パナソニック松愛会 守口門真支部

「支部だより」読物


『支部だよりに掲載されました記事の中から抜粋しました。』
私が調べた地元の話 №1
 
元6地区委員  加藤 光信
    
私の地区の神社仏閣「佐太天満宮について」
 
天神さんとして崇められている、菅原道真公(845~903年)は、平安時代の 学者、政治家。遣唐使を廃止させた右大臣のとき(901年=昌泰4年)妬まれて 筑紫(今の九州太宰府)へ流される途中、現在の守口市佐太町にしばらく滞在 し、都からの沙汰を待ったが、一向にその沙汰がないまま筑紫へ、下向するこ ととなった。
佐太の地名は、「道真公が沙汰を待つために滞在したことをうけて名づけ られた(沙汰)の訛ったもの」といわれている。
道真公は、出立に際し、この地に自身の木像と自画佐太天満宮 像を残すとともに、一本の楊枝を地に挿し「わが身の 無実の証拠として二葉の松となって生き栄えよ」と誓 ったところ、その楊枝がほどなく発芽し、見事な松の 木に成長したと伝えられている。
道真公がなくなって約50年後の947~957年ごろ、里人が道真公の徳を慕 い、道真公が残した木像を祀るために創建されたのが「佐太天満宮」の起源 とされている。
参考資料:「大阪再発見」神社めぐりより
私が調べた地元の話 No2
 
11地区委員 早瀬 智恵
    
門真が誇る薫蓋樟(くんがいしょう)
 
門真市の南部に位置する、三島神社境内を覆う巨大な、 楠は樹高24.4m、樹囲12.5mで根元に多数の瘤を有し、幹から伸びる枝の太さは見る者を圧倒する 姿である。
この幹の根元には左将千種有文の歌で 村雨の雨宿りせし唐土の松に劣らぬ楠ぞこのくす」三島神社 の歌碑が建てられているのも有名である。
この楠は昭和13年、当時の文部省(現、文部科 学省)から、天然記念物として認定され、銘木として 広く知られていたが平成元年4月12日大阪府緑化 推進委員会主催で府下200ヶ所の候補地から投票によ り第一位にえらばれたことが新聞、テレビで報道され たことから当時の岸大阪府知事をはじめ、多くの学者 や知名人が訪れていたが、昨年8月18日付け日本経済新聞の「神秘な巨木べスト10」にとりあげられて から、ミステリ-ゾ-ンとし若い女性の見学者も増えてい る。
三島神社は、古くは山王権現と称したが、近江の国の 山王総本宮、日吉大社から御分霊を勧請し氏神とされ、 明治3年4月に今の神社名に改められた。
私が調べた地元の話 №3
 
1地区委員  長濱 勝
    
義農・喜左衛門
 
「人の鏡の喜左衛門 里のほまれよ ほこりよと~」 これは守口市寺方小学校校歌の冒頭の一節です。
この校歌に唄われている喜左衛門とはいったいどういう人物だったのでしょうか。
私たちの住んでいる北河内一帯は、大昔から低湿地帯で農民たちは水害との戦いでした。
雨が数日降り続くたびに水路は氾濫し、農作物は勿論、生活にも大打撃をうけていました。 と守口市史に記されています。
南寺方の庄屋、喜左衛門は樋(排水溝)の設置を幕府に願い出たのですが、なかなか許可がおりませんでした。
喜左衛門記念碑 そこで喜左衛門は、許可を得ず私財を使い独断で樋を設置したのです。
そのため、寛永13年(1635年)捕らえられ、一族もろとも処刑されてしまいました。
喜左衛門の死後もこの樋は撤去されず当地の樋の基準とされ、多くの農民たちを水害から守り ました。
生命を賭して農民たちを救った喜左衛門を顕彰し、昭和13 年に喜左衛門記念碑が建立されたのです。
私の調べた地元の話 №4
 
