『 私の住む町 近江八幡 』
 
◆はじめに 
 私の日課の犬の散歩での途中で、気になった二つのものがあります。

一つは日野川の桐原新橋にある『豊臣秀次公の銅像』、もう一つは十王町にあります『朝鮮人街道』の道標です。
 

秀次公銅像


朝鮮人街道道標

 『豊臣秀次公の銅像』ですが、日野川の水争いが揉め庄屋が秀次に裁定を訴えたことに応じたもので、秀次が家老の田中吉政を現地に派遣して調査した上で、双方が納得する裁定を下したという逸話を記したものでした。
 

裁定を受ける庄屋


銅像の由来

 
◆近江八幡の由来
 近江八幡は秀次が八幡山城を築城した1585年からできた町で、安土城下の商人・職人を移し、『八幡堀』の北側は武士が、南側に商人・職人が住む区割りになっていたようです。
 

豊臣秀次パンフレット


八幡堀1

 

八幡堀2


八幡山


日牟禮八幡

 10年後、秀次が切腹した後、八幡山城は廃城になりますが、八幡山城で使われていた木材・瓦などが大津城を経由して彦根城で活用されたのではないかという事にも興味が膨らみます。
 

彦根城天守閣1


彦根城天守閣2

 
◆朝鮮人街道
 もう一つの『朝鮮人街道』ですが、朝鮮人街道は江戸時代に李氏朝鮮国王から、江戸幕府の将軍の代替わりなどを賀すため送られた通信使が通る道でした。
 1607年から1811年の間に12回の通信使が送られ、内10回はこの朝鮮人街道を通った事になります。通信使は大坂を経由して京都・淀で上陸し、東海道を経由し草津からは中山道を使い、野洲から中山道を外れ、八幡・安土・彦根を経て鳥居本までの約40Kmの道を使う事になります。
 この約40Kmの道こそが『朝鮮人街道』です。
 この40Kmの道は安土城を築城した際に、織田信長が整備し、豊臣秀次は八幡山城築城の際に手を加え、
徳川家康が関ヶ原の戦勝の後、この道を通って京都に入った為、吉例の道ともされました。

  

朝鮮人街道道標1


朝鮮人街道道標2

 
        
         2019年 12月
        投稿者 近江八幡市在住 T.O.さん