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私の住むまち 『 下阪本 』 |
◆はじめに
現在の下阪本は1丁目から6丁目まであり、人口約7,300人(2012年9月)を有する地域である。
歴史を紐解くと遡ること、江戸時代に下坂本村になり、
1889年(明治22年)下坂本村と隣接する比叡辻村の合併で大字下阪本村が誕生した。
1951年(昭和26年)大津市と合併して大字下阪本が下阪本町に改名された。
1979年(昭和54年)下阪本町と隣接の坂本穴太町の各一部から下阪本が誕生した。
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◆志津若宮神社 (大津市下阪本1丁目24-1)
この下坂本には、 志津若宮神社・酒井神社・両社神社・幸神神社・厳島神社・若宮神社・磯成神社・大崎神社・供所神社の九つの氏神がありる。
その一つである志津若宮神社を紹介する。
江戸時代よりもさらに歴史は遡り、弘仁7年(816年)に創立で、主祭神 (北)大山祇神(おおやまつみのかみ) (南)菊理姫神(くくりひめのかみ)を祀り紋章は木瓜(もっこう)である。
菊理姫は黄泉国(よみのこく)へ逃げてきたイザナギの神を助けた。大山祇神は酒を初めて作った神で、山の神といわれるとともに若宮または四ツ谷ともいわれる。
1571年、信長の比叡山延暦寺の焼き討ちにあって当神社も焼失したが、天正年間、浅野長政が再興し、以来、氏子が中心となって現在も
宮を守り続けている。
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志津若宮神社
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◆坂本城跡 (大津市下阪本3丁目)
一方、この下阪本においては語らずにはいられない歴史名所がある。
その中の一つが坂本城です。
前述の比叡山の焼き討ち後、延暦寺の監視、そして山中越えで京都に通じる交通の要所であったことから、信長は明智光秀にこの坂本(下阪本)の地に築城を命じた。これがいわゆる坂本城である。湖畔に面したこの城は信長の安土城に次ぐ第2の名城と讃えられていました。
光秀は本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、残った重臣の秀満が光秀一族と坂本城に籠るも秀吉軍に包囲され、秀満自らが火を放って自害し、城も焼け落ちた。
その後、丹羽長秀が再建するも大津城の築城に伴い廃城となりました。 現在、城跡は湖底に石垣の一部が今も残っています。
坂本城の碑は、本丸跡とされる下阪本4丁目の東南寺付近と、国道161号線沿いの湖岸公園に残されており、公園内には、明智光秀の像も立っている。
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坂本城跡(都市公園湖岸緑地)の案内板
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公園内にある明智光秀の像
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坂本城址のもう1つの石碑
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その横にある坂本城の碑
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<参考>
黄泉の国・・・死者が行くところ。
弘 仁 ・・・・嵯峨天皇(在位809年~823年)、淳和(じゅんな)天皇(てんのう)(在位823年~833年)
天正年間 ・・・正親町天皇・後陽成天皇の代の元号(1573年~1592年)
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2018年 9月
〈投稿者〉 大津市 中西 三弘さん |
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