パナソニック松愛会 守口門真支部

「支部だより」読物


『支部だよりに掲載されました記事の中から抜粋しました。』
私 の 回 顧 録 №1
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
私と活字
 
私は、支部報発刊のお手伝いをさせていただいていますが、 私と活字との出会いは某高校に入学した頃に溯ります。当時は若者の 間で大流行していた同人雑誌に、私も仲間数人と発刊に取り組んでいました。
あるとき、そんな仲間から他校の生徒会新聞を見せられることに始まります。
私の学校では、教職員が発行する学校新聞が配布されていたので疑問に思い「どうして生徒会新聞でなく、 学校新聞なのですか?」との質問に、 教員から「新聞をやる生徒がいないからだ」との返答があったので 「だったら私がやります」と同級生数人を募って新聞部を立ち上げて以来、 ペンネ-ムを使って記事の執筆、写真撮影などの生徒会新聞発刊活動として大切な他校との交流、 取材、経費稼ぎの広告取りが中心となり授業も休みがち。
(おかげで成績は及第点ギリギリ)高校新聞連盟にも加入するなど、毎日走りまわっていました。
おかげで卒業するころには、高新連新聞コンク-ルに出展できるまで成長させたのが思い出の一つです。
私 の 回 顧 録 №2
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
特機営業所へ突然の派遣
 
担当していたテレビのスイッチから出火、2件の火災事故が発生。 急遽製作した対策品を携えて、顧客宅へスイッチの取替えに回るのに約2ヶ月かかりました。
対策終了を上司に報告するやいなや、突然次週から東京特機営業所へ技術駐在員として出向するるよう命じられました。
そのころの東京特機営業所は、官公庁関係と日本ビクターなどの関連会社以外は営業実績がほとんどなかったので、電話帳でセットメーカーの所在地を調べるのが毎朝一番の仕事でした。
地図に赤鉛筆で印をつけ、カタログを携え、技術担当者との対応を求めて訪問を続けました。
当時、松下電器といえば、今では想像できないほど敵対心丸出しされました。
まして、「技術担当者に会いたい」などと言えば、 技術を探りにきたのでは…と疑心暗鬼の目でみられ、守衛室で門前払い同様の扱いでした。
そんな毎日疲労困憊の私の背中を押してくれたのは、赴任間もないエレベーターの中で、 偶然出会った創業者の一言と仲間の存在でした。
TVの火災事故のことを覚えておられたのか「君があの花谷君か。しっかり頑張ってや」 と励ましの温かいお言葉でした。
そして毎日、 報告できるような成果がないまま帰る私を待っていてくれて「飲みに行こう」 と誘ってくれる仲間がいたことだったとおもいます。
私 の 回 顧 録 №3
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
トヨタ自動車と初取引
 
日頃は営業活動のほか、ときには松下電器代表として、 工業技術委員会の「JIS規格検討分科会」にも幾度か出席していました。
おかげで、 同業他社の方々とも名刺交換や情報交換ができるようになってきましたが、 なかなか成果にまでつながりません。
ふてくされて綱島の松下通信工業で時間をつぶしていた時、K品質部長から 「今度T通信社がトヨタ純正部品を大量に受注したらしい。
担当役員を紹介してあげるから 、行ってみるか?」とありがたい言葉が・・・・。
早速営業担当者を伴って、地図を片手に電車やバスを乗り継いでT通信社へ。
担当役員から「これやってみますか?」と、いただいた図面は、我が社が経験したことのない難しいものでした。
なんとか受注にこぎ着けましたが、 これがトヨタ自動車との取引のきっかけとなりました。
その頃から、 ソニ-、三菱、パイオニア、日本コロンビア、春日無線山水、横河など大手メ-カ-から次々と引き合いを得ることができるようになりましたが、 引き合いが増えるのに比例してクレームも多くなり、その処理に走り回る日が続くようになりました。
手書きの解析結果と処置書を持って行くと「いつも同じような内容ですね。たくさん印刷しておいたらどうですか。」 との皮肉が、重い足にのしかかるのでした。
私 の 回 顧 録 №4
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
大阪特機営業所へ出向
 
約2年あまりの東京出向を終えた翌日、大阪特機営業所の技術駐在となり、近畿一円のセットメ-カ回りをすることになりました。
三洋電機、早川電機(現シャープ)、神戸工業(現富 士通)のほか、大阪、兵庫、京都など に点在する輸出専門セットメーカの設計担当者との折衝が主な業務です。
東京の経験と地の利を生かして、少しはゆとりが生まれました。
「松下電器から来た」と言えば、担当者が気軽に面談に応じてくれましたので地域差を実感。
しかし、販売に結びつけるには長く、幾日も通わねばなりませんでした。
関西地区には、輸出専門セットメーカも多く、なかには複数の地方工場を持つ会社もあって 訪問範囲は中国、中部、信越地方と広範囲になりました。
従って、事業部での業務は、連絡調整のための週1~2日のみで他の日は出張の連続でした。
私 の 回 顧 録 №5
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
技術部門への復帰
 
