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Last updated :22/04/2013

第59回 愛媛地区 歩こう会のご報告

第59回 歩こう会『伯方島』ウォークが予定通り行われました。
 歩く舞台は、瀬戸内海の文化は此処から始まったと言われる伯方島でした。
 伯方島には、今から21,000年程前に人が生活していた遺跡が発見されており、
 時代は下って、中世前期に村上水軍が活躍を始める頃の砦を巡るウォークでした。
  四月下旬というのに、気温は三月上旬程度、風はそれほどでもありませんでしたが、
今にも振りそうな空模様で、いやに寒さを感じたウォークでした。
参加者は空模様が響いて、少数でしたが、歴史の勉強が出来たという強い印象を持ちました。
 


日   時 :  平成25年4月20日(土)
 集合:      ウエルピア伊予    8:30    サンライズ糸山 10;00
 解散:      マリンオアシスはかた      13:30
参加人員 : 総勢 5名
天   候 : 曇、微風、ウォークが終わった午後1時半過ぎから雨になりました。
徒歩距離 : 約 5km
内   容 :

県内で、南予・中予・東予と場所を移してのウォーク、今回は中予で、年に一回は島を歩くことになっており今年は昨年の大三島の手前の伯方島で、歴史を満喫したウォークでした。

特に、島の金ヶ崎遺跡は、紀元前21,000年頃に人が生活をした遺物がたくさん出土した遺跡だそうで、この遺跡が発見された時は、上黒岩遺跡(久万高原町)、古照遺跡(松山市)に次ぐ、愛媛県三大遺跡の発見と騒がれたそうで、当時の新聞報道の模様が、歴史館に掲示してありました。

また、瀬戸内海が陸地だった時代に、わが世の春を謳歌したナウマン象の骨が大量に展示されていました。

伯方島は能代村上水軍の本拠地、、天正13年豊臣秀吉の四国征伐で能代村上家の居城伯方城は廃城になりましたが、遺物は歴史館に展示されていました。

印象的だったのは、造船業が島の経済を支えており、町の商店は比較的大きく、シャッターを下ろしている店はないように感じました。しまなみ海道で繋がっても、人口が流出せず、雇用が確保されている伯方島、高度経済成長期の懐かしい気持ちがしました。

↑59回歩こう会参加の顔ぶれです 伯方島ふるさと歴史公園入り口にて
 
【ポイント説明】

後の建物は、歴史資料館で中世前期の山城「木浦城」を復元した建物で、主に金ヶ崎遺跡からの出土品を展示しておりました。

この建物の右側にも広い展示室があり、能代村上家の甲冑や村上家ゆかりの品々、歴史の古い塩田関係の展示も充実しております。

それに、造船関係の歴史、最近の造船関係の展示も見ごたえがありました。

県や市の歴史資料館にも勝るとも劣らないような歴史観意匠的でした。。

この建物は、中世前期の連郭式構造の山城だった「木溝城」を復元した建物で、現在日本では、伯方島でしか見ることが出来ない貴重な建物だという説明板に出会いました。
五階からは、数年前に上った積善山の姿も確認できました。

真下を見下ろすと島の周囲を造船所あるいは鉄工所が占めていました。

 

伯方小学校を少し上った所に、能島村上家の祖、村上掃部頭雅房の開基になる由緒ある寺で代々能島家の菩提寺である禅興寺(曹洞宗)へお参りしました。

本堂を少し下った場所に、村上掃部頭雅房夫妻の墓がありました。

写真中央左が室、右が雅房の墓であり、背後には楠の大木が茂っておりましたが、雅房を葬った時に植えられたと伝えられているそうですが、それに比べると墓石は、古びていないのが不思議でした。

船折瀬戸という名前は瀬戸内海の航路の難所として来島海峡とともに勇名です。

伯方島の南東部にある有津という地名の場所と、300m離れた鵜島の間の海峡を船折瀬戸と呼ぶのだそうです。

昔航行する船が真っ二つに折れたことからそう呼ばれるようになったそうです。

 

300mの海峡の西の端の中央に岩礁があり、赤い灯台が設置されています。

船折瀬戸を航行する時、直進することは出来ず、大きく舵を切って、岩礁をさけて行きます。

歌人吉井 勇が写真の光景を見て「人麻呂かむかしいゆきし海をゆき うまし伯方の島山を見む」と詠んだそうです。

 


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