田上山の治山・治水 
 『 後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~60選 』

 
◆はじめに
 私が1987年12月から住む田上地域は、大津市の東南端に位置し信楽山地にその源を発する大戸川流域と田上山麓に開けた農村地区です。
 

現在の田上山

 
 田上山は、大津市の南部、栗東市と信楽町に接する田上地区の山地の総称です。標高599.7mの太神山(たなかみやま、別称・不動山)を主峰に、堂山(384.0m)、矢筈ヶ岳(562.0m)、笹間ヶ岳(433.0m)、猪背山(553.3m)など、500m級の山々が連なり随所に風化した花崗岩が露出しているため「湖南アルプス」と呼ばれ、休日には多くの山ガール・山ボーイや家族連れのハイカー、天神川の河原でのバーベキューを楽しむ若者で賑わっています。
 天神川はその田上山から発し大戸川にそそぐ6Kmほどの急峻な川です。

 私の住む「もみじが丘団地」は、湖南アルプス登山口の入り口にあり、すぐ横を天神川が流れています。
 移り住んだ当時は、子供を連れて近くの田上公園の中を流れる天神川に水遊びするために連れていきました。
 その時、不思議に思ったのは、子供が川の中で遊んでも水が濁らないことでした。その理由は、川底が一面砂利で覆われていて、巻き上がった砂利は重たいため直ぐに川底に沈み、また元の透き通った川の流れに戻るのでした。
 

湖南アルプスハイキングコースの案内看板
(田上公園の入り口に設置)


天神川での水遊び


川底が砂利で覆われた天神川


川底が砂利で覆われた鎧堰堤上流の川底

 
 しかし、子供が小学校に通うようになると、川底に溜まっていた砂利は、1300年の昔から人間の自然破壊の結果によるもので田上の人々には、長い長い災害の歴史と近年の防災の歴史があることを知りました。
 
◆田上山の荒廃の歴史
 田上の歴史は旧石器時代まで遡ることができます。
 千数百年前の田上山は「ヒノキ」「スギ」「カシ」などが繁茂する一大美林だったとのことです。
 しかし、飛鳥・奈良時代に入ると、藤原京や平城京の造営や寺社仏閣の建立のための用材として、田上山の美林が伐採され、瀬田川、宇治川、木津川をたどって奈良まで運ばれました。
 その後も石山寺や三井寺などの建立に使われたり、信楽など各地の陶器製作用燃料として乱伐されたり、庶民の日常生活にともなう燃料に使われたりと乱伐が繰り返されました。その結果、樹木が失われた山肌では雨で表土が流され、花崗岩の岩肌が露出し、それがさらに植物の生育を妨げました。そして江戸時代までには花崗岩の岩肌が露出したはげ山に変わってしまいました。
 

明治の田上山(はげ山)
(南郷洗堰横の水のめぐみ館『アクアびわ』に展示されている写真)
 
 話は余談になりますが、私が生まれ育った阪神地域でも同じような荒廃したはげ山がありました。六甲山です。
 特に芦屋ロックガーデンが有名ですが、こちらは、明治以降、神戸の開港によって人口が急激に増え、同じように乱伐が行われました。また六甲山と瀬戸内海が近く、人々はその間の狭い所に住んでおり、川が急峻で何度も大きな水害に見舞われてきました。
 
◆田上の災害の歴史
 
 はげ山となった田上山では、長い年月をかけて風化が進み、大雨のたびに花崗岩の砂利や大きな岩が下流へと流されていきました。この砂利が子供たちの遊んでいた天神川の川底に溜まっていた砂利です。





花崗岩の風化による砂利の発生

 しかもこの砂利は、天神川だけにとどまらず、大戸川、瀬田川(宇治川)、淀川まで流れたとのことです。天神川以外にも信楽山地からの大戸川やびわ湖からの唯一の流出河川の瀬田川からも多量の土砂が流れ出し、下流の河川に堆積し、川底を上げ、度々、大水害を起こしたと記録に残っています。(瀬田川の水害と防災に関しては別の機会に譲ります。)

 田上山から流出した土砂によって草津や田上では、天井川がよく見られます。全国的に有名だった草津川は、最近、河川の付け替え工事で天井川でなくなり、旧河川敷は公園になり、草津川の下を通っていた1号線のトンネルも撤去されました。また田上の天神川も河川改修工事によって川底が掘り下げられました。
 しかし田上には、県道「桐生・田上線」に宮川の下を通るトンネルがまだ残っています。

