戦争の傷跡「新川鉄橋」

出雲地方にも戦争の遺跡は残っています。

斐川町にあるJR山陰線の「新川鉄橋」。「荘原歴史物語」によると、昭和20年7月28日午前、四国沖の航空母艦から飛び立った13機のヴォートシコルスキーF4U「コルセア」が出雲平野に来襲。6機は松江方面へ、7機が斐川の「新川基地(大社基地)」を攻撃。この空襲で「新川基地」で3人、湯町の水上機基地で25人の将兵が戦死し、山陰線の湯町駅(今の玉造温泉駅)東方で列車が襲われ、乗客14人が死亡したと記されています。

JR山陰線の「新川鉄橋」にはこの空襲で米機が銃撃した痕跡が今でも残っています。西方から発射して鉄板を抜いた弾痕が11あり、そのうち5発はもう1枚の鉄板を抜いて東側に抜けています。

新川鉄橋の下は現在道路になっています。江戸時代の1831(天保2)年、松江藩は度重なる斐伊川の水害を防ぐため、斐伊川を斐川町出西地区から分流し、宍道湖までの約10キロを開削。堤防を作り川としました。それが新川です。やがて重なる洪水で新川も天井川となり、1939(昭和14)年に廃川となりました。明治43年に造られたと思われる山陰線新川鉄橋の橋脚は川にかかる橋の土台構造そのままです。今でも現役で活躍中です。

(情報 和田森)


新川鉄橋 鉄橋に残る銃弾跡
 
 銃弾の説明碑