出口御坊光善寺
京阪光善寺駅北の商店街を抜け、国道1号線の地下道をくぐり淀川に向かってゆくと、出口の昔ながらの村落に入る。小型乗用車がやっと通れるような狭い旧街道を少し行くと、出口御坊光善寺の門前に出る。
この寺院は、浄土真宗、中興の祖として知られる本願寺八世蓮如上人の開基された由緒あるお寺である。文明7年(1475)の8月、北陸吉崎を退去された蓮如上人(61歳)が、海路若狭小浜に上陸、丹波路づたいに河内の国茨田郡中振の郷・出口に移られました。
上人の教えに帰依していた御厨石見入道光善の請いにより、光善寺が建立されました。当時この地には2丁四方(14,400坪)の大きな池があり、それを埋め立てて諸堂を建設されたので、山号を淵埋山(えんまいさん)と名付けられました。この池の埋め立ての前夜、上人の枕元に若い娘が現れ、「この池に五百年住む竜で、池を一部でも残して下されば、守り神にとなり、とこしえに寺を守ります」と金の鱗を数枚置いて昇天したという「竜女池伝説」が残っています。池は今も小さく残され、江戸時代に数々の名園を手がけた漢詩家・書家としても有名な石川丈山作の光善寺庭園の一部になっています。
丈山は、この光善寺書院をこよなく愛し、この書院を「萬象亭」と名付けました。現在の萬象亭にも、当時の柱などが使われています。当時は淀川が庭園のすぐ西側を流れていて、書院からの眺めは三十石舟が上り下りし、遠くに天王山が借景になり風流な美しさだったようです。現在では淀川は500m以上も西へ移ってしまい、周囲をマンションに取り囲まれて、その面影はありません。
また周囲には梓(はり)の木(現在の植物名-さいかち)がよく茂っていたので梓原堂(しんげんどう)とも呼ばれていました。今も庭園の片隅にさいかちの大木が残っていて、大阪府の天然記念物になっています。
本堂は天文3年(1534)に火災に遭い、一時、川向こうの摂津鳥飼などに移転していましたが、慶長年間に再び出口に戻って再建されました。現在の本堂は360年前、寛永14年(1637)の建築です。最盛期は十指に余る末寺を抱えていましたが、時の移り変わりと共に、今は境内も3,000坪の敷地になっています。
蓮如上人が光善寺を開基されたのは61歳~63歳の3年間で、ここを拠点として近畿一円に教化活動をされ枚方・招提・出口は寺内町として賑わいました。山科本願寺の再建のため、長男の順如師を光善寺初代住職にされ自らは山科野村に移られました。
蓮如上人が来られた頃の出口には、わずか9軒しかない小さな村落でした。上人はこの出口の村人にも親しく法を説かれ、現在も出口の中央部に上人が腰をかけて語られたという、「蓮如上人腰かけ石」が残されています。光善寺から東に1km離れた東中振の小高い丘の上に、上人のお廟「蓮如廟」があります。今はこの丘の上からは、残念ながら駅近辺のマンションに遮られ光善寺を見ることが出来ません。
蓮如上人のご生涯
蓮如上人は応永22年(1415)2月25日、京都東山の大谷本願寺で存如上人の長男として生まれになりました。その頃の本願寺は、今日の本願寺からは想像もつかないほど小さな閑散としたお寺であったようです。
上人が6歳になられたとき、母上は上人を残して、ひそかに本願寺を去られました。上人のご生母は本願寺で働いていた方で、いつしか父上の存如上人とお互いのやさしい愛を育まれ、上人が誕生されたのです。ところが、26歳になられた存如上人に縁談が持ち上がったことを知られた母上は、絵師に頼んで鹿子の小袖を着た布袋丸(幼名)さまの絵を描かせて形見とされました。
「あなたは、親鸞聖人のお念仏のみ教えを正しく伝えて、世の中の苦しむ人びとの力になってください。母はいつもあなたを見守っています。」上人は、いくたびか聞いた母上の言葉を、胸の奥に秘めて、健気にご幼少の時代を過ごされました。蓮如上人は、ご成長と共に、母上が残されたことばを心に刻み、勉学に勤しまれる日々を送られました。17歳のとき、青蓮院で得度をされ、法名を「蓮如」、諱(いなみ・実名)を「兼寿」と名乗られました。
