1. 2015年10月、姫路で各停に乗り換えて、三十分ほどで播州赤穂の駅に着いた。
  ここから、赤穂線で岡山に向かうが、ずうっと、岡山駅近くまで単線が続く。このあたり
  は、瀬戸内の海岸線のはずなのに、一旦赤穂の駅を出発し、「寒河=そうご」と言う駅を過
  ぎるあたり、小さな五つほどのトンネルをやり過ごすと、急に小さな丘陵が視界に拡がって
  くる。「だから『おかやま』と言うのだ」と自分なりに納得していたのは、三十年前も、今
  も同じだ。もう、このまま内陸を走り、海を見ることはないのだろうとさえ思う。しかし、
  突如、瀬戸内の海が開けるのだ。

  2.「日生=ひなせ」の駅に着くと、海が拡がり、快晴の青々とした空と海が拡がる。正しく
  日出ずる国と言うのは大げさにしても、年間の晴天日が多く、雨の降る日の少ない瀬戸内
  気候は、陽気さを、温  かさを、景色だけでなく、駅員や観光センターの人々、昼飯時
  の店主や、「五味の市」と呼ばれる海物市場の人々とのやり取りや応対にも、それを感じ
  させてくれる。防波堤に沿って歩き始めて思い出した。

 
車窓から見える丘

 日生の漁港

     そうだ、シャコが港の突堤の縁の泥水から、水面までうねるように這い上がってきて、また
  海底に潜る光景が、強く目に残っていたのだ。海面に目を凝らして探ってみたが、その日、
  釣り糸を垂れる漁師にも聞いたが、どうやら時季外れのようであった。


  しかし、その頃は気づかずにいたのか、その後の町づくりの中で、様々な魚介類を観光面で
  紹介しようとしてか、路面に様々な魚介類が描かれていて、「シャコ」も路面プレートに描
  かれていたのを見つけた時は、本当に感激だった。生きたシャコにはお目にかかれなかった
  が、小さいが、海底にうごめく黒い魚影に心が弾んだ。日生の港からは、島めぐりの船が出
  ていて、頭島はその代表的な島であり、私が岡山を去る時の、頭島での民宿での送別会を忘
  れることができない。今まさに、季節は秋だが、射す陽光は、夏の強ささえある。二時間ほ
  どを日生で過ごして、一時間に一本しかない単線に再び乗り、次の駅へと向かう。

   
日生駅ホーム
 
発見!プレート

 
   
  3. 伊里駅だ。ああ、なんと、三十年以上も経つが、当時の無人駅のままだ。駅は、当時、ニワ
  トリ小屋が併設され、改札は無人で、買ってきたチケットの仕舞い場所に戸惑った。

   
当時の面影を残す伊里駅      無人駅

     そして何といっても、いきなり小さな子供達四人を出迎えてくれたのは、放し飼いされた
  大きなシェパード犬であった。勢いよく駆け寄ってきて、歓迎の姿勢を見せてくれたとは
  いえ、幼き四人の子供たちは、泣き喚きしがみつき、あるいは逃げ惑った。私自身も、困
  惑し、飼い主の家人を大声で呼ぶしかなかった。だから、そうした経験があまりにも印象
  深く、どのようにして、会社社宅に入ったのか、そこまで、どの道を行ったのかは定かで
  ない。改札横にあったニワトリ小屋はもうなかったが、スペースは昔のままだった。

 
工場へと続く道



     改札を通過すると、当時の木造の家の屋根を借りた自転車置き場と、あのシェパードが出
  迎えてくれた家々があり、あの川が見えてきた。工場の前に車道があり、その道に沿って、
  海に注ぎ込む形で川がある。川の源流は、山に向かい、もちろん淡水ではあったが、瀬戸
  内海の海水と交わる川面に、ぼおっとした感じの動きの鈍い魚が、春から夏にかけて、たく
  さん浮かんでいた。当時、地元の人に教えてもらった〈ボラ〉と言う魚で、泥臭くてとても
  食えないという。ただ、京都や大阪の料亭では、  美味なる魚として、正しく高級魚だと
  関西から来た人からは聞いた。ついでの話だが、シャコも、その地に行って初めて見て、
  料理屋で味わったものである。
  シャコは「ブルーハイウェイ」の道の駅で、石油缶一杯が500円で売っていて、関西方面
  からの赴任者は、もちろん観光客もそうであったに違いないが、これを土産としていたよう
  だ。川に沿って嬉しくなって、川を覗き、ボラを探すが、見当たらない、そうだ、季節は
  もう秋だ、とやや落胆したが、見るや川縁には鳥の姿。鴫かな?と思いつつ近づくと、いき
  なり、あの頃はいなかった、人懐っこいアヒルや鴨の群れがこちらに向かってやってくる。

