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<行程> (ここをクリック)⇒コース地図 京都地下鉄・丸太町駅 ⇒ 京都御所南入口集合 ⇒ 中立売門 ⇒ 一条通 ⇒ 一条戻橋 ⇒ 堀川通を北上 ⇒ 紫式部墓 ⇒ 北大路通へ左折 ⇒ 船岡山公園(昼食)⇒ 北大路から西大路へ左折 ⇒ 平野神社 ⇒ 北野天満宮(一次解散)⇒JR・二条駅(解散) <距離> 約8km <参加者数>143名 集合場所の京都御所南側入り口附近は、紅梅白梅が七分咲きだった。天気晴朗なれど京阪電車の、信号作動事故のため開会を10:10迄延期した。しかし参加者は時間とともに尻上がりに増加し143名を数えた。 朝会では多数回賞表彰が行われ、本日のリーダからコース説明、再度「松愛会110番」カードの追加配布等があり出発。 京都御苑は明治2年の東京遷都までは、200軒の公家屋敷が立ち並ぶ公家町だった。遷都の後、荒廃した御所を明治10年に還幸された天皇が整備の沙汰を下され、現在のような皇室御苑として整備されていった。東西700m、南北1300mの御苑のうち御所を除いた65haが国民公園として整備されている。 堀川通は車も多く、しばらく日当たりの良い東側歩道を北上すると、すぐに左側道路越しに「晴明神社」がみえる。晴明神社は阿倍晴明の屋敷跡であり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所である。晴明公が亡くなられた後、一条天皇は晴明公の遺業を称え、寛弘4年(1007年)そのみたまを鎮めるために晴明神社を創建された。古い資料によれば東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大な地域が神社の土地であったとされている。 船岡山は大徳寺の南に横たわる標高112m余りの小丘で、その地形が船に似ていることから「船岡」と呼ばれるようになった。京都市が大徳寺の所有地だったこの山を借地して公園とし、昭和10年に開園したのが、この「船岡山公園」で西側は公園として市民の憩いの場となり、東側には織田信長をまつる建勲神社(通称「けんくん神社」 正式には「たけいさお神社」)がある。この公園からは五山の送り火がすべて見られることでも有名。 北大路を西へ、右前方に左大文字(大北山)が一望出来る。やがて西大路に曲がり桜にはまだ早いが、桜の名所、平野神社の境内を横切って、天満宮裏から今日の最終目的地北野天満宮境内へ入る。境内には紅梅、白梅がところ狭しと咲香り、平日にもかかわらず大勢の花見客で賑合っている。天気晴朗、カメラ好きにとっては絶好の日である。観光客の手にはあちらも、こちらもデジタルカメラ、一大産業に育ったのもむべなるかなである。 (安井重仁・梅原光弘記) |
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京都御苑南口付近に143人が集合、高濱リーダーからコース説明 |
京都御苑は明治の東京遷都までは、200もの宮家や公家の邸宅が建っていた場所、明治の中頃から御苑として整備、御所を右に見ながら中立売門に向かう |
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中立売門売店で早くもトイレ休憩、まだまだ冷え込むとあって長蛇の列となった |
御所の一般参観に使われる清所門に近く、大きな駐車場と休憩所がある中立売門から烏丸通へ出る |
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烏丸通を一条通に向かう |
一条通を一条戻橋に向かう |
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一条戻橋横に掲げられた橋の由緒 | 堀川今出川陸橋で堀川通西側歩道に渡る |
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堀川通西側歩道をを北上 |
ビルの谷間に何故か京の町屋が残っている |
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島津製作所紫野工場 |
島津製作所前のすぐ横に源氏物語を書いた紫式部と博識多才の参議小野篁卿の小さな墓所がある |
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二つ並んだ墳丘の左側が紫式部の墓 |
北大路に出ると左大文字の火床が見えてきた |
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船岡山公園の展望台から比叡山と大文字山が見える | 船岡山公園で昼食中 | ||
昼食が終わって船岡山公園に再集合 |
昼食を終えて船岡山公園を出発 |
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再び北大路に出て西大路に向かう |
西大路に曲がると左大文字の火床がすぐ近くに見える |
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西大路を平野神社裏までやってきた |
独特の桧皮葺きの屋根と鬱蒼とした木々が見事な平野神社境内を抜ける |
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西陣名技碑がある北門から境内に入ると梅の香が一杯 |
境内のあちこちにある撫ぜ牛と香りを漂わせる梅の花 |
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『天満宮』の勃額を掲げてある中門、この四脚唐門は「三光門」ともいう(重文/桃山期) |
梅の花の香りと色に浮かれているような狛犬 |
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撫で牛の像は、菅原道真公が亡くなられたのが丑の年、丑の日、丑の刻というところから奉納された |
「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」と詠まれた菅原道真公は、ことのほか梅を愛された |
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「文道の大祖 風月の本主」の額が掲げてある楼門の前には出店が並ぶ |
有料の梅苑では、道真公の祥月命日の2月25日には約900年もの古い歴史を持っ梅花祭が行われる |