集合地の崇禅寺駅名の由来となった寺へ下見のときに寄ってみた。住宅街の中に立つ大きな曹洞宗の禅寺があった。その境内の片隅に細川ガラシャと足利の何代目かの将軍の墓が並んで建っていた。不思議な珍しいものを見た気がした。
今にも降り出しそうな梅雨の空、崇禅寺駅近くの柴島(くにじま)浄水場の入口あたりの狭いところに集合する。1945年(昭和20年)の6月7日の今日、猛烈な爆撃にあって炎上したと門前の碑が伝える。その脇に爆弾が当たったコンクリートの柱がある。遠い昔のことではある。出足が遅い。「この調子だったら、ええとこ50人位だぜ」といっていたら、ギリギリになって野鶴世話人が中振5人娘ら20数人を連れてドヤドヤと現れた。阪急淡路駅で電車に乗り間違えて、あらぬ方向に行っていたらしい。何分そういうけったいなところなのだ。
道に1mほどもある大きな焼き物が点々と埋め込まれており、それを伝っていくと柴島神社に入ってきた。どうもこの神社への導線であったようだ。近隣では信仰の厚い神社らしい。淀川の堤防に出て、いっぺんに景色が変わってきた。しばらくは上流に向かって歩く。やがて赤川鉄橋が見えてきた。何でも1日に2〜3本くらいしか通らない貨物列車、その脇に2mほどの歩道があり、今はこちらの方が活躍していそう。いつの日か新大阪から人の乗る列車が走るという。600mの長い鉄橋を渡り対岸に来た。ここには河川敷の公園があり、早速トイレに駆け込む人が多い。広い広い河川敷の道をのんびりと歩く。
前方に淀川を仕切る堰が現れこれを淀川大堰といい、大規模な設備が拵えられておりさすがと思う。ここから堤防に上がる。蕪村生誕地の碑が立っている。その横に毛馬の閘門がある。大阪の市街に流れ込む淀川から大川の水量調節をするこちらも大規模な施設である。やはりこの閘門は一見の価値がある。しかし連中はどんどんと素通りする。一度枚方から船で天満まで下ってきた。そのときにこの閘門を通るときに、淀川と大川の水位差を調整するドックのようなところを通った。心配していた雨も何とか免れ、毛馬公園で昼食をした。
ここからは大川端の毛馬・桜之宮公園の緑地を歩く。大都会の中の水と緑と周囲の高層建築群と川を横切るくねくねとした高速道路、あまり騒音、雑踏の匂いもなく、ポカリ空いた大都会のオアシスのようなところ、そんな気がする場所を歩いていく。
真上には伊丹へ行く飛行機がすれすれに何本も通る。しかし飛行機も余りうるさく感じない。桜橋を渡ると終着点の造幣博物館にやってきた。この博物館は一見の価値がある。とにかく貨幣が一杯、秀吉の作ったという天正大判、これ1枚あれば何年も暮らせるという代物もあった。
下見に2回も来た今日のリーダーの藤田さん達、ありがとうございました。 (担当:石田富雄、小郷伸一)
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