【1.生誕の地】 JR和歌山線 千旦駅より徒歩約5分
明治27(1894)年11月27日、松下幸之助創業者は三男五女の末っ子として
和歌山県海草郡和佐村千旦の木(現:和歌山市)に生まれました。
地域の旧家で、4年間この地で過ごしましたが、父親が米相場で失敗破産したため
一家で和歌山市本町1丁目に転居し下駄屋を始めました。 |
|
|
|
|
|
松下幸之助創業者 生誕の地 揮毫:湯川秀樹 博士 |
松の木 落雷・火災で多くが焼失 根元が残っています |
|
|
|
|
松下家墓所 |
松下公園 |
|
|
|
|
高積神社 下の宮 |
高積神社 寄進なされています |
|
|
【2.和歌山市内への移転】 明治32(1899)年 幸之助氏 4歳
本町1丁目 幸之助さんの父・政楠さんが営まれた下駄商が存在した場所は不明です。
当時は和歌山市で一番の中心部繁華街です。京橋〜ぶらくり丁の間になります。
下駄商も、僅か1,2年を経ず店を畳まざるを得なくなりました。
当時住んでいた場所は定かでありません。 |
|
|
|
|
現在の『本町1丁目〜本町2丁目 |
幸之助氏が通った『雄尋常小学校』跡地
清酒:世界一統 のところです
|
|
|
【3.紀ノ川駅 母親との別れ】 明治37(1904)年 幸之助氏 9歳
尋常小学校修了を4ヶ月残して中途退学、明治37年(1904)年11月23日、10歳誕生日を4日後に控えた日、単身大阪に向かいます。
南海鉄道 紀の川 橋梁は、前年の1903年架橋、和歌山市駅まで南海鉄道は開通していました。
北島橋を渡って、母親と別れを惜しみながら渡り、紀ノ川駅に行ったのでしょう。
駅で、母は、大阪へ行く乗客に、「幼い子どもですが、あちらに着けば、父親が迎えに来ていますので、
どうか途中よろしくお願いします」と懸命に頼んだとのことです。
|
|
|
|
|
南海電鉄紀の川橋梁(近代化産業遺産) と 紀の川 |
現在の南海電鉄『紀ノ川駅』 当時は現在より紀ノ川寄りです |
|
|
【資料】
松下幸之助創業者が、生誕地近くの『高積中学校』校歌を作詞しています。昭和54年(1979年)
https://www.wakayama-wky.ed.jp/takatumi/
@ 高積山の峰青く 布施屋にそびゆ学び舎に
素直な心感謝にみちて 共に学ばん 共に学ばん われら高積中学校
A 宮井のほとり水清く 歴史の流れとこしえに
日本の心正しく直く 共に励まん 共に励まん われら高積中学校
B 紀州の里は世界につづく たちばな香る外国に
積極果敢勇気にみちて 共に進まん 共に進まん われら高積中学校
*************************************************************************************
千旦から和歌山市内へ向かう途中、「八軒屋」の農家で休憩した時
ふるまわれた『一杯のお粥』の味を、生涯忘れることがなかったといわれています。 明治32年(1899)
*************************************************************************************
松下幸之助創業者、和歌山城紅葉渓庭園内に茶室『紅松庵』を寄贈しています。昭和48年(1973)
紅松庵 http://www.wakayamakanko.com/sightseeing/history3.html
|
|
|
|
|
和歌山城 徳川御三家 |
紅松庵 内部 |
|
|
|
|
紅松庵 題字は松下幸之助創業者 |
|
|
|
【参考資料】
松下幸之助ウォーク in 和歌山 平成30年3月31日
主催: 南海電気鉄道(株)和歌山支社
後援: 和歌山市
協力: パナソニック(株) (株)PHP研究所 (株)ウイング
私の生き方 考え方 : 実日新書 松下電器会長 松下幸之助
血族の王 松下電器とナショナルの世紀: 新潮文庫 岩瀬達哉 著
松下幸之助の生涯 https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita.html |
|
|