『 野洲川のたもとに生まれて  パートⅡ 』

                                   
◆決壊、その時・・・・・
 
 左岸と同様、右岸堤防の警戒に当たる中主村「井ノ口」の男たちが土嚢を積むために杭を打とうとしたようだ。
今更杭を打っても何の効果もないことはわかっていても、なにか防衛の手を講じなければいられなかったのだ
ろう。
 まさにその瞬間だった。天地を揺るがすような轟音がした。対岸から悲鳴が聞こえ、堤防の人影がかき消さ
れた。今にも溢れそうだった川の水位が一気に下がった。みるみる水が退いていく。「向こうが切れた」誰かが
口走ったとき「バンザーイ」、いっせいに左岸の男たちが口をついて出た。こちら側は助かった。人間の命も
財産もみな無事だったという気持ちから思わず吐露した心底の叫びだったのだ。一瞬の出来事だった。
その寸前まで溢れんばかりだった水が破堤した右岸へ向けて、どーっと流れていく。  9月25日午後11時
過ぎであった。
 
 たった今、目撃した自然の驚異に膝頭の震えが止まらなかった。対岸の堤防が切れたのだ。堤防の上で
警戒に当たっていた人影は、瞬時に濁流に飲まれたのだ。轟音を立てる水音の中で200メートルも離れた
対岸の声が聞こえるはずがない。しかし、確かに悲鳴が聞こえた気がしてならなかった。それは、人間の生命が
散った瞬間の非現実であったかもしれない。区長以下地区の役員や消防団や青年団の左岸側の男たちは
茫然と堤防の上に立ち尽くしていた。
 
 やがて東の空が白々とし、悪夢のような夜が明けたとき、彼らは目を覆うばかりの惨状をそこに見たのだった。 
それはまさに天地が入れ替わったような様相を見せていた。対岸「井ノ口」の堤防が、およそ300メートルに
わたってなくなっており、その破堤個所から濁流は、一瀉千里に「井ノ口」 「六条」 「五条」 「安治」 「須原」
地区を襲っていた。同時に深掘れした川筋に水位が上昇していた琵琶湖の水が逆流した。そして集落の人家や
田畑を泥水の下に埋め尽くしていた。 ・・・・・
                                (2004年 田村喜子著 サンライズ出版kk野洲川物語より)
 
◆上記は昭和28年9月(台風13号)の出来事です。

 9月16日、トラック島南東方約1500kmの洋上に弱い熱帯性低気圧が発生し、18日グアム島の南東方約
450kmの洋上に達した。この時の中心気圧は998ミリバールで、南西・南東象限で最大風速は30m毎秒に
達し、25m毎秒の暴風半径は北東・南東象限で70km、北西象限では35kmであった。ここで台風13号になり
Tessと命名された。
 21日9時頃からは北西に向きを変えて22日9時頃までは、平均約20km毎時の速さで進んだ。22日午後
になって急速に発達し、23日13時22分には897ミリバール、最大風速75m毎秒となり、この頃から23日
3時までが最盛期で25m毎秒の暴風半径は約300kmにおよんだ。24日9時には南大東島の東方約150km
の洋上を通り、25日3時には北緯30度線に達した。このあたりからやや衰退しつつ北北東に速さを増しながら
進み、同日15時には潮岬の東方20kmを通過した。この時の中心気圧は930ミリバール、最大風速40m毎
秒、25m毎秒の暴風半径180kmとなっていた。
 紀伊半島沿いに熊野灘を北北東進し、17時過ぎに志摩半島に達した。22時には長野と軽井沢の間を通り、
26日には宮古と八戸の間から三陸沖に出た。本州上陸後は急速に衰退し、中心気圧は25日18時に946ミリ
バール、21時に974ミリバール、26日0時に976ミリバールと変化している。
 
  注) 1ミリバール(1mbr)は、現在の気圧の単位で1ヘクトパスカル(1hPa)にあたります。

◆この台風による被害は・・・・
 この台風による被害は、全都道府県におよび、中でも愛知、三重、京都、滋賀、大阪、福井の各県では甚大な
被害を受けた。
 台風13号通過のため、野洲川流域で24日から降り続いた雨は、翌25日に至り増々猛烈となって午後には
連続雨量220mmに達し、野洲川は刻々増水して、消防団等の必死の水防活動にもかかわらず、25日の午後
12時前に北流右岸の中主町六条の井ノ口提が約200mにわたって大音響とともに決壊し、濁流は搯々と付近
集落井口、六条、五条、安治、須原等の人家、田畑等を一瞬にして水面下に没し去り、住家68戸、非住家1030
戸が流出又は半壊、死者3名、重傷170名、その他罹災者総数3381名、耕地の被害、流出、埋没523町歩
(ha)、冠水300町歩、道路の流出25km、橋梁流出18橋に達し、その惨状は目を覆わしむる状態であった。
 また南流では26日午前0時過ぎ、左岸の守山町須本の笠原堤が210m、右岸の守山町今浜提135mが
ほとんど同時刻に決壊し、多大の被害を出した。
 なお、北流右岸堤防の決壊箇所には殉職者3名の慰霊碑が昭和31年9月に建てられ、毎年9月26日には
追悼法要が 行われている。
    
 

野洲川旧河道の地図

◆野洲川の変遷・・・・

 昭和33年4月
  直轄による調査に着手
 昭和35年5月
  守山町、野洲町、中主町が野洲川改修
  促進期成同盟会を設立
 昭和36年2月
  野洲川改修 法線案の発表
 昭和38年9月
  中洲地区貫通反対期成同盟会 結成
 昭和40年3月
  1級河川に指定される
 昭和40年4月
  工事実施基本計画公示、改修事業着手
   (2600立方メートル毎秒)
  県道野洲橋より下流が直轄管理区間となる
 昭和40年12月
  野洲川改修促進期成同盟会が促進協議会に改名


野洲川地図2

 昭和42年11月
  新川部の測量開始
 昭和43年6月
  補償基準及び確定法線の発表
 昭和43年11月
  中洲地区貫通反対期成同盟会が解散
 昭和44年2月
  中洲地区用地測量調査開始
 昭和45年5月
  用地補償基準仮協定の締結
 昭和45年6月
  中洲地区用地補償基準本協定の締結
 昭和46年3月
  工事実施基本計画(変更)施行
 昭和46年9月
  放水路の工事に着手

野洲川 旧

 昭和46年12月
  野洲川改修工事起工式
 昭和47年2月
  上流部用地測量調査開始
 昭和49年2月
  上流部用地補償締結(小島、阿比留)
 昭和49年4月
  石部頭首工まで直轄区間が区域延長される。
 昭和49年12月
  服部遺跡の発掘調査に着手
 昭和53年10月
  第1期通水工事に着手
 昭和54年3月
  服部遺跡の現地調査完了
 昭和54年6月
  第1期通水工事が完成し放水路への通水式が挙行される
 昭和61年3月
  野洲川落差工より下流の河道完成
  (3500立方メートル毎秒)
 昭和61年4月
  野洲川南北流が廃川告示される
 昭和62年2月
  野洲川廃川敷地を大蔵省に引き継ぐ

野洲川 新

◆野洲川の風景

川田橋より上流を


川田橋より三上山を


川田橋より下流を



 
                                                
2018年 1月          
                            〈投稿者〉 野洲市竹生  K.T.