海軍遭難記念碑

昭和2年8月14日、日本帝国海軍は松江市美保関沖の日本海で戦艦「長門」を旗艦とする60余隻の艦隊による戦闘訓練を行いました。

折からの台風の接近による強い雨と風の中での深夜の無灯火訓練で、訓練中、巡洋艦「神通」が駆逐艦「蕨」の側面に衝突し、「蕨」は92名の乗組員jと共に沈没しました。

またその直後、巡洋艦「那珂」が駆逐艦「葦」の艦尾に衝突し、「葦」の乗組員27名が投げ出されて海に消えました。

陸軍の八甲田山の遭難と並び、軍隊の訓練における2大遭難事故ともいえるこの119名もの犠牲者を出した大惨事は、日本海軍が極秘事項として公表しなかったため、長い間世に知られることがありませんでしたが、事故の犠牲となった「蕨」の五十嵐艦長のご子息邁(すぐる)氏が調査して、事故から半世紀後にその真相を「黒き日本海に消ゆ」という著書として出版されたことにより全容が明らかにされました。

この事故で収容された遺体は数体のみで、今も130mの海底で「蕨」と共に多くの兵士が眠っており、今日の日本がこうした犠牲の上にあることを忘れないようにと、事故から80回忌にあたる2006年8月14日に美保関灯台横の事故のあった海を見下ろす場所に記念碑が建立されました。


(情報 千田)

事故のあった日本海(右上が美保関灯台) 遭難記念碑