2003年2月26日関空日航ホテル前泊、2月27日関西空港を出発し、3月10日帰国までの「マレーシア領ボルネオ島」への道中記を5ヶ月過ぎたこの夏休み長雨冷夏の退屈凌ぎに思いつくまま書き連ねてみました。 宝塚市 南部昌弘 |
「え!ボルネオ?」 ある熟年夫婦のボルネオ・ボランティア道中記 |
第一章 そもそもの始まり
第二章 後の後悔先に立たず それでも好奇心はすこぶる旺盛ときているので、取るだけは取っておこうと免許交付センターへ行く。聞いたとおり運転免許証とハンコだけ持参したところ、パスポートは?といわれ「ほんに一番肝心なものを忘れていたわい」「なんでもキチット確認しないと大変なことにもなるぞ」こんなことで今後大丈夫かなとふと不安になる。 その不安が現実のものとなる日が来た。何度かのメールのやり取りの後、彼から現地の案内パンフレトが送られてきた。見ると全面ジャングルと野生動物の写真で彩られている。よく読むとミリという町はボルネオ島のマレーシア領にあり赤道直下北緯4度とか。 かみさんと二人思わず「え!ボルネオ?聞いてないよ!」と思わず声を上げる。 第三章 関空からミリへ 身障者の叔父を早朝滋賀県より関空へ、そのまま搭乗というわけにもゆかず、関空の日航ホテルに前泊することにした。その夜現地の長男より電話があり、こまごまトランジットの注意や出迎えの確認のついでに、日本の週刊誌が読みたいのでWポストとW現代、上司の奥様に女性自身等の女性週刊誌を持参してほしい、さらに現地には三つ葉とミョウガがないのでもしあればそれも欲しいとの要請があった。これが(ミョウガは別にして)後ほどトラブルの種になるとも知らず、たまたまトランクを開けていたので週刊誌を2つのトランクに分けていれて施錠してしまいました。三つ葉は手荷物と一緒に持つことにしました。 旅行中ずっと感じたことは、どこの国のどの航空会社もハンデキャップ者にはことのほか親切でケアが行き届いていたことです。最初は随分心配したのですが、乗り降り、機中、移動それぞれ連絡が行き届いていて、車椅子の手配(10Mほどはものに掴まり伝い歩きはできるので車椅子は持参しなくてすみました)、付き添い、バスや空港内を走る電気自動車(荷物を肩に長い空港内の通路を歩いている人を尻目にピーポ、ピーポと警笛を鳴らしながら走り抜けるという快感も初めて味わえました)等の手配、引継ぎ等は見事なもので、自分が障害者になっても付き添いさえあれば大手を振って海外旅行できるという自信がもてました。 さて、マレーシア航空でクアラルンプールへ着き、そこで国内便にトランジットするのですが、数時間の待ち時間がありました。そこで休憩、トイレとなります。トイレに入り驚きました。小ではなく大の方です。 トイレを見ればその国の文化が判るかといわれています。これは文化とはなんの関係もない話ですが、昔「小の方」の話で驚いたことがあります。数十年前、はじめてヨーロッパ旅行した折、最初に降り立ったのが、コペンハーゲンだったのです。空港のトイレで小便をしようと便器の前に立ち驚きました。極端にいえば、背伸びしなければ(ちなみに小生の身長は163cm、股下70cm)便器のなかに小便が正しく落ちないような気がしました。それほど朝顔の高さが高いのです。欧米人との体格の差、パワーの差を目の前に突きつけられ、「ギブ・ミー・チョコレート」のトラウマが蘇ったような気がしたものです。始めてのヨーロッパということで緊張していたせいで余計に彼我の差を意識したのかもしれませんが、いまも鮮明に思いだされます。その後何回かロンドン、パリ、フランクフルト、ミラノ、ローマ等々ヨーロッパのいろんな都市を訪れましたが、コペンハーゲン空港ほどのものに出くわしませんでした。 話を元にもどしましょう。その空港のトイレの中が水浸しで隣のブースも同じです。よく見るとホースとシャワーのカランがついているではありませんか。そのうち隣でシャワーの音がしがしました。そこではじめてインド人はトイレで紙を使わず左手で洗うという話を思い出しました。ここはイスラム圏だと、気づいたのです。さすがにその時は使う目的が判明しただけで満足してしまいましたが、その後ブルネイに小旅行した折、高級ホテルのロビーのトイレのあまりの豪華さに誘われ、持ち前の好奇心からそれを試してみようとしましたが、水が冷たい(日本では一般にお湯ですよね)のと、衣服を濡らさずにする方法を思いつかず、やむなく断念するハメとなりました。 