『進化する香里団地』 (第3回)
2001/11/13(火)
季節を映す並木の紅葉
秋も深まり枚方八景の一つになっている「ケヤキ並木」には、成長した大ケヤキが新香里中央線(ケヤキ通り)を覆うように見事な紅葉で彩られ、深まり行く秋を知らせて心を和ませてくれます。
香里団地にはこのほかに、中振交野線(いちょう通り)のまばゆい銀杏の黄葉、枚方新香里線の桜並木の艶やかな深い赤、新香里北線のみずきの紫がかった赤と緑のグラデーションの並木など、花や新緑の季節とは異なった景観で、市民の目を楽しませてくれています。また「以楽公園」や「中央公園」など16ヶ所もある公園が、それぞれに市民の憩いの場となっています。今回はベッドタウン枚方市発展のきっかけとなる、香里団地の誕生と進化について取材しました。
軍需工場から平和の町へ
枚方川越地区の中央を流れる天野川と藤田川沿いの北と南西に広がる平野には、2000年を越える北河内の歴史とともに、のどかな農村地帯の古い村落があり、その南に香里丘陵が広がっていました。
この平和で静かな枚方にも明治中期から陸軍の禁野火薬庫がおかれ、昭和12年(1937)に日中戦争が始まると陸軍造兵廠の枚方製造所・香里製造所が建設されました。禁野火薬庫は昭和14年春に大爆発事故を起こし、市民にも多くの被害が出ました。東京第2陸軍香里製造所は火薬の製造を担当し、片町線星田駅から引き込み線があって火薬を輸送していました。
第2次世界大戦の終戦と共に工場は閉鎖、昭和27年(1952)朝鮮戦争の特需ブームにのり火薬製造会社が払い下げを申請しましたが、地元住民の激しい反対運動が起こり、議会や市長も国会に陳情、昭和28年ついに政府は火薬工場の再開を断念しました。昭和30年(1955)には日本住宅公団が設立され、その区画整理事業の第1号として香里団地の造成が開始されました。
軍需工場から平和の町へと昭和30年代にこの町は、多くの人々の夢を結集して生まれました。今も当時の火薬製造所の煙突だけが水道局用地となった、香里ヶ丘8丁目の給水タンク用地の一角に平和のシンボルとして残されています。
21世紀にふさわしい香里団地の再生
当初の香里団地は155haの広大な土地に、集合住宅 48ha、1戸建住宅 50ha、公共用地 39ha、公益用地 18ha、計画戸数 5850戸、計画人口 22000人という東洋一のニュータウンを作るというものでした。
昭和33年(1958)A・B地区から順次建設、入居が始まり、昭和42年(1967)新香里バス停、西北の10階建て高層と中層2棟の建設でABCDE地区全てが終了し、33年当時58000人だった枚方市の人口は、これをきっかけに住宅建設が進み、42年には15万人を越える都市に発展しました。
香里団地誕生後、40年を越えて成長した樹木は豊かな景観を育みましたが、住宅としての規模や設備、水準は現在では低いものになりつつありました。この景観を維持しつつ21世紀の生活様式の多様化、高齢化、少子化などの変化に対応するための再生事業が開始されています。
平成4年から計画された再生事業は、翌5年から着手され有識者によって検討されたグランドプランを基に、20年計画で古いものから順に、6500戸の計画戸数の再生事業が展開されています。既に平成10年(1998)にはA地区みずき街が完成し、437戸の入居が終わり、今年はB地区けやき東街も完成し239戸が入居、いまB地区の残りの建設が進んでいます。
いずれも景観を大切にした計画により、樹木や照明、素材や色使いを工夫し、屋外空間や住宅のバリアフリー化、生活支援設備の整備、環境資産の保全、省資源化や廃材のリサイクルなど21世紀の40万都市にふさわしい町造りが進められています。また住宅公団が都市基盤整備公団へと役割が変わり、民間による土地活用もすすみつつあります。