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<行程>阪急嵐山駅 ⇒嵐山公園中之島地区集合 ⇒嵐山公園亀山地区 ⇒野宮神社 ⇒野宮児童公園 ⇒トロッコ嵐山駅 ⇒落柿舎 ⇒長神の杜(昼食)⇒現地解散
<行程距離>約4Km <参加者>131名
昨日は木枯らし一号が近畿地方に吹き荒れた。一気に冬の気候になり、今朝はさすがに寒々としているが、陽射しは温かく、風も無く絶好のウォーキング日和となった。阪急電車嵐山線嵐山駅集合で、乗り換えも多く枚方から1時間以上はかかるにもかかわらず、参加者は131名と、今年の平均参加者を越える人気となった。秋の嵯峨野路の魅力と天候のおかげだろうか。
嵐山駅の駅頭広場では、阪急電車のレールウェイショーが開催されるとのことで、多くの職員が電車の前面を看板にした舞台装置の設置中だった。今日の集合場所は嵐山公園中之島地区、桜が見事に紅葉した広い河川敷公園の一角で、ここなら大人数でも迷惑はかからない。文化の日の祭日とあって人出は多く、中でもくらわん会が一番目立つ存在だった。観光地を歩く一日とあって、担当リーダーの山内さんからコース紹介と併せて、「みんなの迷惑にならない歩き方」をとの注意があった。
現在の渡月橋は、平成13年(2001)完成した橋で橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製だが、欄干部分は景勝地の風景にとけ込むよう木造で、映画やテレビドラマの撮影で多用され、観光地としての嵐山を象徴する橋である。承和年間(834-848)に僧、道昌が架橋したのが始まりで、後年、現在の位置に角倉了以が架けたとされる。角倉了以(すみのくらりょうい)は戦国期の京都の豪商で、幕命により、大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行い、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名で、橋の袂には石像が建っている。
くらわん会の長い行列が、早速この橋を渡る。下を流れる川は、この橋までは通称大堰川(おおいがわ)と呼ばれるが、上流は上桂川、桂川、保津川(ほづがわ)などと名を変え、嵐山から合流地点は再び桂川と呼ばれる。(国土地理院では明治29年以降は桂川と統一)
観光客が多いことを予測して、川沿いに左折し左岸を嵐山公園亀山地区に向かう。きれいに整備された川沿いには、有名料亭が立ち並び人力車がたくさん客待ちしていた。対岸の色づき始めた山肌、堰き止められた流れが白い飛沫を上げ、遊覧の屋形船や保津川下りの船が浮かぶ風情など、古の貴族が遊覧したのもうなずける。のんびりゆったりした川沿いから、一気に急な石段の登りに入る。登り詰めた所が、嵐山公園亀山地区で紅葉の名所でもあるが、まだ少し時期が早かった。
公園からトロッコ嵐山駅に向かって少し行ったところで右折して、嵯峨野の名物竹林の道を行く。柴垣に囲まれ覆いかぶさった竹林の道は、昼だと言うのに薄暗く風情はあるが、これだけ大勢で歩くと軍隊の行進のようでやや情緒を損なう。やはり恋人同士か恋に破れた一人旅が似合う路かもしれない。
やがて右手に天竜寺北門前を通過する。京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)といい、暦応2年(1239)に吉野で不遇の中に崩御された後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。かっては嵐山全体がこの寺の境内で、現在でも広大な境内を持ち正面である総門、勅旨門は嵐電嵐山駅前にある。庭園や建造物など見所が多く、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
門前からさらに竹林を行くと、こじんまりとした野宮神社(ののみやじんじゃ)に着くが、くらわん会の一行はあまりに多くて神社に入りきれない。伊勢神宮に奉仕する斎王(皇女、女王の中から選ばれる)が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられる。嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地。源氏物語、謡曲野宮でも有名で、嵯峨野巡りの起点として多くの女性が訪れ、えんむすびの神様、子宝安産の神様として全国から崇敬を集めている。
観光客の邪魔にならないように、早々に野宮神社を出て、JR山陰本線の踏切を渡り左折して、トロッコ嵐山駅に向かう。駅手前の野宮児童公園で小休止、トロッコ駅でトイレを使わせてもらう。嵯峨野観光線は、トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの7.3kmを約25分で結び、春は山桜と新緑、秋は絢爛の紅葉、四季おりおりの保津川渓谷の美しさが満喫できる観光列車です。
駅前を通過してすぐに小倉山の麓に抱かれた小倉池と御髪神社(みかみじんじゃ)にでる。日本唯一の髪の神社の祭神は、日本最初の髪結いとされる藤原采女亮政之公を奉り、髪を副神として納祭する髪塚がある。全国の理容美容業者から厚い信仰をうけ、ご利益を求めて、髪の毛を増やしたい男の方の参拝があるらしい。小倉山周辺は、よく言えば陰影豊かだが、天候と人によっては不気味ささえ漂う、平安の人々が信じていた物の怪を連想させるところだ。
小倉百人一首を編纂した藤原定家の屋敷跡、紅葉の名所、常寂光寺の門前を右折して、落柿舎(らくししゃ)に向かう。落柿舎の門前には広い畑が残っていて、裏山の紅葉や嵯峨野らしい長閑な風景の中に溶け込んでいる。江戸時代の俳人・向井去来 (むかいきょらい) の庵で、芭蕉も旅の途中で何度もここに滞在し、その頃の様子は「嵯峨日記」にしたためられている。庭の片隅には「柿ぬしや 木ずゑは近き あらしやま」と記された句碑が建ち、落柿舎のいわれは、庭の柿を売る契約をしたのちに、柿がすべて台風で落ちてしまったためこう呼ばれたという。去年の12月から庵の大規模な修復工事が行なわれ、この10月からオープンしたばかりだった。
落柿舎を右に折れ裏手に回り天台宗の二尊院に向かう、すぐ手前の広い空き地になっている長神の杜で昼食を取り、昼食後、各人の好みに合わせて嵯峨野めぐりが出来るよう自由解散となった。しっとりとした嵯峨野を垣間見ることが出来た一日だった。
さらに北へ仏野念仏寺(あだしのねんぶつじ)から鳥居本まで足を伸ばした。仏野念仏寺には、化野に散在していた無縁仏、石仏、石像約 8,000
体を集め供養、毎年8月23・24日に千灯供養が行われ、たくさんの石仏に一斉にろうそくが点灯され幻想の世界をみせる有名なお寺である。さらに念仏寺から奥へ、嵐山・高尾パークウエイの奥嵯峨橋をすぎて鳥居本・上地区、鮎料理の平野屋の辺りまで行くと、茅葺の民家が点在し京の山里の雰囲気を色濃く醸し出していた。
<取材担当:安井重仁、冨田朝己>
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