イスラムといえばもうひとつ事件がありました。先に話しましたWポスト、現代です。イスラム圏ではポルノ、女性のヌードにことのほか厳しいとは聞いていましたが、うっかりしていました。両誌とも表紙をめくるとなんともアッケラカンとしたヘヤヌード写真が鎮座ましましています。さすがに現地のY君も気がつき慌てて携帯に架かってきましたが時すでに遅し。バッグはカウンターの向こうへと消えていました。聞くと見つかれば現物は没収、罰金もありとか。没収は痛くも痒くもありませんが、現地の取調べ室かどこかへ引っ張り込まれ、マレー語か訛りのきつい英語かでつるし上げられたりしたら身障者の叔父をかかえてどうしようなどとひとしきり思い悩んだりしたものです。 結論から述べますと空港の荷物検査は3個のバッグのうちなにも入っていないバッグのみ開けさせられたのです。まさに僥倖以外何ものでもなく、やはり「善行をほどこすものには神はついている」と胸をなでおろした次第です。 空港の検査といえばもうひとつ心配の種がありました。 三つ葉です。それには根がついており新鮮さをたもつために水をふくませていていわば生きているわけです。空港の植物検査に引っかからないかと日本語のわかるCAに聞くと多分ダメだろうとのこと。ポルノの件もあり、ダブルでは助からないとゴミ箱に捨てようかと覚悟をきめたのですが、折角苦労してもってきたのであきらめきれず、ままよ見つかればその時はその時開き直りを決め込んだところ、なにも咎められず無事通過できました。ついてからY君に週刊誌の件ともども「ややこしいものを持ってこさせるな」と詰問すると、いつも日本からの帰りにはその種のものは持ち込むが咎められたことは一度もないと涼しい顔。 人の気もしらないで、と恨みがましくもありましたが、彼等親子の再会を喜び合っている姿を見るとほんとにいいことをしたと心からの喜びと達成感で胸がいっぱいになってしまいました。 第四章 ボルネオにて 1、ボルネオ島とは(ボルネオ島の概略を記憶を頼りに記しておきます) ボルネオ島はマレー半島の東南に位置し、面積74・6平方キロメートル(日本の約2倍)、世界で3番目の大きな島です。因みに世界1はグリーンランド、2番は隣のパプアニューギニアだそうです。島全体は熱帯雨林につつまれています。領土としては西海岸はマレーシア領(1/4)、東、南海岸はインドネシア領(3/4)となっています。主な産業は、まず石油です。マレーシア領の中に石油成金でかの有名なブルネイ国があります(因みにボルネオというのはブルネイを訛ったものだそうです)。ブルネイは小さな国ですが、町の真ん中で石油を掘っているような国です。石油のお陰で王様は大富豪、国民は無税と結構ずくめ、しかしシンガポールと通貨をリンクしているため物価は高く、旅行者はマレーシア領で宿泊するとか。その他は農水産業が主で、日本とのかかわりはラワン材の主な供給先であり、コショウの産地としても知られているそうです。主な動植物としては、オランウータンの生殖地としてよく知られており、花の万博でおなじみの世界一大きな花=ラフレシアが有名です。言葉は私が行ったミリではマレー語と中国語が主で庶民に英語はほとんど通じませんでした。日本との直行便は北にあるコタ・キナバルには東京から週何便か就航しています。 2、島の生活 今回はいわゆる観光旅行ではなく、ステイだったので島での生活振りを垣間見ることができました。以下いくつかア・ラ・カルト風にスケッチしてみたいと思います。 ★
ボルネオの道路は高速道路並み ミリの町はボルネオの中では中都市といったところで、観光地ではないので日本人を見かけることはほとんどありません。町全体で25人だそうでそのほとんどがビジネスマンだから週末に町に食事に行く以外見かけないのは当然とか。 幹線道路は舗装は完備されており、最高時速は90kmでほとんどの車は130kmくらいで飛ばしている。それでも村の中は60kmと制限され、保育園の前では所々道路を盛り上げ自然にスピードダウンする仕組みがありました。 さらに信号機をほとんど見かけません。交差点はヨーロッパによく見られるようにロータリーになっているからです。信号が少ないのはドライバーにとってきわめて快適と思われますが、実際に運転して見ると小さいロータリーは向こうが見通せて問題ありませんが、半径50km以上の大きなロータリーでは「直進」がままなりません、一度はいってしまうとどこで左折すれば直進なのか分からなくなり、あげくの果てはロータリーを何度もぐるぐる周ってしまうハメになります。町全体があまり目印になるようなものがなく、慣れるまでに苦労します。目印といえば、人に道を聞く時でも、2つ目の信号を右へとかいえないので困ってしまいます。目印の効果としての信号機の意義?を改めて感じた次第です。 ★
