこれだけの勤皇の志士が誕生したのか、パンフレットと、人物の案内板を見て歩くだけでは答えの全部は見つかりませんでした。

土曜日とあって、役場や商工会議所は休み、勤皇郷梼原が、時代がかわっても、行政・経済面で全国的にも光り輝く自治体として有名なのは何故かという取り組みを知る情報収集も無理でしたが、基幹産業の林業、木材を使った町舎、橋梁、市街地の整備、張り巡らされた光ケーブル、「ちょっと違う町」を感じました。

三島神社に架けられた木材の御幸橋から梼原川の清流でアユの友釣をする人を眺めながら弁当を食べていると、戦後間もない昭和30年代の夏を思い出しました。

食事が終わると、車を停めた雲の上ホテルを目指して3.5kmを歩いてゴールとなりました。

全員が揃ったところで、大野世話人から、次回68回のウォークは予定通り、久万高原町から遍路道を砥部へ下りる山道を歩きたいという挨拶があり、解散しました。

↑67回歩こう会参加の顔ぶれです 梼原町維新の門にて。
 
【ポイント説明】

出発地点の梼原町「雲の上ホテル」駐車場で樋田コース案内人の説明を聴く一行です。

この場所は、太郎川公園の近くにあり、温泉施設をやプールもあり、古民家を移築した、旧宿場町の雰囲気もあり、ゆっくりしたいと思いました。

この案内板は、わかり易いようですが、文字が小さく、距離や所要時間の記載もありません。

小学生に作成を頼んだような案内板でした。

那須親子の墓を過ぎて暫く行くと「六志士の墓がありました。

此処は那須親子を除いた吉村虎太郎(26)前田繁馬(28)坂本龍馬(32)澤村惣之丞(25)中平龍之助(22)掛橋和泉(27)の 墓です。

この墓の入り口に六志士の勲位を記載し、梼原が勤皇郷であるという意地を示す案内板があります。

墓石にはしきび或いは花が供えてありませんが神道による祀りなのでありましょう

遊歩道から町舎がある町の中心部過ぎ幕末の道らしい場所に差し掛かりました。


この道は梼原三島神社へ通じる道ですが、坂本龍馬が立ち寄ったと書いたパンフレットや神社の案内はありません。

恐らく、夜道だったので、龍馬は、この先にある宮野々番所を越えるために急いでいたと思いました。
梼原の三島神社は913年にこの地津野郷に入国した時、相模の三島神社(パンフレットによると伊予の国の三島神社)を勧請して守護神としたとされる格式の高い神社だが、拝殿は閉じられており、説明は省きます。

神社に架かる御幸橋からは、アユを釣る人を数人見かけました。

この釣り人はかなりの釣果を上げているはずで、度々タモに入ったアユを囮のアユと交換するために腰をかがめていました。
幕末の風雲急を告げる文久二年(1862)春、坂本龍馬は梼原から那須親子の案内で澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て、韮ヶ峠を越えて脱藩した。
梼原からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が九十九曲峠を越えて維新動乱の渦中に身を投じた。

またこれらの志士を身を賭して支えた掛橋和泉があった
それから年を経ること六年、明治維新は成り、近代国家が誕生したが、そのとき、既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
此処に志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
碑文にはそう書かれていますが、松愛会の人々は志士たちの年代の時は何を考えていたのでしょうか。


前田繁馬の生家の近くで高知県の天然記念物の尾長鳥を飼育していました。

肝心のオスは屋内で姿をみることはできませんでした

万歩計は15,000歩程度でした。

 

 



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