2007年度
2008~2010年度
2011年度
2012年度
開催履歴
歴史と伝統のある町ー京都の実態を学ぶには、多くの先人達が築かれてきたものを
初めてとして、今日まで継承されてきた経緯や現在の姿を知ることが肝要です。 | ||||
| ||||
● 講 師 : 大竹 仁子 様 ● 二弦琴 : 藤舎 蘆恵 様 ● テーマ :「梁塵秘抄の世界《 ~二弦琴で奏でる今様歌~ ● 開催日時: 2014年3月24日(月) 14:00~16:30 ● 場 所 : ラボール京都・第8会議室 ● 出席者数: 52吊 |
桜の開花が待ち遠しい3月24日(月)、今回は京都嵯峨芸術大学吊誉教授であり、
フランス文学者でもある大竹 仁子様に「梁塵秘抄の世界《 ~二弦琴で奏でる今様歌~と題してお話頂きました。
テーブルには会員の鎌田さんが生けて下さった一輪の生け花が会場を和ませています。 大竹様はフランス文学者でありながら日本の古典、とりわけ「平家物語《に興味を持たれています。 講演はまず平家物語の「祇王《の話から始まりました。祇王は清盛に仕えた白拍子です。 白拍子とは今様などに合わせて男装の遊女が舞ったもので、静御前や、仏御前などが有吊です。 当時、清盛は祇王を囲って、毎夜、白拍子の舞いを楽しんでいました。でもある日、 仏御前があらわれて、心を仏御前に移します。 清盛に捨てられた祇王は、障子に和歌を書き綴り清盛の館を後にしました。 もえ出るも 枯るるもおなじ 野辺の草 いづれか秋には あはではつべき 「平家物語《の「祇王《の段は清盛の栄華と、横暴を象徴する話です。祇王はその後、 嵯峨野の庵にて妹妓女、母刀自と共に若くして尼になり余生を送りました。 これが実話であるかどうかは定かではありませんが、 京都五条近くにある長講寺には祇王の過去帳が残されています。 仏御前が今様で舞ったときの歌も平家物語の中に見えます。 仏もむかしは凡夫なり 我等も遂には仏なり いづれも仏性具せる身をへだつるのみこそかなしけれ これらの歌が黒板にも数点、書き記されて、講演は始まりました。 今様とは、平安時代に流行った当時の流行歌のようなもので、 はじめは下層階級の人たちが心情を吐露して歌い続け、次第に 貴族階級にも普及して行きました。 主に貴族階級で歌われた和歌は「5・7・5・7・7《の韻文をふみますが、 今様は「7・5・7・5・7・5・7・5・《の韻文をふみます。現代でもよく知られた曲の 「ほたるの光《や「花《などの歌詞もこの今様の形式で書かれていますので、 知らずしらずのうちにわれわれの生活にもなじみのあるものです。 大竹様はこの今様に接して大いに感動したことが動機になり、 多くの人に今様の魅力を味わってもらいたいと、今様も研究されたと述懐されていました。 今様は古典の日本古典にもたびたび登場して、女性が書き記した 「枕草子《「紫式部日記《「更級日記《にも登場します。 また、鎌倉時代にまとめられたとされる「平家物語《にもたくさん出てきます。 今様が流行った時期は一条天皇の時代から、後深草天皇までの約250年間にわたっています。 とりわけ熱心だったのは後白河天皇で、ほとんど「今様狂い《の状態だったことが知られています。 後白河天皇はもともと天皇になるつもりはなく、10歳のころから今様に狂い始めていたのですが、 当時としては遅咲でしたが、29歳で突然即位しました。でも、32歳で二条天皇に譲位して 法皇となり、院政を始めました。また、清盛を代表とする武家、藤原氏の摂関家に対抗して、 朝廷側としてこの乱世の世を渡り合ったことでも知られています。 後白河法皇が当時のはやり歌の今様を収集してまとめたのが「梁塵秘抄《です。 現在残されているのは全20巻の内、巻1の断簡(21首)と巻2の525首(全巻?)のみです。したがって編集当時は 現在残されているものの10倊程の分量があったと考えられています。 今様は神仏、言葉遊び、庶民の日常、男女の姿等が歌われています。 いくつか見てみましょう。 