『万年寺山古墳』 (第6回)
2002/2/15(金)
意賀美神社の梅林
ほのかな梅の香りが、未だ肌寒い淀川越しの風に乗って漂ってくる。立春は過ぎたとはいえ余寒が残る意賀美梅林には約百本ほどの紅梅、白梅が香り高く花を咲かせている。この梅林は、25年ほど前に植えられたもので立派に成長し市民に親しまれている。
枚方八景の一つ「万年寺山の緑陰」は京阪枚方市駅のすぐ南西にあるこんもりと常緑樹の茂る丘である。
天の川の西に広がる枚方丘陵は南北5km、東西3km、高い所で鷹塚山など標高65m位の起伏を繰り返しつつ突端は淀川にまで至っている。その最北端に淀川を見下ろす万年寺山(標高37.7m)がある。この山は古くは古墳、長松山万年寺、お茶屋御殿、須賀神社、枚方小学校と様々に利用され現在は最高部に意賀美神社、一段低いところに梅林が広がる。
長松山万年寺
式内意賀美神社(おかみ)は明治42年(1909年)に伊加賀の意賀美神社(低区配水池)、三矢の須賀神社(祇園社)、岡の日吉神社を合祀して現在の所に移された。二の鳥居の左側に長松山万年寺と刻む石標と先の崩れた十三重の石塔がある。
梅林のあるところは万年寺の伽藍跡らしい。言い伝えによると推古天皇の頃、高麗の僧「恵灌」がこの地の風景が唐の林岸江に似ていることから草庵を建てたのが始まり。長松山万年寺の名前は惟喬親皇の鷹が巣を作った老松(根上の松)にちなんで長松山と名付けられ、この地で万年通宝を鋳造したので万年寺と呼ばれるようになったと言われる。醍醐寺の末寺で真言宗の密教系寺院あったが、明治3年(1870年)の廃仏毀釈によって廃絶し、本尊や住民に親しまれた晩鐘の鐘楼は浄念寺に移された。
茶屋御殿と枚方小学校
梅林の西に突き出た丘は御殿山と呼ばれ、お茶屋御殿があった。豊臣秀吉は、枚方城主本多内膳正政康の娘、乙(おと)御前を愛し、天正13年(1585年)にここに御殿を建て京の行き帰りに立ち寄ったという。この御殿は延宝7年(1679年)枚方宿の大火で類焼した。
またこの地は、明治25年(1892年)から大正15年(1926年)まで枚方小学校の校庭の一部だった。明治37年1月22日に運動場を拡張する工事中に、大きな木板の上に銅鏡と鉄刀等の遺物が載せられた物を偶然に掘り出し古墳と判明した。
万年寺山古墳は、様々な形で利用掘削されているため、墳丘の形態は明らかではありませんが、前方後円墳であったといわれています。 内部構造についても同様で、石材が認められず、木棺の破片と思われる木材が出土していることから、粘土槨で割竹形木棺(コウヤマキをくりぬき二つ割りにした木棺)を用いていたのではないかと考えられています。
万年寺山古墳
前期古墳(3世紀末から4世紀)から出土する代表的な遺物に青銅鏡があり、この古墳からも8面の青銅鏡が出土しました。出土した8面の内6面が周縁の断面が三角形を呈する三角縁神獣鏡で、1面は三角縁龍虎鏡であったことは良く知られています。なお他の1面は平縁であったといわれ、現在東京大学理学部人類学教室に保管されているのは、7面で残る1面の所在は不明となっています。
三角縁神獣鏡は古代中国の魏の鏡であり、中国の「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王卑弥呼が使者を魏の国に送り、魏の皇帝より下賜されたもので、大和政権が地方豪族の首長に対して、服属した代償として下賜したものであるといわれています。また三角縁神獣鏡は1枚の鋳型から5枚を限度として鋳造したものを同笵鏡と考えて居られるようです。
この古墳の被葬者がどの様な人物かは明らかになっていませんが、淀川に臨む交通の要衝の丘陵上に築造されており、同笵鏡の分有から広い範囲でつながりを持っている事など、水上交通及び軍事的要所を支配する相当有力な豪族であったと思われます。
古墳の所在する伊加賀の地には、片野物部の祖とされる、伊加賀色男命(しこおのみこと)の居住地であったという伝承があり、天野川上流の磐船神社は物部の祖、饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨した場所という伝承を持っており、万年寺山古墳と物部氏との関係が注目されます。天野川流域の前期古墳には石室は見つかって居らず、粘土槨しかないのはこの流域を支配していたこの豪族の特徴と見られます。