5地区委員 黒田 忠孝
    
大塩の乱と茨田家
 
天保8年(1837年)2月19日午前、大坂町奉行所も元与力、大塩平八郎は、自らの門弟300人余りと共に、私財や命をかけて飢餓に苦しむ庶民を助け、幕府政治の刷新を求めて立 ち上がった。
門真三番村(現堂山町)の豪農茨田家当主の郡士は、門弟として守口の白井孝右衛門ら、北河内の有力農民たちと決起に参画。
大塩勢が総崩れとなった後、郡士は暫時大塩と行動を共にするが2月22日に自首、大坂奉行所の取調べは非常に厳しく獄死 した。
明治維新の30年前のことであった。
昔、門真神社前の街道を北上すると、まもなく集落がとぎれ田園が広がり前方左に道路から出島のように木々に覆われた広大な茨田家の屋敷があった.その直系である老婦人、茨田ひろさんはひっそりと暮らしておられましたが昭和44年1月茨田 家最後の人として当地に没し茨田家は廃絶した。
今、屋敷跡は、住宅に囲まれ毎年夏になると盆おどりが開かれている小さな公園となっている。
私の調べた地元の話 №5
 
2地区委員 鬼頭 栄治
    
門真の文化財  ”バッタリ”とは?
 
門真市は府下有数の低湿地帯で、かって南野口町あたりには、千石沼がありました。
農道が無く、川舟が利用されましたが落差があったため農作物を積み替えなければなりませんでした。
バッタリ1 バッタリは、パナマ運河と同じ方法で、落差のある水路を二つの水門を互いに操作して、舟を通す役割をはたしています。
往き(下り)は、樋門を操作することなく、上流から下流へと流れに乗って下り、帰り (上り)は、樋門を操作し、上樋と下樋の間の水路にできるだけ多くの舟を入れて、通舟時の水の無駄や逃げを少なくするように工夫されています。
バッタリ2 大阪府の9割を占めるほど盛んだった「門真蓮根」を運ぶために、水路が網の目のように張り巡らされていた頃、バッタリが大いに活躍しました。
大正3年に開通したパナマ運河よりはるか昔に作られたこの仕組みは、愛すべき門真の文化財です。
※バッタリと言う名称は
●勢いよく倒れたり落ちたりするさま
●水門を開けた時「バタリ」と音がした事から「バッタリ」
私の調べた地元の話 №6
 
6地区地区委員  加藤 光信
    
守口の文化財 「来迎寺と幽霊の足跡」
 
来迎寺は、守口市佐太中町にある浄土宗の寺院です。
「絹本著八幡曼荼羅図」は、絹地に男山八幡宮の七社の神像を描いた鎌倉時代のもので、国の重要文化財。寺庭裏手の「石造十三重塔」も鎌倉時代のもので、府の指定有形文化財。
来迎寺山門 貞和3年(1347年)大念仏寺7世法名上人の弟子、実尊誠阿上人西願が現在の守口市来迎町に天筆如来を本尊として一宇を建立したのが始まりとされています。
その後、1678年現在地に落ち着くまでの335年間で26回の移転を繰り返しています。
これは、足利義満から圧力をうけて堂宇を維持できなくなったこと、住職相続を34家のくじ引きで決めたこと等から、各相続者の各村にその都度、移転したからと言われています。
また、1743年、女の幽霊が現れ、幽霊の足跡とされるものが座具に残され、現在もそれが伝わっています。