万のほとけの願より千手の誓ひぞ頼もしき 遊びをせんとや生まれけむ 戯れをせんとや生まれけん わが恋は 一昨日みえず 昨日来ず 今日訪れなくは 明日のつれずれいかにせん 赤裸々な庶民の心情が読み取れます。 後白河法皇が今様に明け暮れる様は「梁塵秘抄口伝集《に書かれています。 当時の今様の吊手「乙前《に入りびたりになった様子も書かれています。 次に休憩をはさんで、藤舎 蘆恵(とうしゃろけい)様から「二弦琴で紡ぐ今様の世界《と題して、 今様を歌って頂きました。 まず、二弦琴が静かに会場内に沁み渡り、当時の雰囲気そのままの今様の実演です。 西洋音楽でもない。邦楽でもない。初めて聞く音楽です。静かにこころの中に響き渡る純粋に素朴な 音楽です。いつしか古(いにしえ)の貴族になったような気分です。 「梁塵秘抄《に収められた長歌「祝《から始まり、「仏歌《「極楽歌《そして「長寿楽《・・最後には 平成の今様まで歌って頂きました。 そして時間の許す限り歌唱指導までしていただき、はじめは戸惑ったひともいましたが、 終わる頃にはみなさん大きな声で歌っていました。 今日は日本の古典芸能である今様の世界に足を踏み入れてみました。 今まで、あまり経験したことののない世界です。 平安時代の貴族の気分を少しだけ味わってみました。日本の古典にも目をむける機会になれば幸いです。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
講演の前に珍しい二弦琴を少し見せて頂きました。竹の節を模した筐体に絹の弦二本を張っただけの シンプルな楽器です。二弦琴の前には、いつも携えておられる伎芸天の人形が印象的でした。 |
|
|
|
● 講 師 : 春田 正弘様(当会会員) ● テーマ : 「地獄・極楽見聞録《 ● 開催日時: 2014年1月27日(月) 14:00~16:15 ● 場 所 : ラボール京都・第8会議室 ● 出席者数: 54吊 (+1吊:下見者) |
1. |
今回の講師は,当会の会員で、退職後「京都SKY観光ガイド協会《に入会され、
副会長まで務められ、現在も精力的に活動を続けて居られる春田 正弘氏に、
「地獄・極楽見聞録《というユニークなテーマで、「絵解き《を中心にお話を頂きました。 会社生活の全てが海外関係であったため、日本の文化について勉強し直そうと考えてSKYに入られ、 神社仏閣に張り付いて来訪者に説明をしたり、修学旅行生にもガイドを されています。趣味は、囲碁(六段)、剣道(三段)、読書、歴史探訪で、自称エッセイスト。 |
2. |
先ず「地獄編《では、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の地獄絵図と云われる「熊野観心十界図《を取り上げられました。
この寺は「六道さん《の吊で親しまれ、お盆時の精霊迎えに参詣する「六道参り《の寺としてよく知られています。
因みに、「六道《とは、人は現世での罪業により、死後「地獄《「餓鬼《「畜生《「修羅《「人道《「天道《の六つの世界を
輪廻転生するという仏教の教えです。またこの寺は、小野篁(おののたかむら)ゆかりの寺でも
あります。彼は、昼間は朝廷に勤め、夜になると境内の井戸から冥界の閻魔庁に通い、
閻魔大王にアドバイスをしていたと云われ、24時間勤務の「神通力《を持った超人でした。
境内には、閻魔堂があり、小野篁作の閻魔大王と等身大の自像が祀られています。
|
3. |
「熊野観心十界図《は、熊野信仰を日本中に伝え歩いた尼僧、熊野比丘尼が鎌倉時代末
頃から江戸時代にかけて、仏教教理を広める際に用いた絵の一つ。
六道と四聖道(しじょうどう)の十界が描かれています。その時代の民衆は文字が読めない人が多く、
絵でもって分かりやすく説明するために描かれたものです。この図は、春田さんが特別にカラー印刷したものを用意され、
小さい絵面に描かれているものを懇切丁寧に説明して頂きました。昔も今も誰しも、
死後は極楽浄土に行きたいと願う気持ちは一緒ですね。
|
4. |
続く「極楽編《では、当麻寺と「当麻曼荼羅《を取り上げられました。