道路を横断するのは命がけ ミリの町には信号ばかりか横断歩道も陸橋もない。 先ほど話したように130kmで疾走してくる車の切れ目を縫って道路を横断するのは、名神高速道路を横切るようなものでまさに命がけです。車はまだまだ少ないとはいえ、(結構日本でとっくの昔に廃車したようなポンコツ車が○○産業と大書したまま走ったりしている)散歩の時間は通勤時間と重なるのか車の量が多いので横断に苦労しました。散歩といえば、日本での習慣で毎朝家の付近を散歩しましたが、町の人が道をウォーキングまたはジョギングしているのをトンと見かけない。不思議に思っていたら、あるとき町の中心部にある大きな公園まで足を伸ばしたと時にわかりました。大勢の人が公園内でジョギングや散歩、体操、太極拳をしているではありませんか。かれらは家から車で公園まで出かけそこで目的の運動をしていた訳です。「道路は人より車優先」と聞いていましたがまさにそれを証明していたように思われます。 ある時妻が自分が身障者の付き添いであることの自覚からか「横断歩道も信号もない」こんな社会でお年寄りや身障者はどうして道路を横断するのでしょうという素朴な疑問を投げかけました。しかしよく見ると町でそんな人を見かけないのです。外国の町でお年寄りが家の外ですることもなくぼんやり道行く人を眺めている風景によくお目にかかりますが、そんな姿も見かけません。多分熱帯地方は外が暑くてとても表に出られたものではないだろうとは推測できますが、Y君に聞き質したところ「ここは暑い上に、医療制度も完備していないので長生きできないのだろう」とケロっといっていました。たしかに日本人もついこの間までは「人生五十年」とかいっていましたから文明、文化の程度で寿命も違ってくるのだと改めて実感した次第です。しかし、あまり意味なく長寿命というのも考えものという感慨に耽ったのも一方で事実です。 ★
ボルネオは食材豊富で暮らしやすい なんといっても物価が安い。ガソリンは水と同じくらい安いというし、朝食を食べに行くと(こちらも香港などと同じように家庭で朝食は作らず外に食べにゆく習慣になっている)、4品ぐらいを2人でとっても合計で300円くらい。いずれも新鮮な食材で美味しく栄養たっぷり。家で作るのはあほらしいという。 市場に行けば新鮮な野菜や魚介類が種類も量も豊富で安く活気に満ちている。魚介類はキロ単位だが少量でも量り売りしてくれていやな顔もしない。こちらの人はみな穏やかで親切だ。町でも大声を張り上げたり、喧嘩しているのを見かけたこともない。日本人だと判るとたどたどしい英語でじぶんは昔京都に行ったことがあるとか知っている限りのことを気さくに話しかけてくる。 料理の得意な妻は大喜びで、せっせと買い物をして日本で食べているようなお惣菜をつくり、Y君を喜ばせていました。茶碗蒸し、三度豆の胡麻和え、きんぴらゴボウ、イカとおくらの煮付け、蛸の酢のもの、えびや野菜の天ぷら、それを使った天丼、茄子と胡瓜の浅漬け等々ほとんど日本で食べているものが出来てしまうのです。おにぎりも喜ばれました。しかし夜作ったものを朝食べようとするともう表面がねばねばしている。以来水を使わずラップで握って上から塩をまぶすという方法で切り抜けました。 なかでも秀逸だったのがトムヤンクンでした。近くのスーパー(ハイパーマーケットがありました)でトムヤンクンのスープの素みたいなものを売っていたので、あり合わせの食材で妻が挑戦したところ亭主が褒めるのものもどうかと思われますが、まことにもって美味な代物でした。妻も料理の新しいレパートリーが増えたと大喜びでした。早速、そのトムヤンクンの素を大量に買い込み帰国して何度か試していますが、いまだその味を再現できていません。イカや海老が新鮮で質がよかったのだろうかとか、スープを前日の鳥料理のガラをじっくり煮てダシにしたのがよかったのだろうかとか試行錯誤していますが、しょせん料理というものはそこの土地の食材をそこの気候風土で味わって初めて本当の「味」がわかるのかもしれないと実感した次第です。 