     その歓迎ぶりに喜悦して、思わずリュックからパンをちぎってその喧騒に向かって投げた。
  今は、近所の方が餌付けして飼われているのであろう。
   
   
アヒルと鴨のにぎやかな群れ
 
川面の魚影
   
    再び、私は必ず魚は居ると、上流に向かって歩き出し、川面に目を凝らすが、魚影は見え
  ない。もう秋なのだから、もう魚が住むような環境ではなくなったのだからと、落胆する
  自分に言い聞かせ、上流脇にある、子供たちのかつて通った小学校に向かって歩き始めた。
  学校を過ぎて、もう少し川を上ると、スポーツ行事に興じたグラウンドがあったはず、今
  はどうなったのか。
  あの当時のことが瞬時に蘇える。どこから持ってきたのか、握り飯や、漬物、昆布のたく
  さん入ったアルミの箱を、何人もの職場の女性達が、ソフトボール大会の賑やかな応援と共
  に、グラウンドに運び込み、惜し気もなく皆に配って廻っていた。その味の、実にうまかっ
  たこと、贅沢過ぎる御馳走であった。地方の共通点は、何であれ「豊かさ」であると、その
  後、地方を経験しながら、それは私の確信となった。「兵どもが夢の跡」ではないが、グラ
  ンドのあった場所は、民間会社に姿を変えていて、その場に立つこともできなかった。やは
  りなあ、変わったのだ、と思ったその時である。ふと、川面に目を転じて、私は自分の目を
  疑った。

  4. ふと、五年間住んだ金沢の町中の光景を、思い出した。自分の育てた花を植木鉢に生けて、
  惜しげもなく何十鉢も路傍に一直線に並べ、道行く人に鑑賞してもらう、そうした地元の
  人たちの豊かな心がなければ、こうした光景を生むことはできない。だから、地方の心と
  は、この解き放たれた自由さ、雄大さ、そして何よりも心の豊かさではないかといつも思う。

   
旧閑谷学校全景と校舎内部

    沢山の鯉の群れだ。なぜか緋鯉さえもいる。無数の稚魚を引き連れた鯉もいるではないか。
  何とも「贅沢な」光景だ。
     確かに、備前には、日本遺産認定の旧閑谷学校等の名所旧跡や、伝統工芸品としての備前
  焼もある。しかし、私が「住んだ」証は、この川にあると思う。改めて川縁に立ちつくし
  て、辺りの山々を見回し、水面に映る魚影を見ていると、三十年の月日を超えて「私の
  故郷」を再現する。
     想い出多い顔、顔が浮かぶ。当時の己の未熟さになお赤面する、発した言葉や受け止めた
  言葉が、こだまのように心に響き、細切れになった様々な場面が脳裏を駆け巡る。
   
  5. 思えば、備前に赴任する前の数年間、私を草津の地で、全身全霊を込めて指導し、時に
  叱責し、時に褒め、育ててくださった上司の方も、つい先日逝かれた。他の上司の方は、
  当時の主任クラスの若手を集めて、機会があれば、生き方、考え方を熱心に語って下さ
  った。口癖のように、「行け、それでいい、思ったらやってこい」と、我々を鼓舞し、
  私自身、忘れもしない、あの熱海での四泊五日の合宿に参加させてくれた。鮮明に記憶に
  残る「エンカウンター道場」だ。
   
  6. 会場となった古い旅館で、私は様々な人物と出会った。一人は、大学卒業後、看護職を
  志し、その仕事に就いた女性。重い腎臓病を患いながらも、看護を学ぶに特別扱いされ
  たくないと夜勤を志願する、果敢に戦う女性であった。或いは、大手銀行の中年管理職
  の方が、同室だった、初対面の若造の私相手に語りだした。会社の合理化策として、先陣
  を切った残業ゼロ施策、部下達から総スカンを食らい、孤立し、欝々たる気持ちを語った。
  また地方の役所で、管理職に抜擢された女性が来ていた。一日の仕事が終わると、今まで
  同格だった男が、若い部下達を飲みに連れて一斉に帰社した。一人でポツンと職場に残り、
  孤立感、無力感に悩む女性だった。最近二年間で、三十数回の転居を繰り返した女性が来
  て語った。「引っ越して、初めて隣人に挨拶する時、『お早うございます』とか『こんに
  ちは』とか言えるでしょう。
  でも、二回目に会ったら、どう挨拶していいのか、困ってしまって、すぐに次の転居先を
  考えて、気づいたら、二年間で三十回も引っ越しました」と語る言葉に、何も語れぬ、何も
  できない自分がいた。「あなたは恵まれ過ぎだ。なぜ旅費、手当を支給されるのか年休も
  取れずに、逃げるようにここに来ている私とは違う」と初対面で非難を浴びた。しかし、
  松下の係長が一人の人間になって、別れる最後の夜には、畳の上数センチに、皆の手の平で
  支えられて号泣した。そして「仲間として」皆は同じ思いを語った。その間、時間は止まっ
  ていたこと、今までで、一番身近な人々に会えたこと。やっと遭遇した真の仲間たちと別れ
  たくないと切望した。異なる価値観や考え方、異なる環境の中で生きる人々との人間理解
  を、転勤を前に、上司は私に示してくれたのだと知った。
   