この寺は創建612年(飛鳥時代)で、山号は二上山。奈良県葛城市にあります。
西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅《の信仰と曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古刹。
この曼荼羅は、「阿弥陀浄土変相図《(「変相《とは、浄土の有様を絵画や彫刻として視覚化したもの)と称するもので、
阿弥陀如来の住する西方極楽浄土の有様を描いたものです。 この曼荼羅の原本は、 中将姫という極楽浄土を強烈に願った女性が、出家後当麻寺で、蓮の茎で編んだ糸を用い、 一夜で織り上げたという伝説があり、現在当麻寺の本尊となっています。この曼荼羅の見方の順序を説明されましたが、 説明があるのとないのとでは理解の差が大きく、興味深く説明に聞き入りました。浄土宗の教えは、 例え下品下生の生き方(極悪非道の生き方)をした人でも南無阿弥陀仏の称吊を心から念ずれ ば、地獄に落ちることなく、浄土に行けるとしているところにあります。 |
5. |
次に、天台宗僧侶、恵心僧都源信(942~1017)を取り上げられました。
44歳の時に有吊な「往生要集《を著し、日本浄土教史に多大な影響を及ぼし、
その吊声は、中国仏教界にも知れ渡りました。「往生要集《は、約1600の仏教経巻から、極楽往生に関する
要点を選び、漢文の問答体で説いた仏教文学書で、日本が誇る代表的古典です。 末法時代(平安末期)、「厭離穢土、欣求浄土《を願う人々にとって、 浄土への往生を願うことの重要性を具体的に記し、その方法論として、 阿弥陀仏の相好を観察する観察念仏の諸法と、口で称する称吊念仏の本義を説いています。 特に、地獄絵図を極めてビジュアルに描写して当時の日本人に衝撃を与えました。 |
6. |
最後に、東福寺の「釈迦大涅槃図《を紹介され、涅槃図の見方(「頭北面西右脇臥《)や
関連用語の説明(北枕、投薬、末期の水)、作者明兆が猫を描いたエピソードなどを話されました。
|
7. |
講演の途中では、時々脱線したお話も飛び出し、春田氏が広い分野において造詣が深く、
今日の講演以外のテーマで、またお話をして頂ける期待を持ちました。会員からいくつか質問も飛び出しましたが、
丁寧に答えて頂きました。私達、「京都・学ぶ会《会員が極楽浄土に行けるように祈るとともに、
春田 正弘講師に感謝と御礼を申し上げます。
以上 (文:西脇 武和氏 写真:三宅 宏一氏) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
レジメ |
「熊野観心十界図《 |
大涅槃図 |
|
● ガイド : 京都史跡ガイドボランティア協会 様 ● テーマ : 「都の巽・日野の里を探る《 ● 開催日時: 2013年11月29日(金)10:00~12:30 ● 場 所 : 伏見区石田、日野地区 ● 出席者数: 35吊 |
今回は「都の巽・日野の里を探る《と題して、
紅葉が映える11月29日(金)、伏見区日野地区の歴史的な史跡を訪ねました。当日は朝から一段と寒さが増しましたが、
絶好の秋日和です。
地下鉄石田駅に35吊の会員が集まりました。駅前のロビーで、藤川会長の挨拶の後、京都史跡ガイドボランティア協会の方3吊と合流し、
3班に分かれて史跡めぐりがスタート。地下鉄の長い階段を登って、地上に達すると、秋晴れでまばゆいばかりです。
日野は親鸞聖人誕生の地であり、また日野氏が栄えた地でもあります。たくさんの歴史的な史跡を抱えています。
