びわ湖・堅田 『湖族の郷)』
 

◆びわ湖の最狭部、湖西側に位置する堅田は、平安時代末期から江戸初期にかけて、堅田衆「湖族」と言
  われた人々によってびわ湖最大の自治都市が築かれた所です。
  当時、堅田のことを『堅田千軒』、『諸浦の親郷』と呼ばれました。
  繁栄する堅田には美しい風景に魅せられ、堅田衆を頼り、各時代のヒーロー、ヒロインが往来しました。
  源信、一休、蓮如、勾当内侍、新田義貞、芭蕉等々、今も町のいたるところに激動の時代に夢と馳せた
  人々の名残 をとどめる史跡が残っています。

浮御堂(うきみどう)(満月寺)

長徳年間(995年頃)比叡山の僧源信が湖上の安全と衆生済度を祈願して建立。
「堅田の落雁」として近江八景の一に数えられる名勝。
現在の堂宇は昭和12年に再建。

<浮御堂>
本復寺(ほんぷくじ)(千那寺)

南北朝時代(1334−1392)野洲三上神社の神職善道が開く。
本堂には「親鸞蓮如連座像」「十字名号」など、上人ゆかりの宝物が展示されている。

<本復寺>
光徳寺((こうとくじ)

延元元年(1336)天台の僧天霊が開山。同寺で有名なのは「堅田源兵衛の首」である。宗祖の御真影を三井寺から奪い返すために自らの首を差し出したと言う。
本堂には源兵衛の頭蓋骨が今も安置されている。


<光徳寺>
祥瑞寺(しょうずいじ)

応永年間(1394−1428)一休の師華叟宗曇が開いた。
一休が22-34歳まで修行し、悟りを開く。
開山堂に宗曇と一休の木造がある。
本堂は昭和8年に再建。


<祥瑞寺>
居初邸天然図画亭(いぞめていてんねんずえてい)

寛治4年(1090)堅田の指導的立場にあった殿原衆党首の屋敷。
邸内「天然図画亭」は湖東を借景とした枯山水の庭園。
天和元年(1681)頃、北村幽安と藤村庸軒によって築かれた。

<居初邸>
神田(かんだ)神社

天暦3年(949)山城国加茂社(下鴨神社)を分祀し創建される。
伊豆神社とともに、例年5月14日(葵祭の前日)の早朝から下鴨神社へ湖魚を献上する「献饌供御人行列」が行われる。

<神田神社>
伊豆(いず)神社

寛平4年(892)に草創。堅田大宮と呼ばれる。
寛平年間(878)比叡山法性坊阿闍梨が諸国修行の折に見た伊豆三嶋の風景が堅田の地と似ているところから伊豆権現の祭神を勧請し創設。

<伊豆神社>
勾当内侍(こうとうないし)の墓(野上神社)

南北朝時代、戦いに敗れた新田義貞は愛する内侍を堅田に匿い、再会を誓って北陸へ落ちていくが3年後世を去る。
それを聞いた内侍は絶望のあまり湖に身を投じる。
今堅田の人達は内侍の霊を弔い、その石塚が野上神社に残されている。

<勾当内侍の墓>
出島(でけじま)灯台
   
往古、湖上関があった「関尾の浜」(今堅田)に建つ木造の灯台。
明治8年(1875)航行の安全を願い設置された。

<出島灯台>
鞍掛(くらがけ)神社

社殿は元慶6年(882)兼賢王(推喬親王の子)により建立。
壬申の乱(672)で敗れた大友皇子(弘文天皇)の侍臣たちが同地に帰農し、子孫相承して皇子の霊を祀っている。

<鞍掛神社>
湖族の郷(こぞくさと)資料館

中世、琵琶湖に君臨した堅田、その歴史と文化を紹介。
ゆかりの深い人物や文学作品コーナー、民具等の展示室、土産コーナーもあり、堅田郷土史がわかる唯一のスポット。

<湖族の郷資料館>


★最寄り駅 湖西線 堅田駅
        京都から25分

 
取材 2006年6月 山田耕一