宮川の下を通る県道トンネル

 
◆田上の治山治水(砂防)の歴史
 瀬田川の川幅の拡張や浚渫(しゅんせつ)などの本格的な工事は、江戸時代(1690年代)から始められました。
 一方、田上山系の防災工事が本格的に進められたのは、明治11年に入ってからでオランダより招聘された技師
デ・レーケの指導により砂防計画が立案され、山腹工事の他、堰堤工事、護岸工事が開始されたとされています。
 デ・レーケは最初、大阪の淀川河口で港湾や河川の改修工事を行ったが、なかなか難しかったようです。
 そこで上流を視察し、その根本的な原因が上流の山々の荒廃にあると気づき、田上山をはじめ日本各地の山々の治山・治水を指導したとのことです。デ・レーケは16種類の治山・治水の工法を考案・指導したといわれています。その一つが堰堤で、堰堤(砂防堰堤)は渓流の途中に設けられた砂防ダムで土石流を食い止めたり、土砂をためて渓流の勾配を緩やかにすることで一度に大量の土砂が下流に流れ出ることを防ぐ働きがあります。
 田上山系では、草津川上流の桐生にある「オランダ堰堤」や天神川上流にある「鎧堰堤」が日本でもっとも古い砂防堰堤の一つです。

 

鎧堰堤(鎧ダム)
内務省土木局技師の田邊義三郎が計画し明治22年竣工


鎧ダム上部から見ると


鎧堰堤看板



昭和8年ごろの鎧堰堤


下流にある迎不動堰堤(新オランダ堰堤)
平成12年3月竣工


オランダ人技師デ・レイケの紹介看板


迎不動の少し下流の堰堤


迎不動にある堰堤


迎不動の少し上流の堰堤


昭和の堰堤
夏になると子供たちが堰堤の上からジャンプして
遊んでいました


真ん中の上に橋が渡してあるのが明治の堰堤で
その奥が大正の堰堤
(ハイキングコースの入り口付近)


最近作られた田上公園の堰堤
このころから田上公園の天神川の川底に
泥が溜まるようになりました

 
◆田上山の山腹工(植樹)
 また、デ・レーケは、荒廃した山腹からの土砂流出を防ぐために山腹工法を指導しました。これは切り立った斜面を緩やかにするため、1から2メートル間隔で階段状にして、その段上部に稲わらと良く超えた土を盛って客土とし、全面は芝生で覆って階段が崩れるのを防ぎました。そして段上に松とヒメヤシャブシの苗木を交互に植えたそうです。

 こうした田上山系の治水、緑化(山腹工事)は大正-昭和・平成へと引き継がれ、技術の向上と組織の改善などによって、はげ山だった田上の山々は、ここ20年で見違えるように緑を取り戻しています。私の子供が通っていた田上小学校では卒業記念として田上山山腹に一人一本ずつの植樹が行われてきました。


田上小学校 卒業記念植樹
(創立100周年記念誌より)


現在の堂山
山の麓にあるのが子供たちが通っていた
田上小学校


田上山砂防の歴史看板(笹間が岳 登山道脇に設置)


田上小学校植樹記念碑


卒業記念植樹作文集


ヒメヤシャブシ


ヒメヤシャブシ


植樹された樹木


笹間が岳の成長した樹木


笹間ヶ岳山頂(443m)より復活した緑を望む1


笹間ヶ岳山頂(443m)より復活した緑を望む2


堂山山頂


堂山山頂(384m)から見える
私の住む「もみじが丘団地」


堂山山頂(384m)からのびわ湖の眺め

 ◆今も残る田上山の荒廃した山肌

今も堂山に残る荒廃した山肌1


今も残る荒廃した山肌2


 このように田上地域は、近代砂防の発祥の地としての砂防先人の碑が田上枝公園に設置され、その横には「砂防百年」の石碑が1974年に建てられました。また、林野庁による「後世に伝えるべき治山~よみがえる緑~」60選にも選ばれています。


近代砂防発祥の地碑


砂防百年の碑

 
◆ふりかえって
 ここ数年、猛烈な豪雨による大きな災害が発生しています。平成25年9月の台風18号は、滋賀県、特に信楽で記録的な大雨をもたらし、初の大雨特別警報が発表されました。この台風により、県内各地で河川が氾濫して、浸水被害が多数発生しました。 大戸川においても水位による堤防決壊が発生し、田上地区の田んぼが水浸しになり、周辺の住居にも浸水被害が発生しました。今年(2018年)の7月には、広島や岡山でこれまでにないような豪雨で土石流の発生や河川反乱での浸水などの水害で多くに方が亡くなられています。その方々のご冥福をお祈りするとともに、今一度、地球環境の大きな変動にあたって防災を見直す時期かと感じております。
                                                2018年11月          
                            〈投稿者〉 大津市 半井 尚さん