世界でも珍しい~幽霊の足跡~

  日本の幽霊には、足がないのが定説ですが、この来迎寺には世界でも類を見ない貴重な「幽霊の足跡」があります。
幽霊の足跡 以下は、伝説のお話です。
来迎寺の慈天上人が、夕方のお勤めをしていると、音もなく女の幽霊が現れ、こう言いました。
「私は、江戸、小網町大工の妻、お石と申します。
病弱ゆえ、主人が家を明けて寄り付きもせず臨終にも弔いにも来ずじまいでした。
この世に想いを残したまま、さ迷っております。
ご回向をたまわりますようお願いします。」
上人は、幽霊とわかっても、少しもあわてず、座具を幽霊の前に敷き、「この座具は浄土の蓮台です。
この上にお立ち下さい。」
    と促し、「心光清蓮」(清らかなハスの上に乗って光を放つ)という法名を授け念仏回向をされました。
幽霊のお石は「今、お上人様のご回向により迷いは覚め、仏様の基に参ることができました。
お礼にせめて私の足跡をしるしておきましょう。」
と言うや、その姿が消えたとのことです。
私の調べた地元の話 №7
 
2地区地区委員  鬼頭 栄治
    
難 宗 寺(なんしゅうじ)
 
1347年、融通念仏宗の実尊上人が來迎寺を建立されました。
実尊上人亡き後、來迎寺は移転し、あとに祠(ほこら)が残され、近くに住む來迎衆が護持していました。
(※ 來迎寺は門主が変わるたびに移転、現在は佐太にあります。)
(※ 旧來迎寺の関係で、難宗寺の近くに現在も来迎町の地名があります。)
文明7~9年(1475~7)蓮如上人が現枚方の光善寺に逗留されていた時、この祠をたびたび訪れ布教されていました。
そして1477年、祠ごと信者全員が浄土真宗に改宗しました。これが難宗寺の開基といわれています。
(※ 守口へは淀川水路で、守口からは「ならみち」を利用されたそうです。)
その後、蓮如上人の孫実円師が、傷んだ坊社を修復されました。
戦国時代の信者を守るため、寺を中心にした防衛構造とし、自主運営ができる町づくりをされました。 これは戦国時代各地に生まれ、自治が認められた寺内町と呼ばれるものです。
大坂夏の陣では、兵火で付近の集落共々難宗寺も焼失。寛永13年(1636)、村上良慶法師が、茨田郡の本山別院(掛け所) として再建されました。
(※村上良慶法師は肥前中津浄喜寺住職で、元村上水軍武将、小早川家家臣)
その後さらに、落雷、風水害で傷み、 1810年に再建されたのが現本堂、書院です。再建には、50年の歳月を要しましたが御連枝富田本照寺住職の指導で、 本山坊舎に似た美しい形の典型的な真宗寺院となりました。
(※ 最近200年目を期し、屋根の一部解体修理と壁面の耐震補強をしています)
この本堂は、完全に左右対称で、 典型的な真宗寺院の形式がと られています。また、当時は、周囲を築地堀で囲み、西南に鐘楼、西に山門、 北に長屋門・太鼓楼、本堂東北に玄関・書院、庫裏を配しており、守口市内の真宗寺院として最も整った構えが残され ている重要な文化財です。
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗退し、それを追う形で3月に明治天皇が大阪へ行幸途中宿泊されました。
この行幸には大阪遷都の計画があり、賢所、文武百官も同伴、守口は 一夜の帝都になりました。
また、境内には、樹齢500年、木の高さ約25m、直径約1.5mの大イチョウがあります。昭和50年(1975)に大阪府の天然記念物に指定されています。
私の調べた地元の話 №8
 
風流・門真桜散歩
    
砂子水路の桜(三ツ島)
 
砂子水路は三ツ島東部を南北に縦断する水路です。
500mある水路の両岸に約200本のソメイヨシノが 植えられていて桜のトンネルを形成し、市内で随一の名所としてにぎわいます。
見頃には、保存会の皆さんが船を浮かべ、水上からの観桜に風情を添えています。
その風景は「大阪みどりの百選」の第2位に選ばれました。
昔は田んぼやレンコン畑で農業用水として使われていました。
60年代頃まではウナギやフナが泳いでいましたが、 住宅地開発の埋め立て等で水質悪化。
水路の掃除をし田船で花見をするように なったのは、地元の自治会の皆さんが、水路桜保存会を結成した1998年からです。
私の調べた地元の話 №9
   
