二つの茶室の何故

松江藩の松平家七代目の藩主松平治郷は藩の財政を立て直した名君ですが、それ以上に松江にお茶の文化を広めた茶人「不昧公(ふまいこう)」として松江市民に親しまれています。

松江には不昧公ゆかりの茶室が二つあります。

一つは安政8年(1779年)、不昧公の指示で、殿町にあった家老有沢邸に造らせた「明々庵」で、不昧公はこの茶室が大変気に入り、頻繁に訪れていたようです。

その後寛政4年(1792年)に現在の島根大学のちかくにあった有沢家の山荘に茶室「管田庵」を造らせました。
この茶室は不昧公が自ら設計したといわれています。
また同時に管田庵に隣接して、不昧公の弟の松平衍親(のぶちか)の好みで向月庵が造られました。

この管田庵は向月庵を含めて国の重要文化財に指定されていますが、明々庵は管田庵より以前に造られたにもかかわらず、県指定の文化財にとどまっています。

何故二つの茶室の評価にこのような差がついたのでしょうか。

これは管田庵は建設当時のままの姿を残しているのに対して、明々庵は明治維新で松平の殿様が東京に移り住むのに合わせて東京の松平邸にに移設され、その後昭和の初めに松平家から松江市に返還されて、管田庵の近くに移設され、さらに昭和41年(1966年)不昧公没150年に合わせてお城の見える現在の地に移設と解体・移設をが何度も繰り返されたのが原因のようです。


(情報 千田)


明々庵 明々庵から見た松江城
管田庵 庭園