営業活動約20年後、事業部の品質管理、購買管理、外注指導や新製品試作などを経て、新しく自動車用センサーを開発するため、技術部門へ復帰することになりました。
その後、自動車部門専用の評価技術も必要であることから、カーセンサー専門の開発技術部門が新設されました。
この部門には、本田技研のエンジン技師を所長として招くというこれまでの松下では考えられない斬新な組織が発足しました。
長期、短期の業務計画を告知することや、10時から3時までをコアータイムとしたフレックス制度が全社に先駆けて実施されました。
朝会後のミ-テイングで業務計画の進捗状况を説明するほか、進捗はグループ単位、個人単位が中心となりました。
所長から、「指示は所長室のPCのメールに入れておくから出所したら確認するように。」
「定期業務の報告は箇条書きでもよいから、ワープロでA4、1枚にまとめるように。手書きは認めない。」
そのため、各グループに1台づつワープロを与えられました。
このことは当時の我々にとって、画期的なことでした。
私 の 回 顧 録 №6
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
熱海会談について (1)
 
東京オリンピックの景気で電機業界はテレビなど主力製品の普及が一巡。
昭和38年末にはその反動で販売不振となり、市場競争が激化。
業界が混乱し、得意先の経営も悪化。
これを憂慮された創業者は、昭和39年7月9日から3日間、熱海のニューフジヤホテルで全国販売会社・代理店社長懇談会を開催された。これが有名な熱海会談である。
熱海会談開始直前、会場を見に来られた創業者は、演壇が販社社長席より一段高くなっているのに気づき「なんで演壇が高くなっているのや」、 販社社長席はパイプ椅子なのに創業者や会社幹部の椅子が高級であることについても、「今回の会議は販社社長が主役やなかったのか」「ほんまやったら全ての販社社長に壇上に立ってもらいたい位だが、それができないなら同じ高さにすべきと違うか。
それと我々も同じパイプ椅子にするように」と命じられた。
開始までの短時間で演壇の取り外しや椅子の入れ替えなど大変だったと聞かされていた。
そして、懇談中創業者は演台の前で13時間立ったまま、苦情や要望をきいておられたが出席の販売会社・代理店170社のうち、収益を上げていたのは20社程であったことに、強いショックを受けけられた様子だった。
会談最終日、創業者は「2日間十分話し合った。もう、理屈を言うのはやめよう。結局松下電器が悪かった。この一言に尽きます。
これからは心を入れ替えて出直しますので、どうか協力してください。」
と祈るように涙声で訴えられ、下を向いたままハンカチで涙を拭いておられた。
それを全員が気づき、もらい泣きをし会場は粛然となった。
と当時営業所に在籍の私は、朝会で営業所長から聞かされたことを思い出している。
私 の 回 顧 録 №7
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
熱海会談について (2)
 
感涙と共に幕をとじることになった熱海会談。創業者は“共存共栄”の色紙を1枚づつ 思いをこめて揮毫(キゴウ)され販売会社社長、代理店の代表者一人一人に差し上げられた。
そして病気療養中の安川営業本部長を代行し“新販売制度”つまり地域制販売の再編に 取り組まれた。
新販売制度は、販売会社と代理店や小売店との長年のしがらみや義理人情もあって、 根強い抵抗に遭い、思うように進まなかったが、どんな困難にあっても地域販売を適性にして 不合理をなくさねばならない。
そう思われた創業者は最初に大阪府内の改善に一店一店説得につとめられた。
大阪での成功を範とし、半年以上かけて全国行脚を続けられ、なんとか了解をえられたものの再編後 2~3年は3割くらい売上げが減るだろうと危惧されていたところ、案に反して多少なりとも利益が出るようになっていたのである。
当時小売店は小切手決済が普通であった。
これを現金決済へ改めるよう提案されたが、小売店側に資金がなかった。
そこで創業者は月販会社を設立して小売店の月賦を買い取ることを思いつかれ、小売店は製品を販売会社から仕入れ、 お客様に月賦で売ったらその月賦を月販会社が現金で買い取ることで小売店に現金が入る。
その現金で販売会社の製品代を払ったらなにがしかの割り戻しがある。
この制度は小売店にも販売会社にもよい。
今ではどこの会社も取り入れているこの制度も“熱海会談時”(昭和39年)創業者が考えられた制度である。
私 の 回 顧 録 №8
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
光雲荘を見学して(1)
 
