松江大橋と源助

松江の市街地は宍道湖と中海を結ぶ大橋川で南北に分かれており、「松江大橋」はその大橋川に架かる橋で、小泉八雲の「知られざる日本の面影」をはじめとして数多くの書籍で紹介されて、松江を代表する名所の一つになっています。
橋の長さは約130mで、御影石でできた欄干は20個の擬宝珠(ぎぼし)で飾られ、橋の中程には夜になると点灯される4つの灯篭がある風情のある橋です。
江戸時代初期までは大橋川には「カラカラ橋」と呼ばれた人がやっと通れる竹の橋が一本あるだけでしたが、松江開府にあたり、松江城築城のための馬や物資を運ぶ荷車が通れる強固な橋の建設が堀尾吉晴公より命じられました。
この橋の建設工事は洪水などで難渋を極めたため、川の神の怒りを静めるために、マチの無い袴(横縞の継ぎをした袴という説もある)をはいて、その日の朝一番に「カラカラ橋」を渡る男を人柱とすることになり、橋とは何の関係も無い足軽の源助がたまたまその服装で橋を渡ったために捕らえられ、人柱として生きたまま橋脚の下に埋められました。
このような経過を経て橋は慶長13年(1608年)に完成し、これが初代の松江大橋とされています。
その後も洪水や事故のため、何度も橋の架け替えが繰り返され、現在の橋は17代目の橋で、昭和12年(1937年)に完成したものです。

松江大橋の南詰めの「源助公園」には、橋の建設での尊い犠牲者を供養する2つの石碑があります。
一つは人柱となった源助の碑で、もう一つは現在の橋の建設中、落下した鋼鉄製のバケットで頭を打って亡くなった深田清技師の碑です。
深田技師が事故にあったのが、源助が埋められたとされる橋脚の側であったため、当時の新聞に「痛ましい昭和の源助」と報じられたそうです。
大橋近くのスティックビルの筋向かいにある龍覚寺には、源助の木像と石の源助地蔵が祀られており、源助地蔵は毎年8月の地蔵盆に「源助公園」に移されて地元の人の手で供養されています。
現在大橋川は洪水対策として、松江大橋付近の川幅拡張と護岸の嵩上げが計画されており、この計画が実現すると松江大橋は18代目として架け替えられることになります。

(情報 千田)

松江大橋
源助と深田技師の石碑 龍覚寺