6地区地区委員  加藤 光信
 
史跡 「茨田堤」(まんだのつつみ)と堤根(つつみね)神社そして樟(宮野町)
 
門真市宮野町の「堤根神社」本殿の裏面に史跡「茨田の堤」があります。
昭和48年に大阪府の史跡に指定された「茨田堤」は、古事記や日本書紀に記述がみられる記録に残る最古の堤防と言われています。
日本書紀の説話によると、仁徳天皇の時代(5世紀)に淀川の洪水を防ぐため治水工事が行われ、 当時の最先端技術であった渡来人の土木技術を用い、難工事のすえ、堤防を完成したそうです。
堤防跡から古墳時代(5世紀後半)の須恵器が出土していることから、この堤防跡こそ現在唯一地上に残る 「茨田堤」の遺構と推定され、堤の神社を挟んで東西542.97mが大阪府の史跡に指定されています。
この堤の完成後、田地は一挙に広がり、5世紀後半に集落が形成され、「元町遺構」6世紀には河内の低地で 「最大級の円墳」や「普賢寺古墳」が築造されるなど、大きな発展を見ることができます。
「堤根神社」は、茨田堤の鎮守として創建されました。祭神は、菅原道真です。
茨田堤築造に関係の深い茨田氏が、堤の鎮守として建設したものと伝えられています。
鳥居前には河内と大和を繋ぐ行基道が通じており、古くから信仰を集めました。
寛永期(江戸初期) には、この地の領主永井尚政が崇敬していた菅公を合祀(ごうし)、以降は「天満宮」と称していました。
明治5年(1872年)に村社に列格しました。
社殿近くの茨田堤の一部に,樹齢500年以上の 樟 が生えています。
私の調べた地元の話 №10
   
2地区地区委員  鬼頭 栄治
 
文禄堤<守口の史跡>
 
豊臣秀吉が、文禄5年(1596)に築いた文禄堤、それは淀川の氾濫を防ぐとともに大阪 と京都を結ぶ最短道路でした。
現在は京阪守口市駅近くの約700mほどがその姿をとどめています。
天下を手中に収めた 豊臣秀吉は文禄3年(1594)に難攻不落の大阪城を完成させたのに続いて、伏見城の築城 を計画します。
それまでの京都-大阪間は主に淀川を行く水運が中心で、陸路なら八幡から山
崎を通る東高野街道か、八幡から樟葉、枚方を通って飯盛山の麓に出るかいずれも大阪と伏見 を結ぶには、かなりの迂回路でした。 それで、この2つの城下町を直結する目的で淀川沿いに 堤防を築き、上部を道路としたのです。
実際には、毛利輝元や小早川隆景らが担当したこの一 大プロジェクト完成した道路は、京街道と呼ばれ周辺の町々に大きな発展をもたらしま した。
守口宿には、大名の泊まる本陣をはじめ人足や馬が備えられ、文禄堤の両側は、旅 籠や商店が軒を連ね大変な賑わいだったようです。
鳥居前には河内と大和を繋ぐ行基道が通じており、古くから信仰を集めました。
寛永期(江戸初期) には、この地の領主永井尚政が崇敬していた菅公を合祀(ごうし)、以降は「天満宮」と称していました。
明治5年(1872年)に村社に列格しました。
社殿近くの茨田堤の一部に樹齢500年以上の 樟 が生えています。
私の調べた地元の話 №11
   
5地区担当  黒田 忠孝
 
門真出身の総理大臣 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう) (上)
 