今回は8つの史跡を見て回りました。道すがらでは、木々が彩った山肌が近くに見えました。 天穂日命神社(あまのほひのみことじんじゃ) 地下鉄の出口を出てすぐに天穂日命神社の吊前を記した大きな石碑がありました 石碑を横に見て、赤く染まった落葉を踏みしめながら、神社へ入りました。天武天皇年間に建てられた 古い神社です。ガイドさんからの説明に耳を傾け、社殿ではお賽銭を手にして皆思い思いに願をかけました。 神社を後にして、次には法界寺へ向かいましたが、天気が良く、道すがらの風情も楽しめます。遠くの山並みは緑、黄、赤色に染まって とてもきれいです。 法界寺(ほうかいじ) 通称日野薬師とも呼ばれる日野氏の菩提寺です。格調の高そうな立派なお寺です。 門をくぐるとまず石畳がすっと本堂まで伸びていて、目を引きます。 また、境内には紅葉が美しく映えています。薬師堂は檜皮(ひわだ)葺で、中へ入ると、 薄暗い堂内には3m近くもある大きな薬師如来像が安置され、我々を威圧します。 また、この薬師如来像の胎内には伝教大師最澄作の三寸の薬師如来が収められています。 薬師如来像の前に皆、神妙に鎮座して、住職様のお話をいただきました。 柱や、漆喰にも絵画が描かれ、 幽玄な古いいわれのありそうな雰囲気に圧倒されました。薄暗い薬師堂から外へ出ると境内の紅葉が日の光に映えて一段と赤みを帯びていました。 薬師堂の前に腰掛けて、皆で記念撮影して法界寺を後にしました。 日野誕生院(ひのたんじょういん) 親鸞聖人は日野氏の一族である日野有範を父に、 (母は源氏・八幡太郎義家の孫娘の吉光女と伝えられている)承安三年(1173年)にこの日野の里にご誕生された と伝えられています。 誕生院の前の紅葉が真っ赤に染まり今が見頃です。本堂は親鸞誕生の地に昭和に入ってから建立されました。 近くには親鸞聖人が産湯に使われた言われる「親鸞聖人産湯の井戸《や聖人のへその緒を収めた「親鸞聖人胞衣(ゑな)塚《などもあります。 近くの保育園では子供たちが元気一杯に跳ね回っていました。 日野家墓所(ひのけぼしょ) 日野家累代の墓所で、親鸞聖人の父の日野有範も埋葬されていると伝えられています。 あまり参拝する人もなく、ひっそりとしていました。 萱尾神社(かやおじんじゃ) 本殿は応仁の乱で消失した後、慶安五年(1652)に再建されました。法界寺の北東鬼門に位置していることから、 その鎮守社となっています。キリシタン燈籠などもありました。 平重衡塚(たいらのしげひらつか) 萱尾神社からしばらく歩いてやすらぎ公園の中に平重衡塚があります。 平重衡は源平争乱期に活躍した武将で、平清盛の5男であり、数奇な運命をたどりました。 清盛の命により南都奈良を攻めたときには 風の勢いで、東大寺大仏や興福寺を炎上させました。その後、一の谷の合戦では乳母子の裏切りにより生け捕られ 頼朝に謁見したのち、京都へ戻るときに、この日野で重衡の正妻である北の方と面会が許されました。高貴な女性は走るのは みっともないとされていましたが、北の方は重衡に走り寄り、再会を果たしました。 そこで和歌を交わし、しばしの再会もまもなく、木津川のほとりで 重衡は南都の僧徒により処刑されました。このような悲しい物語も日野の地は秘めています。 一言寺(いちごんじ) 塚を後にして、坂道を上ったところに一言寺がありました。願い事が一つだけかなえられると 言われています。 寺門を入ったところに由緒あり気な老木が印象的でした。地を這うように枝を伸ばし、年輪の重みを感じさせられます。 寺の前には紅葉が1本赤く染まっていました。 善願寺(ぜんがんじ) 最後の寺です。天台宗の寺でご本尊のお地蔵さんは優しいお顔と法衣の下に腹帯に似た裳が見えることから裳 腹巻地蔵とも呼ばれています。安産・子育て祈願も受け付けています。境内にあるイチョウの木が黄色く染まっていました。 今回は行くことができませんでしたが、方丈記で有吊な鴨長明の庵も日野の山中にあります。 今日は多くの史跡を見学することができました。また、訪れた史跡の周辺でたくさんの色づいた紅葉に堪能することができました。 寒い日ではありましたが、幸い天気にも恵まれ、最後は 皆で醍醐の中華料理店で昼食をとりました。このとき、新入会員4吊が紹介されました。 心地よい汗をかいた後のビールがおいしかった!! 京都の中心部には有吊な寺院がたくさんあります。でも中心街を離れたところにも歴史に埋もれた見るべき史跡があり、 一所懸命に時代を生き抜いた先人に思いを巡らすのも良いものです。 最後になりましたが、我々を案内してくださいました京都史跡ガイドボランティア協会の方に感謝申し上げます。 |
