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私の住むまち 『 大津市下田上地域 』
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◆はじめに
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在職中に自然が多く風光明媚な住む場所を探した結果、ひょんなことから下田上地区の黒津に住むようになって
早や四半世紀を過ぎました。当時は、大阪が勤務地だったので眠りに帰る場所であって地域住民という意識は全く
ありませんでした。
しかし、パナソニックを卒業後は生活基盤がこの地域になったということで、改めてこの地域を見直してみようと思う
ようになり、数百年以上に亘って多くの祖先達が住んだ地域の歴史的な場所を訪ねてみました。
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◆下田上地区の変遷 |
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明治以降の地域の移り変わりをみると、何と僅か70年弱前まで村だったようです。
・明治4年(1871)4月に廃藩置県で一時、膳所県と菰野(こもの)県(現在の三重県菰野市)の管轄となる。
そして11月に大津県になる。
・明治5年(1872)大津県が滋賀県になり、関津、太子、黒津、稲津、石居、里、枝、今村新田、羽栗が栗太郡
第1区に編成される。
・明治22年(1889)市制町村制施行で、関津、太子、黒津、稲津、石居、里、枝、羽栗が下田上村になる。
・昭和26年(1951)4月に大津市と合併する。
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◆瀬田川と大戸川の歴史 |
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私の住む団地は、アプライアンス社の社員団地として開発されたところで、大日山と呼ばれる山(標高130m位)の東側ふもとにあります。 現在、この山の南側瀬田川寄りにアクア琵琶と南郷洗堰があります。
昔は、このあたりで瀬田川と大戸川が合流しており、大量の土砂が堆積して川の中には8つの中州もあり、しばしば洪水の原因になったそうです。
大日山も瀬田川にせり出していて水の流れが悪かったようです。しかしこの山を切り取ると水が流れすぎて増水時には下流に洪水を起こし、渇水時には琵琶湖の水位が下がりすぎるとの理由で明治34年まで切り取り工事は行われませんでした。ただ、土砂浚えだけは藩政時代になって何度か行われました。
また、昔は壬申の乱(672年)や承久の乱(1221年)などで瀬田の唐橋が焼け落とされたときには兵士が渡河したといわれ、瀬田川で歩いて渡れる唯一の場所『黒津の徒渉(かち)』が千丈川(対岸の南郷と平津の境)河口近くまで続いていたとのことです。
そしてやっと明治33年(1900)に瀬田川を狭めていた大日埼(大日山の一部)は、川幅の拡大(101m)ともに切り取られ、下流に旧南郷洗堰(現在の洗堰は昭和36年
- 1961)が建設されました。 現在のアクア琵琶は、旧黒津大嶋、琵琶湖開発総合管理所は、旧新嶋があったところに建てられています。
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旧瀬田川の流路跡道路
右側遠景は大日山
左側は旧中州(黒津大嶋)跡
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黒津付近の旧徒渉(かち)跡(浅瀬跡)
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大日埼遠景(破断された大日埼1)
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破断された大日埼2
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大日埼破断面の一部
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◆大日山と大日堂、正法禅寺 |
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大日山には奈良時代の昔、僧 行基が創立した大寺「大日寺」が山頂から麓にかけてありましたが、年月とともに廃寺となり、江戸時代になってから麓に「正法禅寺」(正式名は三尾山大日寺)ができたようです。奈良時代にあったと言われる寺と名前が同じなのでややこしいのですが、直接の関係ははっきりしないそうです。山の上には大日埼にあった大日如来磨崖仏、それを囲む堂と乳池と呼ばれる池があります。磨崖仏は大日堂内倉庫にあるようで、実物をみることはできませんでした。一時は甲賀郡の土豪・山岡氏の黒津城跡がありましたが、瀬田(勢多)城ができて廃城になりました。頂上部分には櫓台跡のような平坦地や数か所の曲輪跡らしきものがあり、旧瀬田川流路に続く住宅地のすぐ横には城への入口(虎口)らしきものもあって小規模ながら興味深いです。
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大日如来堂
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乳池跡
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大日山破断面上から対岸を臨む
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正法禅寺
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◆関津 |
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平城京や平安京などの造営や寺院の建立・修理に使われる材木を田上山で伐採・加工し、川に近い港(関津港)から筏を組んで宇治川、木津川を経由して運んだのことで、石山寺の増改築にも関津港から筏を組んで瀬田川を運んだそうです。
明治34年に旧南郷洗堰が作られるまで大石村方面から薪炭・材木・茶葉などを瀬田方面に輸送され、立木観音の縁日には多くの店が出て人も集まる港町のような感じだったとのことです。
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関津浜の常夜灯
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関津城址を貫く国道422号線(工事中)
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2019年3月
〈投稿者〉 大津市 今川さん |
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