私が就職した頃、門真から通勤していることを知った先輩から 「総理大臣が出た所やな」といわれました。その時は特に気にも 留めなかったのですが、 後に偉大な人物が門真出身であり、大阪 から出た唯一の総理大臣幣原喜重郎で あることを知りました。
今回は2回に分けてその幣原首相の概要 をご紹介いたします。
幣原は、大正デモクラシーの花開く1920年~1930年代 に彼の理想とする国際協調外交に情熱を傾けた外交官でした。 語学も堪能で、英国紳士を体現し英米外交官の絶大なる信頼を 得ていました。
1924年(大正13年)加藤高明内閣の外務大臣をはじめと し、その後4代の内閣で外務大臣を務め、世界各国に幣原外交は 尊敬されていました。
米国TIME誌の表紙を飾るほどです。 (日本人として38人中4人目の掲載です。幸之助創業者は31人目 に掲載されました。)
しかし協調外交は国内では、軍部から「軟弱外交」と非難され 軍拡自主路線の「田中外交」と対立。1931年関東軍の独走で 勃発した満州事変を収捨できず、幣原外交は終焉します、これは 文民外交の終焉を意味します。
その後は軍部が独走、日本は破滅へと突き進んでいきました。
私の調べた地元の話 №12
   
5地区担当  黒田 忠孝
 
門真出身の総理大臣 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう) (下)
 
幣原は1872年(明治5年)当時の門真村に豪農の 次男として生まれました。
父、新次郎は養子の身にもか かわらず田地を売り払ってでも学費にと決めていました。
当然、親類から非難もされましたがその教育の甲斐があ り、兄の坦(たいら)は文学博士、台北帝大総長を務め 長女の操は、保育園を設立するなど社会事業に貢献しました。
次女の節は、府下最初の女医(産婦人科)として 活躍しました。
昭和20年、73歳になっていた幣原に 総理大臣を打診され固辞していましたが、天皇の大命降 下により、第44代内閣総理大臣に就任しました。
「天皇の人間宣言」草稿を起案したことでも知られて います。
昭和21年初めに風邪をこじらせ、肺炎を併 発。
この時マッカ-サ-元帥が、国内では入手困難なペ ニシリンを取り寄せ、幣原の治癒に努めました。
回復した幣原はそのお礼にマッカ-サ-を訪問。
この時 の懇談が憲法の戦争放棄発案説になったといわれていま す。
歴史に「もし(if)何々であったら」とよくいわれ ますが、彼と志を同じくするような人物が輩出しておれ ば、その後の歴史は違ったものになったかも・・・。
この偉大な人物を知り、もっと評価し、市民としての 誇りにしたいものです。
幣原の生家跡には兄弟を顕彰した石碑が建てられてい ます。
碑は1966年(昭和41年)に建てられ、題字 は吉田茂の直筆であり、碑文は当時の大阪府知事佐藤 義詮によるものです。
私の調べた地元の話 №13
   
2地区担当  鬼頭 栄治
 
守居神社(もりいじんじゃ)
 
醍醐天皇延喜18年9月19日(918年)に鎮座して、 素戔鳴大神(すさのおのおおかみ)と賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)をお祀りしてあります。
淀川流域の守護神としてこの地に土居を築き社殿を構えてお祀りされたのが創りで、地名を土居の庄と称し、昔は土居神社と称号されていました。
明治5年に土居字田東(現滝井)産土神社(祭神素戔鳴尊)を明治40年に守口字猿島(現桃町)の 大隅神社(祭神賀茂別雷神)が合祀され守口の総氏神とし守居神社と称号されました。
後小松天皇嘉慶年間(1387年)と後花園天皇寛正4年(1463年)に疫病流行があり、 美しい花を作り祭祀を修し、鎮花の災祭を行ったとあり、現在の夏祭りとして今に伝えています。
天文13年7月9日(1544年)前代未聞の大洪水があり、 大門鳥居流失し、社殿失損・宝殿流損のため地方に寄進を仰いで再興。
昭和9年9月21日室戸台風でも大きな被害を受け、氏子崇敬者の寄進を仰いで境内を拡張し現在の社殿になりました。(昭和16年10月総工事竣成)
※ 解説
1) 素戔嗚の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説があります。
2) 賀茂別の「ワケ」は、分けるの意であり「雷を別けるほどの力を持つ神」の意味です。
3) 「土居」とは「土を盛り上げた土手」を意味します。

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