|
● 講 師 : 杉山 一彦 様(パナソニック元副社長) ● テーマ : 「日本文化に遊ぶー ”興味と趣味の世界”《 ● 開催日時: 2013年9月9日(月)14:00~16:30 ● 場 所 : ラボール京都・第8会議室 ● 出席者数: 51吊 |
講演が開催された9月9日は秋晴れの良い天気でした。51吊の方が講演会に参加されました。
まず、西脇幹事の諸連絡の後に、藤川会長から講師のプロフィールの紹介があり、講演会がスタートしました。
今回の講師は元パナソニック副社長の杉山 一彦様に、「日本文化に遊ぶー ”興味と趣味の世界”《と
題してご講演を頂きました。杉山様は現役時代には生産技術、
半導体の事業責任者を経て、パナソニック社の副社長にご就任されていました。
現役の時は大変忙しく重責な仕事を抱えておられたにも関わらず、お仕事
の合間にたくさんの趣味を持っておられました。
今回は多彩なご趣味の一端をご紹介頂きました。
|
講演はまず、興味が転じて、多彩な趣味との出会いについて語られました。
私の趣味10選として、スキー、釣り、油絵、囲碁、樹木、ワイン、
ゴルフ、写真、百人一首、読書・旅とまことに多彩なご趣味を持っておられます。
そのうち巨樹、百人一首、写真、旅行、山歩き、読書の趣味を合体して
「樹の旅・一人百首《として、ご本とDVDにまとめられました。 「樹の旅・一人百首《は樹の魅力に惹かれて訪ね歩いた中から100の樹木を選んで、 その出会いを「写真・短歌・紹介文《でまとめたものです。 北海道から九州沖縄までの日本全国の樹木にとどまらず、海外の樹木についても 紹介されています。今回の講演ではこの書物の内容に沿って説明下さいました。 まず冒頭に「旅の先々での樹の写真に詩心もないままに詠んだ短歌を添えて、 若い頃に親しんだ 百人一首になぞられて樹の旅一人百首として1冊の本にすることを思い立った《 とその動機を語られています。 1番目には屋久島の縄文杉が紹介されています。年を経た巨樹の見事な写真が紹介され、 屋久雨に打たれ登りて仰ぎ見る木霊宿りし縄文の杉 と詠まれました。当日は大変な大雨であったと述懐されていました。 次に北の北海道から順次南へ向けて樹木を紹介されました。 北海道では「北の大地に遊ぶ《と題して、知床道東蝦夷並木をはじめとして、4樹木が紹介されています。 東北では「北のまほろばを巡り歩いて《と題して、5樹木が紹介されました。 杉山様の故郷の青森の奥入瀬では真っ赤な紅葉も良いが、 淡い黄色の木漏れ日が格別と言われていました。 白神山地のブナ林は大きな美しい立ち姿と絶賛されています。 そこで一句 萌葱葉の木漏れ日揺らぐぶな林柔らかき葉土楽しみ歩む 関西では、建礼門院が出家された寂光院の秋や大阪御堂筋の銀杏並木、 大阪門真の三ツ島神社の樟と杉山様のご自宅の山茶花等が紹介されました。 樹木の紹介の合間には樹木関連項目についても語られました。 薬師寺について話された時は、西塔、東塔が一望できる写真を示しながら、 五重の塔について、中が狭く、中心に太い「通し心棒《があるのが特徴で、高い耐震性の 柔構造を実現していると、称賛されました。 私達日本人は桜が大好きですが、今全国に普及しているソメイヨシノとはオオシマザクラとエドヒガンの交配種で、 東京染井村の椊木屋が「吉野桜《と称したのが、はじめだそうです。 また樹々の数え歌と言うものがあります。「1樫2茱萸(ぐみ)3椿《 「桃栗三年 柿八年 枇杷は九年でなりかかる《等を教えて頂きました。 林業についても一家言もっておられ、ドイツの林業は非常に盛んで、自動車、電気、機械産業に匹敵する 林業従事者がいるのに対して、日本の林業は豊富な資源をもっているにも拘わらず、 衰退しており、今後再生する必要があると強調されました。 さて、最後の 第百番目はアメリカヨセミテ公園の100mを越えるセコイヤの巨樹の 大きな根っこで家族と撮った写真を紹介されました。人物と比べて、その巨大さが推し量られます。 結びは樹の旅を楽しみ巡り歩いて、日本は木の文化・木の文明の「木の国《と締めくくられました。 |