  7. そして、再び「行ってこい」と激励され、この地に降り立った。まるで昨日のことのように
  覚えている。約二年二か月にわたる岡山備前での生活が始まった。その後、富山県魚津市や
  石川県川北町、東京と転勤し移り住んだが、地方工場での仕事がしたいとの希望から、実現
  した地元滋賀を離れての初めての土地、岡山県備前市は勿論のこと、その後の地方での経験
  は、ずっと自分自身の仕事や生活に様々な影響をもたらした。それはきっと、単なる仕事の
  変化だけではなく、それぞれの土地の持つ風味、薫りのようなものが、知らず知らずに、自
  分に浸み込んで、気持ちに余裕のない時や、切羽詰まって、只管、突き進むだけの選択肢し
  かない状況にあって、ふうっと一息深呼吸をさせてくれたり、思いがけず、心にゆとりさえ
  持たせてくれるものを得たような気が、今もしている。

   
  8. 私は、敢えて、事業の変遷による工場の現状に触れるつもりはない。松下電子工業の岡山
  工場として、半導体や照明機器のモノづくりの拠点として先駆的な役割を担い、工場は
  その役割を終えた。
  地元の人にとって、得たもの、失ったものは大きいであろうし、工場に対する思いも様々
  にあるだろう。しかし、仕事とか事業の変遷を経ても変わらぬものが、関西から赴いた私
  には見えた。それは、そこに過ごした期間の長短はあるが、ひとつの時代に、その地に住
  んで生活し、味わった土地のにおいや感傷は、固有のものとして、私の中に染みついて
  いると思う。 

   
川面から飛び立つサギ

 
  9. 魚津に赴任した時、雪が、関西では縦に、あるいは左右に揺れて舞い落ちるが、魚津では
  横に振るのだと驚いたことを思い出す。片貝川に沿った道を、車で工場に急げば、雪は真
  正面から真横に降りかかるのが理解できる。つまり容赦なく真横に吹きつけ絡まるのに驚
  く。自然の驚異に怖れも抱くが、それはそこでしか経験できない「感動」として心に残る。
  降りしきる雪の中、小学校へと通う一列に並んだ集団が、互いに列を乱されまいと背の高
  い上級生を盾にして、一糸乱れず隊列を組んで突き進む我が子を見て、どれほど頼もしく
  思ったことだろうか。またある時は、あの冬場の荒れ狂う日本海の近く、金沢、能登半島
  で、車から降りて立ち尽くしてみれば、目に、頬に、氷と化した雪の弾が投げつけられる。
  そして、急激に確実に体温を奪っていく。その中で確と意識を保ちつつ、体温を保ち生き
  ていることの強烈な実感、自覚、こんな体験は関西ではない。
     
  10.私が、長い間追い求めてきた『幻の商人』は、何も形のある商品を売り交わす姿ではない。
  それは心の通い合いである。感動や衝動や、目に見えないものに価値あることを、いつも
  意識して大切にしなければならないと思う。ただ人は時折、勘違いをする。人と人とが
  やりとりする「商品」とは常に形のあるものであると。故郷は、無形の宝物、ドラマで
  あり、歓びである。そして故郷は一つではない。人が想いを抱き、人を懐かしみ、その
  自然に想いを抱く限り、人の中に故郷は永遠に生き続ける。
   
  11.もう夜は更けた。雨が激しく振り出した。雷鳴が轟く。もうペンを置こう。 
     自然と言うものに、郷愁をより強く感じる歳になったのだろうか。改めて、自然や美しさ
  に、聞こえてくる様々な音色に聞き耳を立て、心ときめかさねばならない。それと同時に、
  生きている人間に対する深い関心と、その表情や心の動きにときめきを感じる必要がある。
  そうすれば、心は老いず、表情は輝きを失わない。人生を輝かせ続けることができるだろ
  う。それはものとしての商品ではなく、自分と言う商品を絶え間なく繰り出す
  『幻の商人』の真骨頂だと信じている。
 
   
   
 
                             大津市在住 H.H