それからのご修学は、貧しく苦しい暮らし向きの中で、ひたすら浄土真宗のみ教えを学ぶことに情熱を傾け、お励みになる日々でありました。やがて、人びとの求めに応じて、親鸞聖人がお著しになったお書物を父上に代わり書写して与えられるなど、人びとの期待に十分に応え本願寺の跡継ぎに相応しい、立派な方にご成長になっておいででした。
蓮如上人が43歳のとき、存如上人が亡くなられ、本願寺第八代目をお継ぎになりました。上人は、親鸞聖人のご精神にのっとって、これまでの儀礼や形式に偏りがちであった伝統を改め、思い切った変革をなされました。それは、人びとと平座で膝を交えて仏法の話し合いをされたり、本尊を統一されて『帰命尽十方無碍光如来』の十字名号を人びとに与えられることなどでした。
この頃は、諸国は飢饉や戦乱が絶えず、長い戦国時代を迎えようとしていました。しかし、そうした中でも、人びとは次第に力を蓄えるようになり、各地の農村で人びとの自治的な組織である惣村が生まれてきました。上人は、時代の変化をしかっりと捉え、積極的な伝道を展開されました。その熱烈な伝道によって、門徒の輪は、近畿から北陸、東海に急速に広がりました。しかし、蓮如上人の伝道はまた比叡山の衆徒たちによって妨害されるところとなり、寛正6年(1465)に、大谷本願寺は打ち壊されてしまいました。
京都を出て、近江へ難を避けられた蓮如上人は、さらに文明3年(1471)に越前吉崎に拠点を移されました。ここで親鸞上人の教えを平易な文にした「御文章」による伝道を盛んに行われ、また仏前の勤行を『正信偈・和讃(しょうしんげ・わさん)』に改め、門徒の人たちとともにお勤めをし、み教えを分かり易く理解できるようにされました。そして今日の私たちが理想とする全員聞法・全員伝道の教団へと変革されていったのでした。さらに「南無阿弥陀仏」の六字名号を墨書して沢山の人に与えられました。こうした、親鸞聖人の“御同朋・御同行”のお心が生きた教団は、新しい村づくりの心の支えともなり、村々を挙げて本願寺の門徒になってきたのでした。
しかしながら、人びとの間では旧仏教や政治に対する批判の声があがり、ついに武装して一揆(一向一揆)が起こるようになりました。上人は争いを鎮めようと、文明7年(1475)に吉崎を退去されました。
吉崎を出られた蓮如上人は、先述のように河内出口の光善寺を中心に伝道を続けられますが、文明10年(1478)に京都の山科を拠点に定め山科本願寺をお建てになり、周辺に沢山の人びとが移り住む大きな寺内町が生まれました。
上人は、大変なご苦労を重ねられましたが、極めて短い間に、お念仏の御教えは北海道から九州にいたる全国に広がりました。そして、上人75歳になられた延徳元年(1489)に、寺務を実如上人に譲られ、山科の南殿を隠居所とし、さらに82歳の明応5年(1496)大坂石山に坊舎を建てられました。後にこの地は、天下統一を狙う織田信長の着目するところとなり、石山合戦へと発展します。大阪城は、石山本願寺の址に建てられたものです。この頃から、長年のご苦労が募ったのでしょう、体調を崩され、ついに、明応8年(1499)3月25日、山科本願寺で85歳の生涯をお閉じになったのでした。
上人は「一宗の繁昌と申すは、人のおほく集まり威のおほきなることにてはなく候。一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候『蓮如上人御一代聞書』」と戒めておいでになりますが、上人のご一生は、ひとえに阿弥陀如来さまのお心を人びとに知らしめんがためのご生涯でありました。
平成10年3月14日(土)~11月13日(金)にかけて、蓮如上人500回遠忌法要修行が10期、100日間行われました。 <参照-光善寺発行「蓮如上人と光善寺」、ご生涯は西本願寺正式ホームページ>
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