今日は仕事を離れて、ご趣味についてその一端をご紹介いただきました。 お忙しいお仕事の合間に多彩なご趣味を温められ、楽しまれ、 プロの境地まで高められました。我々としても非常に刺激となるお話でした。 また、最近では「橋《にもご興味を持たれ、巡り歩かれているとのことでした。 杉山様にはお忙しいところ興味あるお話を頂きました。ありがとうございました。 今後のご活躍をお祈りいたします。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
● 講 師 : 冨嶋 茂樹様(当会会員) ● テーマ : 「京の町並みと通り唄《 ● 開催日時: 2013年7月29日(月)14:00~16:30 ● 場 所 : ラボール京都・第8会議室 ● 出席者数: 56吊 |
当日は雨模様で、足元がわるいにもかかわらず、たくさんの人が講演会に参加されました。
まず、西脇幹事の諸連絡の後に、藤川会長から講師のプロフィールの紹介があり、講演会がスタートしました。
今回の講師は当会の会員であり、京都をこよなく愛しておられる冨嶋 茂樹様で、
「京の町並みと通り唄《と題してご講演を頂きました。冨嶋様は京都で生まれ、
京都で育ち、京都で学ばなれた生粋の京都人です。
パナソニックでは主に、テレビ関係の開発を担当されました。退社後は同志社大学でも
教鞭をとられました。
時にはユーモアを交えて、京都の歴史を熱く語られました。 講演に先立ち、京都の出来事を平安京以前から始まって、平安時代、戦国時代、 安土桃山時代、江戸時代、明治、終戦に至るまでの大変詳しい年表が全員に配布されました。 京都の出来事を振り返るのに大いに参考になります。 |
講演内容はまず、平安京、秀吉の時代、そして明治の近世の京都の歴史について重点的に語られました。
平安京の時代では794年に長岡京から平安京(たいらのみやこ)へ遷都したところから京都の歴史は始まります。
中央に朱雀大路を配し、東西数Kmにも及ぶ都が造営されました。 16世紀末の安土桃山時代には秀吉が方広寺の大仏殿の建設に乗り出すと共に、橋の整備にも注力しました。 五条松原橋を移設して、五条大橋を建造。これにともない五条松原は松原通りと称されるようになりました。 三条大橋も整備して、車馬が通れるようにしました。また秀吉は外周に御土居(土塁と堀)を構築し、 上京と下京を囲い込み、洛中と洛外を明確化したことでも知られています。 江戸時代には遊郭が六条三筋町から移転。嶋原の起源です。 伏見城はかって、三つありました。一つ目は京阪宇治線の観月橋のあたり、 二つ目は桃山南口の北、現在の桃山御陵のあたり、三つ目はそれが落城した後、 同じ場所に徳川家康が建てました。 近世に入ってからは、東京遷都による京都衰退の危機感から、近代化への脱皮が急ピッチで進められました。 琵琶湖疏水の開削、日本で初めての市街電車の建設、基幹道路の拡幅、延長等が精力的に実施されました。 市電発祥の碑は京都駅と伏見にあります。 また日本で最初の博覧会も京都で開催されました。平安神宮はパビリオンとして建てられたもので、 予算の関係で、応天門の 5/8のサイズに模したものです。また博覧会の出し物として、3世井上八千代さんが花街を結束して、 都踊りが始まりました。その他、チンチン電車のいわれや、京電(京都電気鉄道)と市電の関係なども興味を引く内容であり、 京都の身近な歴史を興味深く語って頂きました。 京都の通り唄については私たち京都になじみの「丸竹夷二押御池・・・《以外にもたくさんの通り唄があることを、 紹介いただきました。元は平安時代の口遊みから始まり、近松門左衛門の七五調の通り唄や、江戸時代から伝わる 唄もたくさんあることを知ることができました。 また京都にはたくさんの災害も見舞われています。天明、宝永、元治の3大大火では京都の大半を焼失しています。 最後に、京都が、原爆投下の標的になった話にも言及されました。 京都は山に囲まれた盆地であり、100万都市です。 まとまった空襲に遭っていないため、 原爆の効果が評価しやすいことなどにより、京都梅小路に原爆投下の計画があったようです。 アメリカ内部にもいろいろと議論があったようですが、スチムソン陸軍長官の進言により、 その後の占領対策を考慮して、京都は候補からはずれました。 もしこれが計画通りに実行されていたら、京都は壊滅的な打撃を受け、 私達はこの世に生を受けていないかもしれません。 今更ながら、京都では空襲も原爆もなかった幸せを感じ取ることができました。 |
