日吉の切通し

近年、川を跨いで架けられる鯉のぼりは全国各地で見られますが、松江市八雲町日吉の意宇川でも、4月中旬から250匹の鯉のぼりが泳ぎます。
その鯉のぼりの場所の少し下流に「日吉の切通し」があります。

江戸時代の初めまで、日吉村では意宇川が毎年氾濫し、多くの死者や田畑の損害を出して村は壊滅状態にありました。
その原因は意宇川がこの日吉地区で剣山という岩山に行く手を阻まれ、剣山の山裾を回る形で大きく蛇行しているためでした。
村の大百姓周藤弥兵衛家正が、川がまっすぐ流れるように剣山を開削するようにと松江藩に陳情しましたが、「小さな村にそのような大工事はどうか」となかなか決まりませんでしたが、名君といわれた藩主松平直正公が取り上げ、3年かけて剣山は切り抜かれ、意宇川はまっすぐ流れるようなりました。
しかし切り抜かれた幅が狭かったため、その後も何度も氾濫が起き、切通しの幅を広げるよう藩に陳情しましたが、財政難を理由に取り上げられませんでした。

家正の陳情による工事の52年後、当時56歳になる家正の孫の弥兵衛良刹は、藩の支援を待っていたら永久にできないと考え、私財を投じて切通しを拡大することを決意して工事を開始し、私財が底をついて人を雇う事ができなくなると、一人で鑿(のみ)を持って岩を削るなどの苦労の末、42年かけて延亨4年(1747)に切通しの拡張を完成させました。時に良刹97歳でした。
家正の時代幅14mであった切通しを、良刹が現在の幅30m高さ20mに拡張したといわれています。
90歳を超えた老人が一人でこの巨大な岩山に鑿(のみ)を振るっている姿を思い浮かべると先人の偉大さを感じざるを得ません。

鯉のぼりが架かる日吉公園には、弥兵衛良刹をたたえる記念碑があります。

(情報 千田)


日吉の鯉のぼり 切通し全景(黄線部が開削された部分)
切通し部の川の流れ 良刹を称える記念碑