光雲荘とは、西宮市の幸之助創業者の私邸として1937年(昭和12)春に着工し、 1939年(昭和14)秋に完成。
松下家の公私にわたるおもてなしの場としてお得意 先や来賓客の接待などに使われました。
現在は、枚方市の人材開発カンパニーに移築 (創業90年の2008年)され、研修施設になっています。
西宮市の跡地も整備され 「創業者の森」として当時の雰囲気を漂わせています。
創業者が”3百年後の構想”に基づいて建設された苦楽園の光雲荘は、家を建てるの なら3百年は持たせたい。
3百年先にもその建物が少しも痛まないで、日本の建築のひ とつの姿を残すことを前提として、大阪城再興の設計者古川重春氏に設計を依頼された ものです。
光雲荘は、桃山時代に集大成された武家屋敷の建築様式である「書院造り」 の中に、ホールや談話室など洋間を取り入れた木造2階建ての建築物です。
  天井、廊下、欄間、照明など各部屋ごとに様々な趣向が凝らされており、創業者の3  百年後の遺溝にという思いが随所にうかがえます。
光雲荘の名前は、茶室に光雲と千宗室氏の自筆による庵額によるもので、敷地面積 は1846坪と広大でした。
私 の 回 顧 録 №9
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
光雲荘を見学して(2)
 
光雲荘は1950年(昭和25年)から会社の所管となり、松下電器産業の迎賓館として、国内外の多数の 来賓を迎えてきました。鳳凰をあしらった談話室、欅(ケヤキ)の式台が荘重な雰囲気を醸し出す玄関、内 玄関に掲げられた日常の規範を示す掟書、主人室から見れる庭園の美しさ、格別の細工がされた階段 踊り場の採光窓など素晴らしい限りです。
光雲荘の仏間に飾られている肖像画は、五大音吉氏ですが、これには次のような逸話がありました。
創業者は、9歳の時一人で大阪の宮田火鉢店に丁稚奉公としてはいりましたが、3か月で店をたたむこ とになり、あらためて五大自転車に奉公することになりました。
五大夫婦は多感な時代の5年余りの間、創業者を実の子供のように可愛がられました。
それなのに、 創業者は五大自転車を無断で飛び出し、これからは電気の時代だと直感、
大阪電灯会社に見習工と して入社してしまったのです。
後にお詫びの手紙をだしたところ「困ったらいつでも帰っておいで」と言っ てくれたことに感激し、私が今日あるのは五大さんのおかげ、生涯このことは忘れてはならないと、仏間 に松下家ご先祖のご遺影と共に、五大自転車店主音吉氏の肖像画を掲げられたそうです。
そして毎朝食事前に家族一同で礼拝されていたそうです。
私 の 回 顧 録 №10
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
大阪駅前の陸橋は創業者の寄贈、浅草寺雷門の大提灯も寄贈
 
 最近あちこちで取りざたされている老朽化した陸橋 ですが、大阪駅前交差点から阪急百貨店と阪神百貨店 を結ぶ陸橋は、創業者の寄贈によるものだ、 ということをご存知でしょうか。
当時、大阪市の人口集中による交通事故多発が深刻 な問題となっていました。
なかでも大阪で指折りの交 通難所、大阪駅前交差点の混雑打開のため、陸橋の建 設が検討されていましたが膨大な費用が掛かるため実 現は困難、と言われていました。
このことを知った創業者は、昭和39年に寄贈を決意 されたのです (阪急百貨店側の上り口に、 寄贈松下幸 之助と銘記されている)。
同年10月24日に完成した我 が国最大の陸橋は、梅田新歩道と命名され、大阪市の 交通安全対策の改善に大きな役割を果たすこととなり なりました。
その後この陸橋に続いて数多くの陸橋が 建造され、交通事故の減少に大いに役立ってきました。
また、我々大阪人は日常見ることがありませんが、 東京台東区浅草の浅草寺が田原町の大火で炎上し昭和 35年再建されたとき予算の都合で雷門の大提灯の費用 が捻出できず困っていると相談を受けられた創業者は 「雷門に大提灯がなかったら恰好がつかない」と、快 く寄贈を申し出られたときいています(大提灯の下部 に松下電器と銘記されているので機会があれば見てお いてください)。
私 の 回 顧 録 №11
 
支部報主宰  花谷 留蔵
    
松下電器時代をふりかえって・・・週休5日制
 
創業者が1960年(昭和35年)の経営方針発表会で「5年後に週休2日制を採用したい」と発表 された時、世間の反応は冷やかものでした。
5年後、1965年(昭和40年)4月16日から他社に先駆けて週休2日制が実施された。
創業者は、会社幹部に対して、「この経済困難に直面しているときに、週休2日制を導入す る事は容易なことではない。この事をわきまえて先輩国のアメリカ以上に合理的経営を生み 出す決意で臨んでいただきたい。そして日本を一挙にアメリカに近づけ、我が国の声価を高 められるようにという意気込みで実施する。週休2日のうち1日は休養、1日は教養に充ててほしい」と話された。
この事から、“1日休養、1日教養”のスローガンができ急速に浸透。
社員の勤労意欲と能 率向上につながりました。
我が社が最初に実施した週休2日制は、現在では官庁から学校ま で全国的に広がったことはご存知のとおりです。
当時、特機営業所勤務だった私は、取引先が土曜日は通常の勤務だったので、所員が交代 で出勤してクレーム発生などの対応に当たっていた事を思い出します。

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