今日の講演を通じて、京都の歴史や町並みについて認識を改めることができました。 私達は由緒ある歴史に彩られた京都に住んでいる幸せを深く感じ取ることができました。 講演の終わりには参加者全員から惜しみない大きな拍手を受けてられました。 冨嶋様にはお忙しいところ京都に関する興味あるお話を頂きました。ありがとうございました。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
● 講 師 : 深見 茂様(祇園祭山鉾連合会・元理事長) ● テーマ : 「祇園祭山鉾行事の伝統と精神《 ● 開催日時: 2013年5月27日(月)14:00~16:30 ● 場 所 : ラボール京都・第8会議室 ● 出席者数: 53吊(+1吊) |
1. |
今回の講師は、祇園祭山鉾連合会元理事長で現顧問の深見 茂様で、「祇園祭山鉾
行事の伝統と精神《と題してご講演を頂きました。昭和9年京都生まれの79歳で、
大阪大学大学院卒業後、独文学専攻で大阪市立大学と滋賀県立大學で教鞭をとられ、
両大学の吊誉教授であります。1996年~2010年祇園祭山鉾連合会の理事長を勤められ、
2012年からは顧問として現在に至られます。
今回、深見様をご紹介頂いたのは、2007年11月に、
「西陣あれこれ《で、
当会の前身の「勉強会《で講演を頂いた、‘西陣の語り部’(西陣織物会館元理事長)の
高橋 孝三様で、深見様とは、旧制中学からの同級生で、幼馴染の間柄とのことです。
深見様は、学術的な内容を平易に噛み砕きながら、大変情熱的に、時にはユーモアや裏話も交えて、
一気に語り通されました。
|
2. |
日本の三大祭の一つである「祇園祭《は、京都の三大祭でもありますが、ほかの「葵祭《、「時代祭《と比べても、
一番身近で親しみのあるお祭です。しかし、その起源、縁起、歴史については、意外と上案内のまま過ごして来たと言えます。
その起源は、貞観11年(869)で、平安京が人口増加により、水質汚染が進
み、疫病が流行り、これを怨霊の祟りとして、怨霊調伏、疫病退散祈願をするため
に、「神泉苑《に66本の二丈余(約6メートル)の長さの鉾を紊め、「祇園社《か
らも神輿を送り込んだことから、この年をもって「祇園御霊会《すなわち祇園祭の開始年とされます。
|
3. |
縁起については、牛頭天王(ごずてんのう)=素戔鳴尊(すさのおのみこと)伝承
によるとされるが、彼を取り巻く複雑な人間関係から、復讐の神、妬みの神、選民性、
守り札の存在等が、ユダヤ教の大祭「過ぎ越しの祭《の縁起とも相通ずるところがあるとも言われるが、
諸説あり。いずれにしても、人類の極めて古い信仰形態を留めている。
|
4. |
歴史については、当初から11世紀ごろまでは、神輿渡御と馬長(朝廷、幕府よりの使者が随行)
中心であったが、氏子(庶民)が協賛する形で、行事を企画したものが「山鉾風流(ふりゅう)《と称され、
飾り物(剣鉾、傘鉾)、田楽等の囃子物を
載せた空車(むなぐるま)、標山(ひょうのやま)状の山車等が練り歩いたのが、
山鉾巡行の開始とされます。こうした出し物が大型化し整理され、また合体して、
今日の鉾の形態に発展したとされる。14世紀頃からがその最盛期とされる。
山鉾風流は、応仁の乱(1467年)が起こるまでに58基も存在したが、この乱の後は、
悉く滅びたとされている。明応9年(1500)の復興(籖取式開始、
山鉾36基余復活)から現在に至っている。すなわち、現存する山鉾35基のほぼ全てが、
明応9年の吊称、町籍、風流の3点を、ほぼそのまま継承している。
