〜絵のある人生風景〜
ていてい   ゆきお 
大津市在住 廷々 幸夫
あいつは教師失格だった
  小学校3年生のころ、宿題に図画工作の作品提出というのがあった。自分で言うのもおかしいが、わたしは結構器用なほうで、ものをつくるのが楽しかったし、その日、一生懸命つくった作品を学校へ持参した。講壇の教師のところへ順番に並んで作品を見せに行く。わたしが作品を差し出したとたん、教師は「宿題は自分でして来い!」そう怒鳴りつけると、「これは、ボクが・・・・・・」と言うのも聞かず、「なにを言うとるか、はイ つぎ」と私を突き飛ばすように払いのけた。それから卒業するまで、わたしは二度と図画工作の制作をしたことがない。



筆者
デッサンに通った日もあったが
  小学校での苦い想い出があっても、やはり好きだったのだろう。青年の日、叔父の家で知り合った画家の人たちに「勉強会にキミも来たらいい」と許されて叔父に同道したのだが、これが裸婦のデッサンやクロッキーという、わたしには、とても手に負えぬとんでもない勉強会で、二年間ほど四苦八苦をつづけたが、松下電器に勤めるようになると、そんな余裕もなくなって、夜討ち朝駈けの40年間、絵のことはすっかり忘れて暮らしてきた。
 定年後、会社のなかまから、水彩画同好会に参加しろ、と声がかかった。まさか、もう一度絵筆を持つなどと考えてもみなかったので、尻込みしたが、声を掛けてきたメンバーを聞くと、辛いとき苦楽を倶にした連中と、若いころの直属部長だった先輩までいる。こんな連中相手にイヤという勇気がなくて、加わってはみたのだが、ほとんど忘れていた絵心と、はじめて手がける水彩技法の難しさに、グループ展のたびに恥をかきつづけた。だが、友人とはいいもので、その都度、おだてたり、すかしたりして、私の落後を食い止めてくれた。

きわめて個人的なお話
  わたしの母は、満100歳まで生きた。わたしは4人兄弟の末っ子なのだが、どういうわけか、家内と結婚以来、母は、わたしの生活の周辺にまといつくように生きた。
  退職後、夫婦そろって海外旅行などを楽しむ人が多かったが、高齢で目が離せなくなっていた母のことが、たとえ施設に預けている間も気がかりで、わたしは家内の旅行につきあうことがなく、家内は、つど、友人や妹や娘と相手を替えて行をともにした。
  母が終末の床にあったとき、わたしの病状がはっきりして緊急に手術を受けることになった。癌と聞いた家内の第一声は「そんな殺生ナ」だった。もうすぐ、老母を送るところへ送ったら、わたしと海外旅行へも出かけられる、そう思っていた家内の本音であったろう。
  手術はうまくできたが、いささか時期を失していたので、すぐ再発した。介護に無我夢中で、その数年間、自分の健康管理に手を抜いていたのだ。

いま、なにを思って絵を描いているのか
  幸い、いま、元気な時間をあたえられ、ときどき家内との旅行も楽しんでいる。
  最近の画題には、家内と一緒に出かけた先の風景を選ぶことが多い。「宏村好日」「宏村の路地」「屯渓の蓮」は、いずれも中国の村を訪ねたときのものである。「逢坂山の辺り」は、昨年、家内が入院していた大津日赤の病室を抜け出して、裏山づたいにスケッチに出かけたときのものである。「雪の日の辻」は、琵琶湖一周路線を楽しんで、米原駅の一番端のホームからみた風景で、寒くなるとホームの熱い蕎麦で温まるのが恒例になった。
  家内は、わたしの絵を題材のスケッチ場所までの費用で表現する。米原の駅では改札を出ず、JRの逆回りコースで西大津まで帰ってきたので運賃170円の絵である。琵琶湖畔を描いたときは、一緒に歩いて行ったので、タダの絵ということになるし、その意味では、中国の3点は、だいぶん高価な絵ということになる。
  こんな戯れ言を楽しみながら、家内とおなじ想い出の題材を書き続けるのは、わたしがいなくなったあと、「ああ、この絵は、トラックの通る道端で、ホームレスみたいな格好してスケッチしたはったときのや」などと、少しでも豊かな想い出が残してやれたらと思うからである。
  ながいあいだ、わたしの勝手な生きざまに辛抱強くつきあってきてくれた家内に、わたしが出来ることといえば、こんなことしかない。
  「うまい絵を描こうと思うな。いい絵が描けるようになれ」とは、絵描きのあいだでよく言われることだが、そこに川があるから川を描く、城があるから城を描くのではなく、川や城を題材として、なにを表現しようとするのか、それが先だとも言われる。
  わたしが、その題材でなにを表現したかったのか、そんなことを想像して眺めてくだされば有り難いことである。


  最近の作品から
宏村好日
宏村の路地
屯渓の蓮
宏村好日 宏村の路地 屯渓の蓮

逢坂山の辺り
雪の日の辻
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逢坂山の辺り 雪の日の辻