暮らしやすいといえば、ボルネオは赤道直下で熱帯雨林、さぞかし年中蒸し暑く、人間の住むところではないようなイメージをもっていましたが、さにあらず。確かに気温は年中30度を超えるようですが、思った程ではありませんでした。雨季と乾季では多少違うでしょうが、訪れた3月はその端境期にあたっていたのでしょうか、直射日光の下では暑くてたまりませんが、日陰に入り風があったりすると以外に涼しいのです。時折来るスコールの後などまことにひんやりして凌ぎやすく、大阪の夏のあの蒸し暑さよりよほど快適といえそうです。しかしスコールの後、風もなくかっとした日差しに照り付けられるとどうしようもありませんでしたが。 ★
ボルネオには土産物屋がない ボルネオといっても私が訪れた東マレーシアとブルネイに限りますが、いわゆるスーベニヤショップというものにほとんど見かけません。絵葉書はもちろん民芸品的なものを求めようにもどこにも売っていない。町中探し回ってやっとホテルのロビーで数枚の絵葉書と耳掻きを一本求められたに過ぎない。街には百貨店、スーパー、コンビニの類、また食事をするためのお店はいたるところにあり生活するにはなんの不自由もないが、さておみやげをという日本人的発想に立つととたんに「不自由な国」となる。そう、観光でメシを食おうという発想がないのでしょう。「3枚1000円!」なんていう売り込みなど一切聞こえてこない。JTBにボルネオのパックツアーのパンフレットがないはずです。それだけ観光ずれしていない「よさ」がたまらない「魅力」なのです。 ★ボルネオゴルフ事情
第五章 おわりに そんなこんなで約2週間のボルネオ・ボランティア道中は無事終了となりました。茂爺は日を追うごとに元気になり、趣味の絵を描いたり、息子との小旅行や買い物、食事に日々楽しげでありました。 帰りに際し「また来たい」と再三口に出し、「また一緒にこようね」という言葉をわれわれから引き出したい素振りを見せだし、とうとう最後、関空のアテンダントのおねえさんに車椅子を押してもらいながら「ボルネオが大変気に入り永住を考えている」などと口に出す始末。よほどボルネオ生活がお気に召したご様子で付き添いのボランティアの身としてはなんとも嬉しい限り。もともと親孝行しようにも双方の両親をともども見送ってしまい、対象がないわれわれとしては自分らの親孝行の代わりにと引き受けた経緯からするとこの旅行は大成功で大満足といわねばなりません。 しかしいうにいわれぬ苦労も多々あり、「次回」は「おいそれとシゲジイの口車には乗るまいぞ」という硬い決意をもって筆を置くことにします。 最後に今回の旅行の全日程を記しておきますが、特に今回は道中メモを取ったりしなかったので、記憶をたよりに思いつくまま脈絡なく書き連ねてきました。何しろ帰ってから5ヶ月以上過ぎています。思い違い、記憶違い等多々あると思われることをお赦しいただきたく存じます。(H15・8月) 「ボルネオ旅行全日程」 2月26日(水) 関空日航ホテル泊 2月27日(木) 11:30関空発 MH-53 便 17:20
K.L着 20:30 K.L発 22:45 Miri着 Y邸泊 2月28日(金) ミリにて市内散策 〃 3月 1日(土) 午後 サムリン合板工場見学 〃 3月 2日(日) ブルネイ観光旅行(日帰り) 〃 3月 3日(月) 午前中ゴルフ於ミリ・ゴルフ・クラブ 〃 午後 ショッピング 3月 4日(火)
9:50 Miri発 MH-2806便 10:30 K.K着 午後 キナバル山 Perkasa Hotel泊 3月 5日(水) 午前 キナバル国立公園 午後 ゴルフ於ボルネオ・ゴルフ・リゾート 夕食 オーシャン・シーフードレストラン(海鮮料理) ShangrilaTanjungAru Hotel泊 3月 6日(木) 午前中 プラウ・マヌカン島で海水浴 午後 コタ・キナバル市内観光 20:25 K.K発 MH-2829便 21:20 Miri着 Y邸泊 3月 7日(金) 午後 ゴルフ於ミリ・ゴルフ・クラブ 〃 3月 8日(土) ショッピング 市内で昼食 〃 3月 9日(日) 19:50 Miri発 MH-2611便 22:25 K.L着 23:45 K.L発 MH-52 便 3月10日(月) 7:05 関空着 |