『国見山周辺と津田城跡』 (第9回)

2002/6/07(金)

 国見山の展望国見山の展望
 枚方市の最高峰「国見山」とはいっても標高 は286.5mで、すぐ隣の交野山の独特の山影と比べて何の特徴もなく印象の薄い山姿で、枚方八景の一つ「国見山の展望」と名付けられていなければ見過ごされてしまいそうな山です。
 しかし、ここからの展望は河内、摂津、山城を一望でき、西には鷹塚山を頂点とする低い台地が連なり香里丘陵が北に延びています。 さらに淀川を隔てて遙か北摂の連山、少し離れて六甲山塊の美しい姿が見えます。北に目を転じると真下に惣喜池・井出口池、王仁公園の向こうに長尾大池、やや西に山田池公園の緑、木津川、宇治川、桂川の合流地点をへだて京都の市街が広がり、その向こうには比良・比叡の山容を望めます。南東は大和につながる山並みで、その東には南山城平野を貫いて木津川、その向こうには笠置に続く鷲峰山みられます。

国見山山頂津田城跡(古城、山城、本丸山)
 古城(ふるじょう)は、津田集落の南にある地蔵池の向こうの海抜75~90mの丘陵で、ここには平安時代末から延徳2年(1490)、津田周防守正信が台頭するまで、この地に勢力を誇った中原氏の居城があったのではないかといわれています。現在は307号線から津田駅裏に抜ける新しい道路が出来て切り裂かれ、道路脇に津田周防守正信の新しい墓碑が移設され、反対側には由緒の有りそうな大楠の木が残ってるだけです。
古城を切り裂く新しい道路 津田の尊光寺所蔵の「国見城主系図」によれば、延徳2年河内津田に正信公なる人物がやってきて、「国見岳」に山城を築き津田周防守正信と名乗り、津田、尊延寺、芝、穂谷を領したと書かれています。二代目城主 備後守正忠は、招提村敬応寺の蓮如の弟子 連淳と関係を結び門徒勢力の本願寺を後ろ盾に勢力を保ち、三代目城主 周防守正明は、河内飯盛山を拠点として近畿一円に勢力を保ち強大であった戦国武将 三好長慶の招きにすぐ応じたため、津田・牧八郷・友呂岐六郷の土地所有を認められ全盛を誇ったと言われています。
 永禄4年(1561)正明は病死、主水頭正時が四代目を継いだが、永禄7年(1564)三好長慶も病没、その子義継が三好家を継いだが天正元年(1573)河内若江城にいた善継は織田信長によって滅ぼされた。このころ信長は畿内平定のため大阪石山本願寺勢力と戦っており、三好方で本願寺と縁戚関係にある津田氏の居城「津田城」も攻撃目標になり天正3年(1575)信長勢の攻撃を受けて跡形もなく焼け落ちました。
 暫くして後、正時は津田に戻って国見山麓の小高い丘、本丸山に居城を築き、天正10年(1582)明智光秀について戦った津田氏はことごとく敗走したと言われています。これらの城跡は後年発掘調査によって確認され、濠や井戸、鉢、瓶、寛永通宝などが見つかっています。

イオン工学センター 津田サイエンスヒルズ
 国見山の麓に関西学術研究都市の一郭を担う津田サイエンスヒルズがあり、「イオン工学センター」と「阪大自由電子レーザー研究所」の二つの先端技術研究所があります。
阪大自由電子レーザー研究所  その内の一つイオン工学センターは、国の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)と自治体、民間の出資をうけ、松下電器の技術担当専務であった故早川 茂氏が初代の責任者として平成2年オープンした第3セクターの研究所で、イオン工学技術の活用普及を目的に同技術の実用化開発支援の先導的・中核的役割を果たしています。このセンターには兵庫県のスプリングフィールドに次ぐ8MeVのイオン注入装置を始め先端の研究設備、分析機器を保有し、広く内外の利用者に解放し、イオン工学技術の適用化研究を通じて産業基盤後術の発展に貢献しています。
 この研究所では、イオン工学技術により薄膜形成や表面加工、イオン注入や照射により物質の組成、結晶構造、諸性質を意のままに変えて人工的に新しい物質を創造する研究が、松下電器を始め多くの民間会社から派遣された研究者によって進められていました。

春日神社(津田)と三之宮神社
春日神社(津田) 国見山を下りて津田本通りの入口にある大きなショッピングセンター、アルプラザの隣に津田春日神社があります。津田は昔、穂谷にある三之宮神社を氏神として祀っていたが嘉吉2年(1442)三之宮の内宮として津田村内に春日四神を勧請しました。
春日神社本殿と若宮八幡宮 この神社には氏子の祭祀組織である宮座が、茄子作の春日神社、中振のさだ神社と同様に残っている神社で、提灯祭りとも言われ多くの出店でにぎわう秋祭りが、12座ある宮座によって厳粛に執り行われています。神社の本社本殿は春日大社本殿(1766造営)を移したもので、隣の末社若宮八幡宮は春日大社末社三十八所神社本殿を移したものと言われています。

