松江藩の財政を支えた木綿

松江藩の財政は、六代藩主松平宗衍(むねのぶ)が家督を継いだ頃、困窮を極めていました。
領民から年貢を先納させ、豊かな商・農家から拠出金を出させてやっと帰国旅費を工面し、何とか初のお国入りをしたのが、家督を継いで14年目であったいうような破綻寸前の状態でした。
この状態を打破するために、宗衍は「御趣向の改革」と呼ばれる改革に取り組みましたが道半ばで挫折し、35歳の若さで引退しました。
しかしこの改革を引き継いだ次の七代藩主治郷(はるさと)が「御立派(おたては)の改革」と呼ばれる改革により見事に花を咲かせて財政を立て直し、以降松江藩は幕末まで安定した財政を保つことができました。

この改革の柱となったのが産業の振興です。
当時から全国の6割を生産していた鉄に付加価値を付けて生産販売した鋳造製品や、藩を上げて普及させ専売化して高収益を上げたロウソク・薬用人参などがその代表的なものとして知られていますが、他国からの収益の番付を示した当時の「雲陽国益鑑」によると、これらの産業を押さえて堂々東の大関に位置付けられているのは意外にも木綿です。
木綿は品質の良い「雲州平田木綿」として大半が大阪に出荷し販売されていたようですが、それ以外にも、木綿の衣服は北前船に積まれて北陸や東北で売られ、綿を生産する器具類も販売されてそれぞれ「雲陽国益鑑」にランキングされています。

現在出雲地方から木綿の痕跡はほとんど姿を消していますが、木綿の集散地であった出雲市平田町(旧平田市)の「木綿街道」にわずかにその名残りを留めています。
「木綿街道」は江戸時代から続いた外科医の長崎邸を改築した「木綿街道交流館」、18世紀に建てられた「本石橋邸」をはじめとして、白土塀・海鼠壁・出雲格子を備えた家屋が数多く残り、往時の面影を今に残しています。

(情報 千田)



木綿街道の町並み 本石橋邸
木綿街道交流館 加藤醤油店