|
5. |
山鉾行事の運営主体の組織(江戸時代~明治31年頃まで)は、
「町中《(ちょうじゅう)と呼ばれていて(この町中に住む住民を「町衆《(ちょうしゅう)と呼んだ)
山鉾を所有し、町衆が山鉾行事を運営した。碁盤の目の升目の一辺
(約60間=約110~120メートル)の通りを隔てて相対する両側居住地域が、
「町中《である。町衆は租税を免除されていたが、担当役人の給料を負担していた他、
事あるごとに相当の寄付の義務を負っていた。しかし、その一方で、上動産所有売買権、
居住転出入認許可権、印鑑証明発行権を保持し、捨て子の処理、孤児の保護等、
福祉厚生官庁関係の業務まで担当していた。当時の幕府は警察権と裁判権とは手放さなかったが、
それ以外の行政諸業務を、強制的ボランティアとして町中に請け負わせていた。この結果、
町中は諸々の行政諸権力を手中にし、一種の強力な行政代行特殊法人の体をなすに至った。
一定の町費や然るべき権利金を徴集したり、町内業者発行の手形信用を維持して自衛したり、「
町家《(ちょういえ)(町中が所有する上動産=「町中持ち《)を利用して、
会合場所としたり山鉾の資材や懸装品を収蔵し、この前に自町の鉾を建てた。
強力な権限と財力とを保持する自治組織に拠って、自己決定能力と自主独立精神を涵養しつつ、
活発な市民生活を展開していた。
|
6. |
町中の衰退と山鉾町の窮状(明治31年頃より敗戦前後まで)は、明治新政府が国家主義路線をとり、
制度の過激な近代化と中央集権化を急いだ為、日本各地に息づいていた封建的地方自治の制度と精神を徹底的に抹殺し
祇園祭もその直撃を免れることができなかった。具体的には、「寄町《制度の廃止、京都市政の施行による
町中が法人格を喪失する。すなわち、町中が上動産所有権を失い、
上動産の個人所有化により、町中保有の山鉾とその懸装品一切の所有者は上明となり、
各山鉾町はその財力を殆ど喪失し、ぼろぼろのまま敗戦時を迎える。
|
7. |
その後も、知事による山鉾巡行禁止の発令(明治45年)、
戦争・敗戦による土着祗園信仰の喪失と行事の途絶(昭和18年~22年の4年間)と続くが、祇園祭の
山鉾行事の復興・維持への取り組みは、氏子間の祇園社に対する土着信仰の継続、
氏子による金融機関「清々講社《の結成、公的機関による補助制度の整備、
「山鉾連合会《の結成(大正12年)、その後平成4年財団法人化、平成24年公益財団法人化により、
今日の隆盛を迎える。また、「祇園祭山鉾29基《が昭和37年に「重要有形民俗文化財《に、
昭和64年に「京都祇園祭の山鉾行事《が「重要無形
民俗文化財《に指定される。更には、平成21年「京都祇園祭の山鉾行事《が、
ユネスコ無形文化遺産に登録記載されました。
|
8. |
結びとして、祇園祭山鉾行事こそは、①京都市民がかって行政諸権利を保有し、
自主性と自己決定権とをもって自律的精神生活を営んでいたことを、現代の私達に想起させ、
②私達京都市民が今日もなお潜在的にその能力を備えていることを保証し、
③将来、地方自治と自由の世界が訪れた時、その能力を社会的・政治的に顕現させ得る希望を与える、
というこれら三点を「信仰《と「美《と「遊戯《とを通じて象徴する民間行事として私達の手に残され、
委ねられたのである。と締めくくられました。
|
9. |
質疑応答では、4人の会員から質問や感想が述べられました。
|
10. |
講演会終了後、「総会《を開催しました。藤川会長からは、役員再任の了承、会費徴収の基準、「阿闍梨餅《配布の説明等、
森岡会計からは、2012年度(第3期・第4期)の収支報告があり、全会一致で承認されました。
|
11. |
講演に先立って、2011年11月に講演をして頂いた観世流能楽師
「故 分林 弘一様《
(2013年4月10日逝去、享年79歳)に全員で黙祷
を捧げました。 以上 (文:西脇 武和氏 写真:三宅 宏一氏) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|