三之宮神社 国見山の麓を廻った穂谷の入口にある三之宮神社は、「屋形大明神」「三之宮住吉大明神」とも呼ばれ、社殿背後に切妻屋根形の巨石が2個あり、この石に太古の人々は神の存在を感じ「磐座」として崇めていたようです。神社は仁徳天皇29年の創建とされ、古くは穂谷・津田・芝(尊延寺)・杉・藤阪の鎮守社でした。
  社殿は平安時代に何度も焼失、延暦14年(795)交野宿禰忠典をはじめ豪族や貴族が競って再興したが、承久の乱(1221)にも鎌倉幕府によって尊延寺とともに焼かれました。このころから津田の中原氏を中心に農民が修復に加わり、陰石の屋形石に対し陽石の立石を配し農民達が雨乞いの神体として崇めてきました。
 慶長年間、豊臣秀頼は大阪城鬼門除鎮護のため交野郡の一之宮(牧野坂片埜神社)、二之宮(船橋本町)、三之宮を修復させたことにより、当社に三之宮の社名が定着しました。

枚方市野外活動センター
枚方市野外活動センター 緑の広場に林間学校の小学生枚方市野外活動センターは国見山の南側の山中にあり、穂谷から棚田の急坂を15分ほど登り詰めたところにあります。足の便は悪いが一度訪れた市民は「素晴らしい自然に触れて心が洗われた」と話されます。この時期には枚方市の小学五年生の林間学校として賑わっています。
 この施設は昭和45年に建設され、面積は18.3ヘクタール、自然林や地形をそのまま活かして、メインホールを中心に三つのキャンプ場や二つのキャンプファイアー場、天体観測棟、アスレチックコースなどが完備した施設になっており、「HAO!!」の愛称で親しまれています。

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サイエンスヒルズから見た国見山
津田サイエンスヒルズから見た国見山、鉄塔の奥が津田山城のあった山頂、少し右手が後の津田城があった本丸山
国見池
登り口の所に草むらに囲まれるように国見池があり、放流され自然に育ったヘラブナをつる釣人がのんびりと棹をたれていた
大阪環状自然歩道
サイエンスヒルズの給水棟裏から、金剛山に続く大阪環状自然歩道があり、良く整備された道が国見山山頂へと続く
杉の植林
昔は各部落の入会権で争いがあったという良く整備された国見山中腹の杉林
津田周防守正信の新しい墓碑
古城(ふるじょう)のあたり、307号線から津田駅裏に抜ける新しい道路脇に城主津田周防守正信の新しい墓碑が移設されていた
古城あたり
墓碑横の階段を上ると竹藪の中にいくつかの墓石があり、このあたりが中原氏の居城のあった古城と思われる
イオン工学センターロビー
イオン工学センターのロビーに「イオン工学の将来展望」のパネルと開発品が展示されていた
研究開発品の展示
イオン注入によって表面だけ別の組成になった切削工具類が開発品として展示されていた
研究棟の内部
松下を定年退職後も主幹研究員として活躍されている小山さんが研究棟をご案内いただいた
イオン注入装置
色んな種類のイオン注入装置があり、民間の利用者もレンタルで使用することが出来る
8MeVのイオン注入装置室
兵庫にあるスプリングフィールドに次いで高速イオンを扱える8MeVのイオン注入装置操作室、放射線が出るので隔離されている
春日神社(津田)拝殿
提灯祭りとも言われ多くの出店でにぎわう秋祭りが、12座ある宮座によって厳粛に執り行われる春日神社拝殿
拝殿内部
拝殿内部の絵馬や額は、彩色も薄れて殆ど読めない状態で歴史の重みを感じさせる
三之宮神社拝殿
社殿は平安時代に何度も焼失、豪族や貴族が競って再興したが、承久の乱のころから津田の中原氏を中心に農民が修復に加わり、雨乞いの神社として崇めてきた
三之宮神社本殿
三之宮神社本殿背後には屋形石があり、この石に太古の人々は神の存在を感じ「磐座」として崇めていた
野外活動センターへの棚田の道
穂谷から棚田になっている急坂を15分ほど登り詰めると枚方市野外活動センターがある
緑の広場の村旗掲揚台
枚方市野外活動センターの入口を入ると緑の広場がありHAOの村旗が掲揚されている
メインホール
メインホールには400名収容のオリエンテーションホールや研修室がある
メインホール玄関
メインホール玄関を入ると広いロビーになっている
センターマップ
センターの総面積は28.3ヘクタール、キャンプ場、ファイアー場、広場、アスレチックコース、天体観測棟などがある
第一キャンプ場
第一キャンプ場は愛称「動物の村」、立派なロッジ5棟が並んでいる
第一キャンプファイアー場
メインホールのすぐ上にある第一キャンプファイアー場、ボランティアの学生が林間学校の子ども達用のファイアーをセットしていた

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